西暦1600年、天下分け目の関ヶ原の戦い。
これによって勝利を収めた東軍によって徳川の時代、江戸時代がやってきて、それが近代の日本の礎となっている。
わずか数時間の戦いではあったが、当時の日本を代表する戦国大名がここに集結し、二転三転するすさまじい攻防を繰り広げたことは、後世で耳にする僕も血がたぎる。
今の関ヶ原は、戦国大名の陣跡などは示されているものの、そんな大合戦が行われた痕跡はほぼない。…が、1つだけ例外がある。「関ヶ原ウォーランド」だ。関ヶ原の戦いを再現したテーマパークだ。
天下分け目の戦いに「ランド」なんて名称をつけてしまっている点に、日本がいかに平和な世界になったかをひしひしと感じるね。
そんな関ヶ原ウォーランドに行ってみた。結構スパイシーだぞ、ここ。いわゆる珍スポットだぞ。超有名な珍スポット。しかもかなりシュール。
今回はそんな世界をご紹介していきたい。それではいざ出陣 !
すごい迫力だが、どっか変だ…
関ヶ原ウォーランドは、実際の各戦国大名の布陣をギュッと圧縮した感じで作られている。だからそのあたりを踏まえると、より散策を楽しめると思う。
だが、僕はあえて何も知らずにウォーランドに突っ込んだ人の目線で語りたい。だって僕自身がそうだったのだから。
いきなりクライマックスだった。
もう誰も彼もが血気付いていて、次の時代を我が物にしようと必死のテンションであった。そんな中でオドオドしているのは僕1人であった。
自分が東軍なのか西軍なのかもわからない。所在がない。「あのー、僕は何をお手伝いすればよろしいのでしょうか…?」って聞いても無視される、新人バイトみたいな気持ちだ。切ない。
クラスイベントがあるというのに、当日に遅刻してきてしまった気分だ。周囲のテンションについていけず、状況も戦況も飲み込めない。役割がない。
でもそれを顔に出すのもシャクなので、「自分はこうして俯瞰して眺めているのが仕事ですけど?」的な立場を装う。あなたもそういう経験、ありません??僕は根は陰キャだから、しばしばそんなことがあったほろ苦い記憶と共に人生を歩んでいるよ。
短い動画も撮影してみた。やたらとカシャカシャした音が響き渡っているのは、風鈴の音だよ。梅雨時だったためか、各所に風鈴が飾られていたのだ。そこいらのことは記事の終盤で触れていこうと思う。
ところでだ。関ヶ原ウォーランドは冒頭でもふれた通り、世間では珍スポット的な扱いをされている。それがなぜなのかというと、この武将たちが絶妙にシュールな顔立ちをしているからだ。
それらをご紹介していきたい。
全部で200体以上は余裕でいるというコンクリート製の武士たち。彼らのポーズや表情は殺伐とした線上においてもどこかコミカルであり、そしてシュールでもあるのだ。珍スポットマニアの我々は、それらを眺めるのが大好物なのだよ。
…てゆーかこのおっさん、股間から苗木が育ち始めているけど大丈夫か?
マンガみたいなフォームでスタコラ走っている兵士。緊張感があるのかないのか…。
これらの中から自分だけの推しを見つけ、一緒にユニークなポーズで写真とかみんな撮ればいい。僕は恥ずかしいからやらないけども、それがここウォーランドの正しい楽しみ方の1つだとは認識している。
地肌なのか微妙に区別がつきづらいが、すごく黄色い人もいる。パンツはパステルブルーであり、戦国の世においては斬新すぎる色遣いだ。当時本当にこんな人がいたら、真っ先にターゲットにされるぞ。
…と思ったら結構ヤバい目つきをしている。コイツ、完全にパキってるぞ。コイツをターゲットにするのはやべぇ。服は黄色とパステルブルーだし。
こんな個性あふれる武士たちなのだが、誰がこれを造形したのかというと「浅野祥雲さん」だ。
珍スポットマニアには有名なコンクリート仏師の浅野祥雲さん。昭和時代の前半から中盤にかけて活躍した人で、味わいあふれる彫像が今も随所に残っている。静岡県の「熱海城」や愛知県の「桃太郎神社」の彫像が有名だよね。
そんな中でも、浅野祥雲さんの作品を最もたくさん一気に見れるのはもちろんここ。浅野祥雲ファンにとっては聖地なのだ。関ケ原の戦いを学ぶというより、ニヤニヤしながら浅野祥雲の作品を見て回るのが楽しいのだ。
あ、ほら貝から植物が生えて植木鉢みたいになっているよ。こんなほら貝でちゃんと音、出るのか?開戦の合図、行き届くのか?…こういう屋外ならではのハプニングを探してみるのも面白いかもしれない。
なんだかんだで控えめな自撮りもした。
そして帰宅後に気づいたのだが、写真右端に小さく映っている武将、大人気のヤツだね。この武将とハイタッチするような写真を撮るの、定番だよね。まぁ知っててもやらなかっただろうけど。1人だとなかなか恥ずかしいものよ。
関ヶ原で有名武将は何をする?
次はモブではなくって有名武将にスポットを当てていこう。名だたる武将たちは関ヶ原で一体何をしていたのか。それらを探し歩くのもまた楽しいのだ。
まずは東軍のボス、徳川家康だ。のどかな芝生の広場でピクニック…ではなく、たぶん自陣で配下たちと戦局を見定めているのだろう。
浅野祥雲さんが製作するとどうしてもほのぼのしたテイストとなってしまうが、東軍と西軍の優劣は数時間のうちに二転三転しているので、実際は手に汗握るヒヤヒヤものだったと推測する。
…と思って近づいたらら違ったわ!生首と対峙していたわ!
いい首を入手したので鑑定していたのだろう。つまりは首実検ってヤツだ。どうやら戦いは優勢に進んでいる様子だ。
なんだか薄ら寂しいところにいて背後は薮で、家康とずいぶんロケーションの違いがあるぞ。これは西軍が本陣を置いた「笹尾山」をイメージしているのかな?
西軍の前線では島左近がぶざまに転げているー!!かわいそう!あと、なんかすごく色黒!
島左近、西軍の名軍師なのに!戦闘力もすさまじく、徳川がマジ鳥肌立ったと後世まで語り継いだくらいの猛将なのにー!彼は残念ながら関ヶ原で戦死するのだ。
「関羽かな?」ってくらいに立派な髭を生やしているのは、戦国時代最強の武将である本多忠勝だ。兜、どっかに置いて来ちゃったか?あのノコギリクワガタみたいなすんごいギザギザの兜、今こそ被るときじゃないのか?
あと武器が天下三名槍の"蜻蛉切"じゃないぞ。蜻蛉切でザコ兵たちをバッサバッサと切り裂いてほしいのに。
長宗我部盛親だ。ここは南宮山をイメージしているらしい。
毛利軍や吉川軍や安国寺軍など共に南宮山に陣取っていた大勢力だね。アレコレ事情はあるのだが、本来西軍であったこの大群が終始この山で静観していたのが西軍敗北の大きな要因の1つだ。
上の写真では長宗我部盛親は「やってやんよ!」みたいなテンションだが、実際は全く動いていなかったよね?
山内一豊。南宮山のふもとで山中の陣に目を光らせてはいたけど、実際にバトルには参加しなかった武将だよね?馬に乗ってメッチャ勇ましい風貌を見せてはいるが、手は綺麗なままなのだぞ。
ある意味賢い。僕もそうでありたい。
大谷吉継ーーッ!自決する瞬間じゃないか、なんてこった。
西軍の人だね。石田三成のたった1人のマブダチで、関ケ原の戦いを辞めようと諭したのだが、光成が止まらないから友のために参戦した、アツい武将だよね。
病気を患っていてまともに動けずに輿に乗って指揮を取ったりしつつ、序盤はすんごい優勢を築いたのだ。最期は小早川の裏切りで崩されたけど。
宇喜多秀家。西軍の主戦力の1人だね。福島正則との超激戦を繰り広げたけど、決着はつかなかった人だ。
西軍敗退後も生き延びており、八丈島に島流しにあってその後50年も暮らしていたんだよ。84歳まで生きたというから、当時としてはとんでもなく長寿だよね。
そして藤堂高虎だ。主君をコロコロ変えることで有名だった高虎さん、このときは最後の主君となる家康に付き従って東軍に所属している。
…が、僕のイメージだと藤堂高虎って武人というよりも築城の達人なんだよな。今治城・宇和島城・江戸城・伊賀上野城・津城…。携わったお城は20以上にも及ぶといわれ、僕もそれらの半分くらいは訪問したことがある。いずれもいいお城だよなぁ。
小西行長もいるぞ。右側ではないぞ、左のひげ面が小西さんだ。
西軍の主戦力の1つではあったけども、朝鮮出兵で疲れ切った状態の軍隊だったよね?残念ながら小西行長も、この敗戦で生涯を終えるのだな。
おぉ、島津義弘。九州の武将だ。僕はこの人、結構好きだぜ。
東軍につくつもりが、なぜか気付けば西軍にいた人。「絶対に逃げ帰る」と心に決め、最高の本多忠勝もいる東軍の中央突破をしてまで戦場をエスケープして九州まで帰った伝説の人。ポテンシャルはメッチャ高いよね。
実は、若き日の剣豪宮本武蔵もいる。そうなのだ、基本的には生涯誰にも仕えなかった宮本武蔵が関ケ原の戦いに参戦していたという説が濃厚なのだ。
東軍だったのか西軍だったのかはいまだに明確ではないが、そういう謎が残っているのもロマンがあっていいと思う。
そして!戦犯小早川秀秋!400年以上が経過した現代においても裏切り者の代名詞、小早川秀秋!
良くも悪くも、コイツの裏切りが日本史を変えたのだ。まぁこの決断が正しいのかどうかは置いておいて、人気は著しく低い武将だよね。やっちまったなぁ、秀秋ィ!
あれ?頬に赤く「×」がつけられているけども、どうした?戦っていないから、関ヶ原で戦ってできた傷ではないよねぇ?
大群を率いていなから、東軍につくか西軍につくかずっと静観していた小早川軍、最後は家康の威嚇射撃にビビッて東軍に下ったと言われている。
当時からこの裏切りは世間のバッシングを受けたそうで、関ヶ原の戦いからわずか2年後に、小早川秀秋は22歳でアル中で死亡することとなるのだ。
…ん?視界に白い毛のついた兜がチラッと見えた。
諏訪法性兜だ。チベットに生息するヤクの毛を使った2つとないレアな兜…。その兜をかぶる武将は1人しかいないが、いや、彼はすでに死んでいるはず…。
関ヶ原の17年前に死没しているが、なぜかこの戦場に降臨しているぞ。そりゃあもう信玄が来てくれればテンション上がるけども、なんでなんで??
亡霊だったー!「もう争いはやめい!ノーモア関ヶ原合戦じゃ!」とか言ってる!
時空を超えて信玄が舞い降りたのだね。家康は信玄のことを死ぬほど怖がっていたので、本当に降臨したら1人で戦場をひっくり返すほどの影響力を持っていただろうね。
他にもいろんな武将がいて、いろんなドラマがある。
だが、それら全ての写真はとてもご紹介しきれないので、あなたがもし気になるならば是非ご自身で現地に行ってほしい。きっとあなたの推しの武将もそこにいるから。
僕はね、なんとなく西軍に肩入れしてしまう。もし西軍が勝っていたら…。歴史に「if」はないけれども、そういうことを考えるのが好きだからだよ。
関ヶ原を通じて平和を知る…
和傘と風鈴のイベント
では、最終章では戦場以外のお話を中心にしてみようか。
まずは「ウォーランド和傘物語」だ。ご覧の通りかわいい和傘が展示されており、SNS映えする。
どうやら2024年にスタートした企画であり、春から秋にかけて行われているのだそうだ。夜にはライトアップもするそうだよ。そりゃ幻想的であろうなぁ…。
関ヶ原のコンクリ人形たちはいつだって不変だが、こういう季節限定の企画も行われていたりするのだ。そりゃあね、コンクリ人形にサンタの格好をさせるわけにはいかないからね、それ以外のところで変化を見せないとだもんね。
敷地に入ってすぐのところにある屋内施設には、このように照明を当てられた和傘がビッシリだ。これだけでもかなり見ごたえあると思うよ。
この屋内展示は、2025年からの新エリアだそうなのだ。その数は300本以上だ。
岐阜県は歴史のある和の文化が多くあるので、それをかたちとして表現したかったという思いが1つ。さらにもう1つは、このウォーランドを通じて平和の大切さを知ってほしいという思いから、平和の"和"をテーマにしたらしい。
それと、僕の訪問時には風鈴まつりも行われていた。
6月の月初から9月末まで行われている祭りで、僕が訪問したのはその初日の朝。なので現在進行形でスタッフさんたちが風鈴を設置している光景を見ることができたよ。
関ヶ原の合戦上内部の全長200mの回廊の天井が、一面の風鈴。風で爽やかな音色を奏でている。その数は6000個もあるのだという。
厄を払い福を呼び込む風鈴、夏にはピッタリのイベントだったな。
戦争のない世の中への願い
関ヶ原ウォーランドは1964年に開園した。もう60年以上も経っている、超老舗のテーマパークだ。
これだけの歴史を持つテーマパークは珍しいよな。しかも失礼な言い方になってしまうかもしれないが、メジャーではなく珍スポット的な位置づけなのに、この長寿っぷり。
創始者であり初代館長であった人は、現在の館長のおじいさんにあたる人だそうだ。
もともとは第二次世界大戦中に特攻隊だったんだけど、出撃することなく終戦を迎えることができたという人だ。
ご自身の戦争体験と、多くの戦死者を出した関ヶ原の戦いとをリンクさせ、「戦争のない世の中を実現するためにも、戦争のことを知ってほしい。教訓として関ヶ原の戦いを形に残したい。」という想いでここを造ったのだそうだ。
つまりは前述の武田信玄の亡霊が叫んでいた「もう争いはやめい!ノーモア関ヶ原合戦じゃ!」こそが、初代館長の想いを代弁していたのであろう。
現に初代館長は、この敷地の隣に関ヶ原の戦いの戦死者を弔うためのお寺まで作っているのだから。戦がテーマのスポットではあるが、根底は平和への想いだったのだ。
そんな背景を知りつつここを巡ると、また違った発見があるかもしれないね。
ただ、さすがに60年も経過してコンクリートの像もずいぶんくたびれてきている様子だ。
ボランティアの人が中心となって数年に1回は塗り直しなどしてくれているようだが、そもそもコンクリート自体に寿命があるもんねぇ…。塗装以前に像そのものの経年劣化が見え隠れしている部分もある。
浅野祥雲さんが像を造ったからこそこれだけの味わいがあり、この知名度があると思っている。だからおいそれと像を新調するわけにもいなかないかもしれないね…。それが今後の課題かも。
あ、最後に余談だが、敷地内には関ヶ原の戦いとは関係のないエッセンスもある。それが「十九女(つづら)池の美女と大蛇」だ。
池は干上がって草ボウボウであり、大蛇は完全に龍のデザインであるが、それらもここに表現されている。ちなみに十九女池は関ヶ原に実在する池の名前だよ。
関ヶ原の戦いよりも100年もあとの時代だが、ここいらの民家に若い美女がたびたび「お椀を貸して」って言ってやってくる事象があったそうだ。
この美女、なんか生臭いスメルがするので「もしかして人間じゃなくて大蛇なんじゃない?」って民家の人は考え、あるときお椀にこっそり針を仕込んだのだそうだ。なぜなら大蛇は鉄が嫌いだからだ。
するともうお椀を借りにやってくることはなくなった。やっぱ正体は十九女池に住む大蛇だったらしい…っていう伝説だ。
なんでお椀が必要だったのかとか、意図が汲み取れない部分が何箇所かあるが、この関ヶ原ウォーランドにおいて唯一の女性キャラだから取り上げた。初代館長も「さすがに1人は女性キャラを配置したい」みたいに考え、この逸話を組み込んだのかもしれない。
そんな関ヶ原ウォーランド。歴史好きも珍スポット好きもぜひ訪問して盛り上げてほしい。それがきっと、平和な時代の実現につながるから。
以上、日本7周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報