東日本大震災から12年の月日が経った…。
何人かの知り合いは石巻市に震災復興ボランティアに出かけた。
僕は石巻ではなく福島県の南相馬市にボランティアに行ったのだが、石巻にも思い出があり、石巻のことも案じていたさ。
ガレキの撤去とか遺留品洗浄とか物資の仕分けなどという、直接的なボランティアは石巻に対してはできなかったが、間接的な活動はさせていただたつもりだ。
そしてしばらくの間、石巻が復興するさまも見れたと感じている。
今回の記事の舞台は、この何の変哲もない町中だ。
「何の変哲もない」。
…そうであってほしかった。
この写真撮影から1年後、この写真の町は全てが震災の津波でなくなり、荒野となる。
2010年に「右手に日和山が見える!懐かしい!」とか思いながら駆け抜けた石巻の沿岸部の町中。
同じ場所を高台から写した。
見事に何もなくなった。
そんな地に1枚の看板がある。
「がんばろう!石巻」
今回は、この1枚の看板を追いかける。
1代目の看板(2011年~2016年)
2013年の邂逅
2013年の春のことであった。
僕は震災後初めて宮城県に足を踏み入れた。東北の他県には震災後全て行っていたが、宮城県だけ遅くなってしまった、ゴメン。
翌朝に「日和山」を観光した後になんとなく沿岸部を目指してみた。
上がそのときの写真だ。
震災の津波でなにもなくなった地。
この記事の一番最初の写真でなんの変哲もない町中だった地。
右手奥に10台くらいの車が停まっていて「なんだろう?」って思った。
さらにその奥にはこいのぼりがいるようだった。
これが看板との最初の出会い。
予備知識ゼロであった。
「がんばろう!石巻」と書かれた大きな看板があった。
そしてその前には空を泳ぐこいのぼりの群れ。
あぁ、ここは…。
うん、書かなくってもわかるよね。
献花台があった。
犠牲者の方のご冥福をお祈りします。
残された方々も今、大変な道のりを歩んでいるに違いない。
周囲一帯、もう何もないのだ。その絶望や苦労は想像に絶する。
こいのぼりを結んでいるロープが括り付けられた柱。
よく見るとその一番上に「6.9M ここまで津波浸水深」と書かれていた。
津波、この高さまで来たのだ。家の2階までもが埋まる高さであろう。
背中に寒気が走る。
ランプに火が灯っていた。
説明板がある。
この火は被災した石巻地域から木片を集め、それを種火としているのだそうだ。
震災から1年が経った時点で、亡くなった方への追悼と、生き残った人々の「がんばろう」とする思いを心の残すために灯しているのだそうだ。
この看板の向かいには、「とまりの駅」という特産物を販売しているテントがあった。
まだこの頃には「がんばろう!石巻の看板」というスポット名も付いていない(あるいは一般的ではない)ような状態であり、僕は当時の手記にはここのことを"とまりの駅"と記していた。
そして僕は次の地へとドライブを再開する。
この看板はなぜ出来た?
この「がんばろう!石巻の看板」は、いつどうしてできたのだろう?
そのことを知るのは、前項の第1回目の訪問の後である。
2回目に移行に訪れたときに撮影した、現地の写真パネル等を用いてご説明したい。
2011年4月11日。つまり震災発生からちょうど1ヶ月となる日。
ここに自宅兼店舗があった水道配管工の方が、幅11mの看板を自宅跡に建てた。
看板屋さんの有人の方と一緒に、「今やれることを全部やる!」とのことで、ガレキの材木なども使いながら看板を組み立ててこのメッセージを書いたのだ。
背景の惨状がすさまじい。
石巻市は、ここから這い上がって来たのだな…。
僕が見た2013年は何もない荒野のような風景であったが、ここまで片付いた時点で既に大きく歩んでいるのだろう。
そうだ、同じくらいの時期に僕も南相馬の津波被災地でボランティアをしたが、確かこんな感じだったものな…。
これこそ、忘れてはいけない光景なのだ。
僕はこの写真を目に刻んだ。心にも刻んだ。
看板の下に眠る家屋
それから2年が経過した。2015年だ。
知人が「復興を呼び掛ける看板があるところに連れて行ってくれ」というので、「あそこのことかな?」と久々に看板のことを思い出し、行ってみることにした。
その知人は以前に「がんばろう!石巻」の看板を訪ねたことがあり、また久々に行きたいのだそうだ。
彼の指示に従って沿岸部の道に出た。
前項で遠くにこいのぼりを見つけたときと全く同じ場所で撮影した。
2年経ったがあまり景色は変化していない。
いや、どうやら"とまりの駅"は無くなってしまったようだな…。
曇り空のせいか、こいのぼりがいないせいか、ちょっと寂しく思えた。
知人は「この看板は家の跡に建っているから、よく見ると家の基礎や便器が残っているんだよ」と教えてくれた。
マジか…!そういえばこの不自然な看板の土台は、家の間取りそのものだったのか…!
改めて僕はショックを受けた。
しかしゴメン、その家の基礎等の写真はこのときは撮っておらず、この後で紹介するから待ってくれ。
看板の横にはこのような映像説明装置があった。
ボタンを押すとこの地域の説明・震災時の被害の解説がされる仕組みだ。
前項でご説明した看板設立時の写真や新聞記事も、ここに掲示されていた。
これだけの人の魂が失われたのだ。
これだけの人が生活を奪われたのだ。
その家族・友人・関係者など、なんらかの影響を受けた人数で言えば、日本人の半分とかそのくらいになるのではなかろうか?
まさに日本の歴史が変わるほどの出来事だったと、改めて感じさせる数字だ。
献花台には花のポットがたくさん置かれていた。
夏を感じさせる色彩を少し感じた。
…次の訪問は、それから約1ヶ月後であった。スパン短いね。
以前より親交のある旅友の「ニコル君」をここに案内した。
ニコル君は東北人ではないが、震災後いち早く物資を宮城県に届けたり、今回はボランティア活動に参加したりと、積極果敢に活動をしているのだ。
ちょうど梅雨入りの日で寒く、そして19時すぎのために薄暗かった。
それでもこの看板に興味を持ってくれたニコル君のために、ここを案内したのだ。
看板は設置者の方の家の跡地に立つ。
ここは家の中と外を分けていた部分だ。なんだったのかはわからないが、形状的にもしかしたら玄関だったのかもしれない。
位置的に水回りだろうか?下の方に見えているのは水道管だろうか?
生々しい被害が感じ取れた。
この土台があるからこそ、「がんばろう!石巻」の看板の存在意義も際立つのかもしれない。
前回知人から教えてもらった、和式トイレだ。
看板が立っている床板。その隙間を覗き込むと便器が存在している。
ここには生活があった。無言の説得力。
2015年の夏。
震災から4年が経ったが、まだまだ復興の道のりは遠いと感じた。
2代目看板設置計画
1年がさらに過ぎた。2016年になった。
えっと、どこだここは?
看板に向かっているのだが、道がよくわからない。
これは被災地沿岸部あるあるだが、盛り土などの道路整備が進むことにより、ロケーションも道の高度も道の位置も全然変わるのだ。
だから数ヶ月訪れていないとパニックになる。
なるほど、今まで走っていた道はあそこだな。
"とまりの駅"だとかがあった道は、あそこだった。
今は重機が入って盛り土の準備が始まっている。
工事後は今とは全然違う光景となるのであろう。
今回ここで知ったのだが、震災5年目を期に新しい看板を作成する計画が進んでいるのだそうだ。
現在の看板、つまり初代は5年もここに立っているので劣化が進んできている。
だから2代目の看板を1ヶ月ほどかけて製作し、4月11日、つまり1代目の看板の完成からちょうど5年目の日に世代交代するのだそうだ。
確かに看板の台座もボロボロだもんな。
これ以上壊れたら和式便器が丸見えになっちゃう。
そしてその際には、今と設置場所を少し変え、たぶんここより30mほど後ろとなるのだろうと聞いた。
この家屋跡がなくなってしまうのは、少し残念ではあるな…。
そういえば前回までは無かった「南浜つなぐ館」っていう建物ができている。
この横あたりに看板が移動になるのかな?
南浜つなぐ館では、被災した沿岸部の状況の説明資料や、語り部による震災体験が語られるそうだ。
なるほど。また近々訪問してみたい。
4月11日、1代目と2代目の看板の世代交代が行われた。
この光景はTV画面越しに見届けた。
1代目、お疲れさまでした。
ガレキの中で産声をあげた1代目看板こそ、偉大であったと僕は思う。
2代目の看板(2016年~2021年)
南浜つなぐ館
2016年4月、以前よりも30mほど後ろの位置に2代目の看板が設置された。
早速だが見に行きたい。
ゴールデンウィークに訪問してみた。
時期的にこいのぼりだ。
それはそれでいいんだけど、見ているうちにすっごい土砂降りになって、傘をさしてもズブ濡れなレベル。
このあとは暴風警報まで出た。なんてこった。
ちなみに朝早かったせいか、南浜つなぐ館はやっていなかった。なんてこった。
そんな雨の中で撮影したのでブレちゃったけど、2代目の看板だ。
新品でピカピカである。でもデザインや素材は一緒のようでちょっと安心した。
数ヶ月したら1代目と見分けがつかなくなるかもね。
そしてちゃんと看板専用の基礎の上に設置されたのだね。
翌月、早くも再訪した。快晴の日にリベンジしたかったのだ。
あれ?右端の巨大な足場は何?盛り土だけじゃなく、なんか巨大建造物を造っている?マンション?
1ヶ月前はあんな足場はあったっけ?土砂降りだったので気付かなかっただけかな?
あそこは以前に"とまりの駅"があったところ。
もうかなり光景が変わってきているな。
看板の色、少し落ち着いてきたように感じられる。
1ヶ月前の訪問時には朝早くてまだやっていなかった、南浜つなぐ館に入ってみた。
被災した沿岸部の状況の説明資料がジオラマや地図で掲示してあったり、この周辺をドローンで撮影した動画が見れたり、被災体験者が当時のことを語ってくれたりする。
1つ1つの言葉が重たいね。
そして、この周辺の何もなくなってしまったエリアのかつての地図に、みんなが思い出を書きこんだ付箋を貼っている。
当たり前のように人々が暮らしていた地域が、一瞬でこんなガレキになってしまったのだな…。
ちなみに、この2016年時点ではつなぐ館の方に声を掛けることで館内撮影ができた。
後年撮影禁止になったのでご注意されたい。
あと、掲示物で説明があったんだけど、数年後にはここいらは震災祈念の公園にするのだそうだ。
相当に広大な公園になりそうだ。
まだまだ仮設住宅もあるし、市街地で整備しなきゃいけない場所もあるだろう。
ここの公園化はおそらく優先順位的にその次。
とても時間のかかるプロジェクトかもしれないが、その日を楽しみに待ちたい。
同じ年、2016年の10月。
わわっ、なんか道がすごく綺麗になった!…ってゆーか新しい道が出来ている!
古い道は無くなった…?ここがどこだかわからん!
「がんばろう石巻」・「日和大橋」が右折方面だという看板が出てきた。
ありがたい。
そして、あのスポットは「がんばろう石巻」という名称なのだね。
なんかロケーションが変わった!
右端を見てほしい。なんか素晴らしく巨大なマンションが出来ている。
最初は"とまりの駅"であり、6月は足場があったところだ。
かなりスピーディな建築だな。急速にこの地は生まれ変わりつつあるのかな。
ランプの火は今日も静かに灯っていた。
その後ろに見えているのが、例のマンション。
盛り土とかしっかり安全対策がされた上で、また沿岸部に人が戻ってくるなら嬉しいよね。
今回も南浜つなぐ館を見学した。無料だし。
そして語り部の人は複数名いるから、前回の人とは違う。なるべくいろんな体験談を聞いておきたい。
社会科見学で訪れたような雰囲気の生徒さんもいて、熱心に話を聞いていた。
このような経験、とても重要だ。
2016年だけで4回訪問したこの看板。
引き続き追いかけていきたい。
2017.3.11、6年目の夜
震災から6年の月日が経った。
2017年、3月11日の日が暮れようとしている。
今までは、「僕みたいな部外者が行ったら被災者の方が嫌な思いをするかな?」って思って避けていたイベントがある。
それが『3.11のつどい』というイベントである。
毎年「がんばろう!石巻」の看板の場所で、3月11日昼過ぎから追悼式典をし、夕方に追悼キャンドル点灯、そして花火の打ち上げをしたりするのだ。
今年は僕もちょこっと見学してもいいかなぁ…。
そう思ってやって来た。朝の岩手県から沿岸部を被災地を走りつつやって来た。
上の写真は石巻のシンボル的な存在である、「石ノ森萬画館」だ。
旧北上川の河口付近の中州にあり、かつては震災の津波の遡上で大きな被害を受けた。
記憶を頼りに進むと、かさ上げされた土地の上の道路に入った。
来るたびにどんどん道変わるな。わけわからん。
しばらく進むと、かさ上げされた丘の上から「がんばろう!石巻」の看板を見下ろせた。
あ、この道路の地中はきっと昔"とまりの駅"だったところだ。
看板の前はキャンドルでライトアップされている。人々が集まっている。
でも!僕と看板との間には道がない!駐車場もない!ほんの100mも無い距離なのに、あそこまで行けない!
毎回道が変わっていてパニックだ。
沿岸部をグルーっと大迂回する。
荒れたアスファルトの狭い道を走り、検討を付けた方向へと向かう。
2kmほどの距離を走り、ようやく「臨時駐車場」と書かれた空地へとやってきた。
この先に臨時じゃない正規駐車場があるらしいが、この先は道が狭い。
そして駐車場は追悼イベントで混雑しているだろう。
街灯も無く混雑している中、僕の愛車のHUMMER_H3を停めるのは苦労するかもしれない。
多少歩いたとしても、このガラッガラの臨時駐車場に停めて歩いたほうが無難だな…。
そう考えて、ほぼ真っ暗な荒れ地を1人トボトボ歩いた。
正規の駐車場までの数分は、本当に人もいなくて真っ暗だった。
正規駐車場から先は、ところどころで誘導棒を持った誘導員さんたちがいる。
そして多くの人々の往来があった。
8回目の訪問。
初めての3.11の訪問。初めての夜の時間帯の訪問。
完全に暗くなる前の景色を見たかったので、ひとまずセーフだ。
今日は3600個のキャンドルに照らされた、追悼イベント。
この位置からでは見えないが、上空からだと看板の前に「3.11追悼」の文字がキャンドルで描かれている。
ドローンも飛んでいたので、きっとあれで撮影しているのだろう。
もともとここは、どこにでもあるような幹線道路沿いの店が立ち並ぶ地だった。
当時を僕は知っている。
しかし6.9mの津波が押し寄せてきて世界は一変した。
僕はその恐怖は知らないけど、きっと今ここにいる人たちの心には今も深く刻まれている。
少しずつでもそれを理解していきたい。
キャンドルに思いを書いて設置できたりもするのかな?
しかし僕はそれを離れたところから見守るに留め、そっとこの地を後にした。
ガーデニングの兆し
同じく2017年の訪問記録を少しご紹介しよう。
夏にまたこの看板を見に来た。
このときは僕の妹を案内した。
南浜つなぐ館はなぜか営業していなかったので、ガラス窓越しに中を覗いた。
上の写真の左側を見ていただきたいのだが、ただの荒れ地だった部分になんとなく工事の手が入りそうな気配が見えているぞ。何かな何かな?
同じ年の9月の夕暮れの写真だ。記念すべき10回目の訪問。
看板の後ろ側があきらかにスッキリしてきたなって感じた。
2018年になった。その5月のこと。
この回の訪問では、大きな転機を見い出した。
看板の後ろ、すっげぇ!!
なんかオランダの片田舎の田園風景みたいになっている。
左端の小屋は南浜つなぐ館に隣接して建てられている。
まだ正式に運用開始されていないようなので何の施設なのかはわからないが、雰囲気はいいよね。
いつぞや南浜つなぐ館で見た、「震災祈念の公園にする」という計画を思い出した。
いよいよそのプロジェクトが具体化されていくのだろうか?
またまたこいのぼりである。
このシーズンの訪問、多いな。きっと日本列島が東北まで暖かくなって「よしドライブに行こう」って思えるのがこの時期から、だからなのだろうな。
ここまでこの地のことを「荒れ地」と言ってきてしまったが、もうここは荒れ地ではない。
立派な公園になったと感じた。
翌月の6月。残念ながらの曇天である。
でも「がんばろう!」の文字は今日も力強く輝いている。
上の写真は、南浜つなぐ館を横から見た図である。
向かって左側が正面入口なのだが、後ろ側に連結されるようにもう1つの建物が出来ている。なんだろう??
中、シアタールームだった。南浜つなぐ館が拡張されたのだ。
10数名入れるシアターで、津波前後の状況説明の動画であった。
震災への理解がより深まった。感謝。
同年の11月の写真である。もう東北は冬の気配だね。
"とまりの駅"のあったところに聳えるマンション。確かな生活の息吹が感じられる。
写真中央が整備され、今後駐車場になりそうな気配だ。
そこ、以前1代目看板があった場所じゃないか…。
これは南浜つなぐ館の内部。
近年VRゴーグルが設置され、それを装着すると震災前の町並みが見えるようになっている。
それが衝撃的なのだ。
ゴーグルの向こうに見えているのは、どこにでもある何の変哲もない町並み。
そう、僕がこの記事の冒頭で掲載した、震災前にドライブした町なのだ。
わかっている。
わかっているけど、ゴーグルを外した現実世界とのギャップに愕然とするのだ…。
2018年。もう震災から7年半以上の月日が経っている。
どうやって風化を防ぐかが課題だ。現代の技術を駆使して、当時のリアルを語り継いでいきたいね。
公園の整備も、少しだけ進んだかな?
冬だからあんまり草花も無いよね。ちょっと寂しいシーズンの到来なのである。
そんな中でもあまり変わらないのが、津波到達地点の6.9mを示すポール。
それと献花台とランプの光だ。
ちなみにランプは、すだれのようなもので覆われた台の上の箱の中にある。
上の写真では後方からの撮影なのでランプ自体は見えていないが。
そんなもうすぐ2018年も終わろうとする晩秋の晴天の中の「がんばろう」であった。
これが13回目の訪問かな?
季節はまた変わる。2019年6月。
この1ヶ月前の2019年5月から令和時代が始まった。
手前のプランターを見てほしい。
『令和』っていう配列で並べられているだろ。めでたい。新時代。
周辺の整備は進んでいるようだ。たくさんのショベルカーが動いている。
この大平原のような広大は敷地は、どんな公園になるのだろう?
同じ年の8月のお盆期間に来てみた。
人の気配はないがキャンドルが並べられている。看板の左右にはスピーカーも設置されている。
夏限定のイベントなどが行われるのであろうか?そいつは知らなかったな。
今回はこいのぼりではなく、七夕飾りが空を舞っていた。
風の強い日。"くまもん"の生首、感情の無い表情、ちょっと怖い…。
鎮魂の日のキャンドル
2020年の3月11日。震災から9年目の日である。
世の中は、まだギリギリでコロナが蔓延していない時期のお話である。
僕はまた夕暮れの時間にここにやってきた。
3.11に来るのは2017年以来の3年ぶりであった。
昔"とまりの駅"があった場所。綺麗な2車線道路になり、「がんばろう!石巻」の看板の敷地に入るための信号機も設置された。
大きな駐車場が出来ているし、そこにいっぱい車が停まっている。
TV局のものと思われるロケ車もいる。
なんとか空きスペースを見つけ、僕も愛車を駐車した。
手作りキャンドルの灯りに照らされる、「がんばろう」の看板。
もうかなり見慣れているが、3.11に見るとまた気持が違う。
いつかのあの日、栄えていた町は一瞬で無くなった。
家族を失った人もたくさんいる。
僕の周囲の人は、そんな悲しみを背負いつつも前を向いて歩んでいる。
この看板の前で、失った地・失った人・失った思い出のことを考えているのだろう。
じゃあ僕は何を考えればいいのだるろうか…。
この石巻の人たちが笑顔で明日を過ごせますように。
いなくなってしまった人たちの魂が安らかでありますように。
ただただ、それを願う。
…2021年3月11日。
時間がちょうど1年流れた。
そして、震災からピッタリ10年だ。
ご存じ、コロナ禍の真っただ中である。しっかりと感染対策をして出かけた。
余計な寄り道はしない。
ここだけ、今日だけ、ちょっと立ち寄らせてくれ。
10年目だから。僕の心も一区切りだから。
そう思い、また『3.11のつどい』に顔を出した。
ホント暗いのな、ここ。
駐車場から看板まで、工事用の鉄板の歩道の上を歩く。
直近で昼間に来たのは2019年の6月なので、きっと公園整備は進んでいるのだろう。
だがこの暗さでは周辺の状態は一切見えず、整備状況は一切不明だ。
看板の前には『10年心からの祈り』とLEDライトで書いてある。
その奥には『3.11追悼』とキャンドルで描かれている。
毎回思うのだが、人間の身長ではこの文字が非常に見づらく残念だ。
TVクルーは三脚に乗って撮影し、そして記録映像用のドローンも飛んでいるが、せっかく来た人に見えやすい工夫ももう一歩考えてくれると嬉しい。
キャンドルのハートはかわいいね。
まだ寒い3月の夜であるが、心が温まる。そっと手を伸ばしてみたら、仄かなぬくもりを感じることができた。
10年。
口に出せばたった一言であるが、長いようで短い10年。
石巻の町はずいぶん変わったようだが、まだ復興の道は果てしなく長いのだろう。
3代目の看板(2021年~)
前回の訪問から1ヶ月後の2021年4月11日のことである。
「がんばろう!石巻」の看板がまた更新され、3代目となった。
5年ごとに新しくなるのだ。みんな覚えている?
自宅跡地のガレキの中で1代目の看板を作成した、あの方がその後も製作に携わり、地元の中学生と共に3代目の看板を作り上げたのだ。
さて、長かったこの記事もエピローグだぞ。
看板の周囲の敷地に、2021年3月28日にOPENした広大な公園である。
僕はここを2021年5月に訪れた。
うわー、なんだここ。すっごく変わったなぁ。進化したなぁ…。
これは南浜つなぐ館の裏にできていた小屋だ。
その周囲には今や花があふれている。
…ねぇ、画面の前のあなた。
ここまで長々とした記事を読んでくれてありがとう。
ずーっと時間を追って書いてきたのはね、この時間の流れを感じてほしかったから。
最後にここに繋がるカタルシスを、僕と一緒に感じてほしかったから。
いつか、荒野の中の絶望的な景観の中で見たよね、こいのぼり。
今は優雅に春の風の中を泳いでいる。
もっともっとこの復興祈念公園について書きたいけどさ、それはまたいつか機会にしたい。
ちゃんと「石巻南浜津波復興祈念公園」としての独立記事にするからさ。
このときはまだコロナ禍で目玉となる施設もOPENしていなかったしさ。
だけども、この2023年春でコロナに対する国の方針も大きく緩和される。
上の写真の2021年春以降、僕はここを訪れていないけど、この機会にまた行っていいかなぁ…?
…では、最後に3代目の看板と共にさよならだ。
がんばろう!石巻!!
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報