相馬市には、「百尺観音」という山肌に彫られた観音像がある。いや、正確に言うと彫ってる途中の観音像がある。
どのくらい前から彫っているのかというと、約90年前に1人の男性が彫り始め、その後に子から孫…というように4代に渡って彫り続けているという壮大なロマンの物語。
でもロマンのひとことでは片づけられないのだ。彫られているのが山肌なので、風雨の影響でどんどん壊れてきている。東日本大震災の影響も大きかった。

なので「"90年分の作業"-"70年分の崩壊"="20年分の完成度合"」みたいなズルッズルの状態なんだ。でも気になる。非常に気になる。
今回は、そんな百尺観音を追いかけた話を執筆しようか。
プロローグ:震災前の出会い
東日本大震災のちょうど1年ほど前、2010年に僕は百尺観音に出会っている。
大寒波の福島県浜通りを凍えながらドライブしていたときだった。すんごい積雪で、そのせいか国道6号は大渋滞だった。ノロノロ走っているうちに、あっという間に日が暮れたさ。

国道沿いに百尺観音の案内看板が出てきた。すごくわかりづらい。渋滞ではなく空いていたら見逃してしまいそうな看板と脇道だった。
渋滞を回避し、そちらにハンドルを切る。
数100m走ると一面が雪の広場が現れた。
ぶっちゃけ、真っ暗すぎてここが百尺観音の駐車場かどうかもわからない。街灯とかないし。とりあえず広い敷地があったので「ここかな?」って思って入ったら正解だったらしい。うむ、ここが百尺観音の駐車場だ。

ほぼ真っ暗な中を適当に歩き、前方に観音らしいものがぼんやり見える場所にたどり
着いた。
写真はここにUPするにあたってゴリゴリに補正しているけど、肉眼ではほとんど見えんよ。しかしおぼろげながら巨大な人のかたちのものが前方の暗闇に潜んでいるのはわかる。あ、こういう表現すると怖いな。でも実際怖いよな。ほぼ真っ暗の雪原に1人で、前方に巨大な人型。

近くまでも行けないみたいで、この距離が限界みたいだ。凍える中でシャッターを切った。
あなたに覚えておいていただきたいのが、観音像の左手部分だ。
わかりづらくって恐縮だが、手を胸の前まで持ちあげている様子がおぼろげながらわかるであろう。これが大事。
東日本大震災で崩れた左腕
震災直後、ボランティアの幕間
2011年春。僕は南相馬市の震災復興ボランティアに来ていた。宿はその北側にある相馬市に取っていた。
ある日、宿から南相馬市のボランティアセンターへの出勤前に、百尺観音に立ち寄ったのだ。
当時のボランティアエピソードの詳細や被災地のリポートについては上記リンク先を見てほしい。
上記内でも僕は『「松川浦」・「百尺観音」なども見て回ったが、それは後日別記事としてご紹介したい。』と書いていたね。その約束を、今ようやく叶えることができるのだぜ。

津波に飲まれた景勝地「松川浦」付近を走りながら、一緒にボランティア活動に参加している仲間2人に百尺観音の説明をした。2人とも興味を持ってくれた。
じゃあ行こうぜ。僕も明るい時間に観音を拝むのは初めてなのだ。

百尺観音。
…とはいえ、そのうちの八十八尺までしかできていない。上の写真を見るとわかりやすいと思うけど、足の部分がまだ製作されていないのだ。
1931年(昭和8年)に初代が彫り始めた観音像。1953年には上の写真同様、足の部分を除いて既に完成している状態までいった。
だが二代目は早い時期に亡くなっちゃったし、三代目の時代からは資金不足だしで、一進一退を繰り返しているそうなのだ。だから資金提供のための募金箱も一緒に設置されている。
さらによく見てくれ。左腕が無い。確かあったはずなのに…。

よく見ると左腕の下にガレキが散らばってる。もしかして、これが左腕??
このときはまだ大半の人たちが震災のゴタゴタにかかりっきりで、百尺観音の左腕の話などはWebを探しても出てこなかった。だけども数ヶ月時間をおいて調査し、確かにこれが左腕だとわかったよ。

同行の2人は「来てよかった。思ったよりも大きくてすごいスポットだ。」と言ってくれた。
1人は「神奈川県の「大船観音」よりもすごいくらいだ」と言っていた。えー…。それは大船観音がかわいそうかもしれないぞ。大船観音、僕はチラッとしか見たことないけどさ…。
ここにはネコがいっぱいいて、見ていて癒された。平和な朝のひとときを堪能できた気がした。
さて、ボランティア活動張り切っていきますか!!
進まぬ製作、寄付は集まるか…?
時は流れて2018年に再度確認しに行った。

うーん、変わらねぇ。崩れた左腕の残買いが撤去されたくらいにしか違いがわからない。あれから7年が経過したのに、全然進んでいないみたいだよ。
前回から今回までの間に、製作している人も3代目から4代目へとバトンタッチしているようだが、実際に製作がされているとかの情報は僕の耳には届いてこない。
定期的にコツコツ作業をしているならば足場が組まれたり、道具や重機が付近にあったりするのだろうが、そういうものもない。WebやSNSでもそういう光景を見たという情報も見つけられない。

観音、相変わらず白目剝いていて黒い鼻血みたいみたいなものが垂れた跡がある。左腕の付け根部分も装飾が取れたままで補修もされておらず、痛々しい。
2018年には事態を危惧して「百尺観音復興基金」を募る団体までできたそうだ。
それはいったんさて置いて上記Webを一瞬みていただけるとありがたいのだが、1963年(昭和38年)の観音像の写真がすごいのだ。「えっ!これがあの観音!?」って思うほどに綺麗で細部まで作り込まれ取り、表面の塗装も整っている。
つまりは1963年当時と比べて現在は、失礼な言い方になっちゃうけど見る陰もないほどに劣化してしまっているのだ。これはヤバいぞ、と悪寒が走った。

誰もいない敷地。でも敷地自体がちゃんと整備されているのはわかる。
でも、観音像には変化がないのだ。この敷地内にある売店も曜日や時間帯によってはやっているのかなぁ。集客あまり見込めないかもなぁ…。
ちょっと切ない気持ちでここを後にした。
2024年、直近の訪問記録
よーし、最後に直近である2024年の訪問記録を詳しめに書くぞ!
なんで前回から一気に6年もスキップしたのかというと、お察しの通り特に報告するほどの進展がないからだ!

これは国道6号から脇道に反れた瞬間の写真。右側に見えているのが国道6号で、僕がカメラを構えているのが脇道だ。
目印は、「百尺観音 参道入口」と書かれたポール。カーナビに入れていない限り、目印はこれだけだ。これがいきなり出てきても、国道6号の交通量を鑑みると即座にハンドルを切るのは難しいかもしれない。

駐車場は広大。そしてガラガラ。雨がパラパラ降ってきた。天気予報では雨予報ではなかったのに、なんてこった。
では、今さらで申し訳ないが百尺観音が歩んできた歴史と共に、直近訪問時の写真を紹介していこう。

詳細な説明板が設置されている。4代目が設置したものだそうだ。
内容を追って行こう。まずはこの百尺観音、完成したら118尺になる予定とのことだ。そうなのか、想定より大きかった!
とは言ったところでそもそも尺という単位に馴染みがなので調べてみたら、118尺で約35.8mだ。

説明板には『完成したら日本一大きい仏像になる』という旨が書かれているが、茨城県の「牛久観音」は120mあるから踏みつぶされるぞ。
他にも国内には巨大観音がいくつかあるから、あと3回くらい脱皮して巨大化しないと厳しいかもしれぬ。

製作を開始した初代は、地元の仏師である「荒嘉明さん」だ。
全国の神社仏閣を見て回った末、「小さい仏像を1000体つくるよりも、巨大なのを1つ作った方がいいよね!」ってなり、1931年に観音像を彫り始めた。
しかし1963年、62歳で亡くなった。つまり前章でご紹介したWeb内に写っている観音像は、初代の時代の功績だ。
あれ!!2~4代目も頑張ってはいるけれど、初代が進めた工事より先には進んでおらず、後退しているということ…!?

その後は息子さんの2代目が引き継ぐ。モルタルによる補修工事や園内の整備を実施していたものの、1980年に53歳で亡くなった。
さらには3代目が引き継いだものの、資金難などいろいろあって思うように進まず、2013年に58歳で亡くなったそうだ。

うむー…。みなさん頑張っているのだが、無理がたたっているせいか早世だ…。上の写真のように、細かい部分に優しさが垣間見えて応援はしなくなるんだけどなぁ…。

調べてみると、ここの岩は砂岩なのだそうだ。やわらかくて加工はしやすいけど、逆にポロポロ崩れやすくって風化しやすく、前述の通り地震などへの耐久力も低めな素材だ。
だかこそモルタルで覆ったりしたのだろうが、モルタルも寿命あるしねぇ…。表面覆っただけでは衝撃で剥がれたりいろいろあるからねぇ…。

一個人が人生をかけて彫り続けた観音。その後も一族4代に渡って製作を進めている観音。夢とロマンが詰まっているのに、進んでいなさそうなのが切ない。
「じゃあオマエが募金しろよ」みたいに言われるかもしれないが、4代目が無理しない程度に製作を進めてくれることを願って止まない。
当時はツルハシ1本で製作を開始したそうだが、現代は重機も技術もいろいろ発展しているだろうから、ワンチャン一気に追い上げて完成まで持っていくことも不可能ではないと思うのだ。

では、またいつの日か、来るからね。
そのとき観音様が微笑んでいることを祈りつつ、僕はここを出発する。
以上、日本7周目を走る旅人YAMAでした。
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