空は灰色だし、大地は茶色だった。
世界は色を失ったかのように、静かだった。
体を休めると途端に汗が冷え、スタジャンの中に寒気が走る。
常に動き続けていたかった。
肉体的にも、精神的にも。
ふと小さな何かが視界を掠め、僕は泥にまみれた軍手を伸ばした。
どこからか舞ってきた、桜の花びらだった。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
2011年3月11日の東日本大震災。
そのときの計3回の訪問記録を、10年前に上記の通りに執筆公開していた。
今回は、それぞれのエピソードをギュッと圧縮して少々手直しの上で再公開したい。
新規書下ろしをを含め、計4本の連載となる予定だ。
※ 放送倫理上適さないような写真は無いですが、少々刺激が強いものもあります。
※ 10年前の僕が見た世界を10年前の僕が書いています。未熟であり、至らない点もあります。
東日本大震災
2011年3月。
日本列島は悲鳴を上げる。
◆3月11日14:46
三陸沖を震源とする、東北地方太平洋沖地震発生。
日本観測史上最大、世界で見ても歴代4位となるマグニチュード9.0の激震が東北地方を中心とした東日本を襲う。
千葉県市原市のコスモ石油が爆発炎上。(このあと9日間燃え続ける)
◆3月11日15:06
三陸沖を震源とするマグニチュード7.4の地震発生。
◆3月11日15:15
茨城沖を震源とするマグニチュード7.4の地震発生。
◆3月11日15時台
東北地方・関東地方の太平洋岸に次々と津波が発生。
場所によっては高さ10mの大津波となり、東北地方太平洋岸の多くの街が壊滅状態となる。
◆3月11日16時台
青森県・秋田県・岩手県・宮城県・山形県の全域ほとんどが停電となる。
◆3月11日21時台
福島第1原子力発電所・第2原子力発電所にて、放射能漏れの可能性発生。
半径3km圏内に避難指示、半径3~10km圏内に屋内退避指示。
◆3月11日23時台
宮城県仙台市若林区にて、200~300人にのぼる遺体が発見される。
◆3月12日3:59
◆3月12日4:32
新潟県中越地方にてマグニチュード5.8の地震発生。
◆3月12日5:42
新潟県中越地方にてマグニチュード5.3の地震発生。
◆3月12日7:00台
福島第1原子力発電所中央制御室で検出された放射線量が通常時の1000倍。
◆3月12日15:36
福島第1原子力発電所の1号機で水素爆発発生。
◆3月12日21時台
宮城県南三陸町で1万人以上が安否不明であることが判明。
◆3月13日0時台
福島第1原子力発電所の事故は原子力事故の国際レベルにおける「レベル4」と発表される。
◆3月13日2時台
福島第1原子力発電所の3号機が高圧のため注水システム自動停止。
海水注水が停止。
◆3月13日
宮城県警本部長より、「死者が万単位に及ぶことは間違いない」とのコメント。
◆3月14日
福島第1原子力発電所の3号機で水素爆発発生。骨組みのみとなる。
半径20km圏内に屋内退避指示。
◆3月14日13時台
宮城県南三陸町で約1000人の遺体が発見される。
◆3月15日6:10
福島第1原子力発電所の2号機にて爆発発生。
◆3月15日11時台
福島第1原子力発電所から20km圏内は退避、20~30km圏内は屋内退避指示。
◆3月15日22:31
静岡県東部にてマグニチュード6.4の地震発生。
◆3月16日5:45
福島第1原子力発電所の4号機にて火災発生。
◆3月16日22:31
千葉県北東部にてマグニチュード6.0の地震発生。
◆3月22日
「死者:9080人 行方不明者:1万3561人」となり、1896年の明治三陸地震を上回る。明治以降の自然災害では関東大震災に次ぐ2番目の被害規模。
◆3月23日7:12
福島県浜通りにてマグニチュード6.0の地震発生。
◆3月23日7:36
福島県浜通りにてマグニチュード5.8の地震発生。
◆3月23日17:21
岩手県沖にてマグニチュード6.1の地震発生。
◆3月28日7:28
宮城県沖にてマグニチュード6.5の地震発生。
◆3月31日16:15
宮城県沖にてマグニチュード6.0の地震発生。
◆4月1日19:49
秋田県内陸北部にてマグニチュード5.1の地震発生。
◆4月2日16:55
茨城県南部にてマグニチュード5.0の地震発生。
◆4月7日23:32
宮城県沖にてマグニチュード7.4の地震発生。
◆4月9日18:42
宮城県沖にてマグニチュード5.4の地震発生。
◆4月11日20:42
茨城県北部にてマグニチュード5.9の地震発生。
◆4月12日7:26
長野県北部にてマグニチュード5.5の地震発生。
◆4月12日8:08
千葉県東方沖にてマグニチュード6.3の地震発生。
◆4月12日14:07
福島県浜通りにてマグニチュード6.3の地震発生。
◆4月12日
福島第1原子力発電所の事故は原子力事故の国際レベルにおける最悪の数値である「レベル7」と暫定発表される。(これまでチェルノブイリの1件のみ)
◆4月13日10:08
福島県浜通りにてマグニチュード5.8の地震発生。
◆4月16日11:19
栃木県南部にてマグニチュード5.9の地震発生。
◆4月18日
福島第1原子力発電所の30km圏内の沿岸部にて、震災後初めての行方不明者捜索が自衛隊によって開始される。
◆4月22日
福島第1原子力発電所の20km圏内が警戒区域設定され、立入禁止となる。
福島第1原子力発電所の20km圏外において、放射性物質の累積量が高い地域が計画的避難区域となる。
福島第1原子力発電所の20~30km圏内において、計画的避難区域に入らない地域の大部分が緊急時避難準備区域となる。
僕らにできること
こんばんは、YAMAです。
皆さん、ご無事ですか?
僕はなんやかんやで元気です。
上に主だった災害関連情報を抜き出してみたけど、実際はあんなもんじゃなかったですもんね。
被災地だけではなく、もっと広範囲に影響が来ましたもんね。
東京や僕の南関東の町だって、電車は動かないわ、食料の買い占めは起こるわ、ガソリンは無いわ、水道水は危険とのウワサが流れるわ、節電でいまだに街は暗いわでそれなりに影響食らいました。
駅前も道路がバキバキ裂けていましたし。
震災直後、津波が東北の町を消滅させる動画をWebからいろいろ見てました。
胸が締め付けられる思いでした。
走ったもんね、あそこ。
今までドライブしたりメシ食ったり車中泊したもんね。
福島第一原発の近くで車中泊したこともあるし、つい最近も第一原発と第二原発の間から朝日を見たもんね。…って。
「これ、関東にいる場合じゃないんじゃない?」とか思い、早々にも東北に駆け付けたい気持ちになりました。
しかし必死に自分自身にブレーキをかけました。
…今までの災害と今回はレベルが違う。
例え自分の生活用品や食料を全部持ち込んだとしても、ボランティアが動けるようなレベルじゃないと判断しました。
今はムリ。ガマン。
悔しいけど、今ではない。
しっかりと状況を見極め、現地まで車で入れると確信を持ってから動くこととしました。
最初はお世話になったことのある岩手県大船渡市に行こうとしました。
しかし、岩手県は遠すぎると考えました。
現地でしっかり働くには、往復に要する時間と体力が大きすぎます。
震災の少し前にドライブした地です。
今の南相馬市は、地震・津波・放射能・風評被害の四重苦にさらされています。
全国からのボランティアの人たちも、宮城県石巻市にはバンバン行っててニュースで連日話題にもなっているけど、放射能のせいで福島県南部は人手薄なのだそうです。
福島原発の30km圏内にかかっている南相馬では、なおさらです。
南相馬と言えば、市長がYouTubeで世界に「兵糧攻めだ」とその危機的状況を配信し、一躍有名になりましたね。
4月21日には、南相馬市長はアメリカのタイム誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれました。
僕はそんな南相馬市で活動することに決めました。
クローゼットの奥から、久々に黒いスタジャンを取り出しました。
どんな苦しいときも嬉しいときも、一緒に乗り越えてきたスタジャンです。
今回も、僕を守ってください。
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共に災害ボランティアをした経験のある仲間と3人で、深夜に南相馬市を目指し車を走らせた。
衣食住は基本的に全部用意している。
水も保存食もトイレットペーパーも積んである。
あと、新潟中越地震のときの経験から、ハサミやペン・メモ帳・ビニール袋などの細かいグッズも準備済みだ。
首都圏でも、街の照明は極限まで消されている状態。
首都高のライトダウンは運転しづらく大変だった。
東北道は、震災後はしばらく福島~岩手間は専用車両のみの通行だったけど、今は一般車も通ることができる。
なんというスピーディな復旧。大変にありがたい。
福島県に入ると、途端に道は荒れだした。
矢吹IC辺りからツギハギだらけだし、場所によってはボコボコで、軽く飛ぶ。
ところどころに『震災復旧中 段差あり 走行注意』の表示が出ている。
地震の影響はこんな内陸部にまで及んでいたのか…。
東北道を福島松川ICで降り、住民が避難してゴーストタウンのようになった町を経由しているうちに、朝になった。
周囲は自衛隊車両・警察関係車両だらけ。
みんな放射能を防ぐために防護服に着替えている。
僕らはスタジャンで良しとするわ。心もとないけど。そして場違い感がすごいけど。
「原町区福祉会館」がボランティアセンターになっているそうだ。
では、突撃だ。
ボランティア活動
遺留品洗浄
ボラセン内は、ボランティアへの説明や仕事の割り当てをする人、そして参加者で相当賑わっている。
まずは受付だ。
ボランティアって、原則1日単位での申し込みなのだ。
事前の登録とかは一切いらない。アポ無しで突撃して行っても全くOKなのだ。
(少なくとも今回のケースでは)
ここでの活動が初回の人は、最初に初期研修を受ける。
ボランティアとしての心構えとか、そういう研修だ。
それから、掲示板にいろいろ仕事募集の広告が貼りつけてあるので、その中から自分の希望する仕事に、自分の名前を書いたポストイットを貼る。
駐車場誘導・受付事務・遺留品洗浄・遺留品展示・物資仕分・子供の世話とかある中で、僕らは遺留品洗浄を選んだ。
尚、南相馬市には2つのボランティアセンターがある。
こっちの原町地区には肉体労働系の仕事は原則ない。
こっちでも申し込みはできるんだけど、そうするともう1つの方のボランティアセンターに連れていかれるだけだ。
そのもう1つって言うのが、鹿島地区のボランティアセンター。
ここから少し北にある。
鹿島のボラセンはガレキ撤去や津波でのヘドロの泥出しがメインのハードモードだ。
鹿島には後日行こうと思う。
そういや受付の際、「良かったらどうぞ」と言われたので帽子を受け取った。
「がんばろう!みなみそうま」のコメント入り。
いいね、こういうの。やる気が出る。
一生大事にする。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
ところで遺留品洗浄は、15人ほどのチームとなった。
最初にチームリーダーを決める。
埼玉から今日来たばかりという、同年代の若い男性がリーダーになった。
場所によってはここから車に分乗して目的地を目指したりするんだけど、今回の舞台は場所が近く、徒歩5分ほどだそうなのでみんなで歩いて向かった。
目的地は南相馬市役所の北分庁舎である、「モータープール」だ。
ところで、作業中は写真を撮るわけにはいかない。
これらはすべての作業が終えた後に監督に許可をもらって撮影したものである。
この20畳ほどの広間が僕らの作業場だ。
この部屋の時計は、地震発生の14:46を示したまま止まっていた。
遺留品洗浄とは、その名の通り遺留品を綺麗にして持ち主の元に返しやすくする作業のこと。
津波に飲み込まれた地域から自衛隊さんがいっぱい遺留品を持って来る。
しかしそれらはヘドロにまみれてドロンドロンのカオスな状態だ。
それらを綺麗に水洗いし乾かして、展示場に運べる状態にする、重要な仕事なのだ。
対象物のメインは写真。
その他、ノート・賞状・絵画・位牌・貴重品…。
そんな感じの比較的小物を取り扱う。
ヘドロは病原性微生物だとか化学有害物質を多く含んでいる。
仮に乾いていたら、それはそれですごい粉塵が舞う。
目にも喉にもダメージが来る。
ついでに鼻もか。ヘドロは独特の臭いがするのだ。キツい。
だからマスクは自分で持参したものに加え、支給された防塵性のものをさらに上に着け、2重にするよう指示を受けた。
防塵ゴーグルも希望者には貸与されたけど、ウザいのでやめた。
僕にはマイメガネがある。(近視用)
あと、手にはゴム手袋だ。
ヘドロには絶対直接は触れるなと、監督から強く言われた。
そして休憩やお昼のときには必ずうがいをするルールだ。
ちなみに監督ももボランティアだ。
数日やっているからなんとなくやり方を知っているだけの人なんだけど、初日の僕らからしたら、頼りがいのある先輩だ。
15人くらいいる僕らのチームは、その工程ごとにさらに分けられた。
- 洗えるものと洗えないものとの仕分け
- 汚いものを洗う
- 少し汚いものを洗う
- 最後の濯ぎ
- ふき取り
- 干す
僕、最後の干す人を担当した。
1枚1枚、作業場に設置されたロープの洗濯バサミに挟んでいくのだ。
あのね、結構精神的にくる。
あまり考えないようにしているんだけど。
やっぱ写真って、いいことがあったときや記念日に撮るものだ。
みんな笑顔。幸せそう。
記念行事・子供の成長・何気ない日常の一コマ・そして結婚式まで…。
そんな写真がヘドロまみれだ。
無残としか言いようがない。
みんな丁寧に洗ってはいるけれど、そもそもかなり傷んでいたりしている。
洗っている間に剥げ落ちてしまったりもする。
ほとんど判別不可能なものや、大部分が消えてしまっているものもある。
それでも、顔が認識できればちゃんと洗って干すのだ。
力を入れ過ぎて顔の部分が剥げてしまったときの気持ちは、絶望しか感じない。
古い写真ほど、破損レベルが酷い。
だけども、そんな写真ほど貴重なんだろうなぁ、きっと。
モノクロ写真とか。
この写真に笑顔で写っている人は、無事なんだろうか…。
きっと大事であったこの写真、ちゃんと持ち主の元へと帰ってほしいな…。
1枚1枚、そういう思いで取り扱った。
あと、写真から滴った水滴が顔に落ち、そのままマスクに中に流れて口に入ったりした。
ヤベー!ウゲー!
*-*-*-*-*-*-*-*-*
この仕事を担当しているときは、昼休憩は歩いてボラセンまで帰った。
沿岸部とか遠くに行った人はお昼に帰って来れないので、僕らのように近場の人の特権だ。
特別にまかないがふるまわれるというので、ボランティアセンターの奥にある座敷席でみんなで食べた。
南相馬は食べ物とかも全く支給されないと聞いていたんだけど、これはありがたい。
経験上、出されたものは遠慮せずに食べたほうがいい。
スタミナ維持のためにもしっかり食べる。
昼休み時間にWebニュースとかを見て回っていろんな情報をキャッチするんだけど、宮城県の石巻のボランティアは、今日は大人気で裁くのが大変らしい。
1000人くらいが容量の限界で、既にその人数を確保済みだから新規受け付けはしないと告知していたのに、今朝はさらに1000人くらい新規が来ちゃったそうだ。
断るわけにもいかないから頑張って受け入れたそうだけど。
石巻市はすごい規模だね。
南相馬なんて同じ日に、たったの132人だよ。
地元から手伝いに来ているおじさんとも話したけど、「みんな宮城や岩手に行っちゃうから、南相馬に来てくれて本当に嬉しいよ。」としみじみ言っていたよ。
風評被害の影響はこんなところにも出ているのだな…。
*-*-*-*-*-*-*-*-*
遺留品洗浄、書類等にもみんなで取りかかった。
ヘドロで1つにビチッとくっついてしまったなった領収書や明細書の束を一生懸命洗ってバラす。
あとは、アルバムごとに仕分けたり干したり。
僕もブ厚い日記帳にチャレンジしたんだけどね、どうにもうまくいかない。
たぶん10年分くらい書けるハードカバーの立派なヤツなんだけど、結合のヒモとかブチブチに切れているし、ページごとにヘドロが混入している。
もうヌッチャヌチャだ。
水で洗ってもきりがないし、水圧強すぎると破れるし溶けるし。
でも、大切なんだろうなぁ、これ。
ほとんど文字も読めないし、読めても個人情報だからこんなところに書くわけにはいかないけど、なんだか誰かに充てて感謝の言葉とか書いてあるのがかろうじて読める。
悲しいね。
例えこんな状態でも、捨てずに持ち主を探してほしいけど、明日のことは何もわからん。ホントわからん。
最後に1時間くらいかけて全体的な後処理の仕分けや明日の準備、部屋の掃除などをする。
意外と重労働だ。
ヘドロまみれのアルバムとか、とんでもない重さですもん。
こうして遺留品洗浄の1日が終わる。
外に出ると、防護服の人たちがすごい勢いで水が出るホースで、車を洗ってた。
放射能物質の洗浄ですかね。僕の愛車は洗わなくって大丈夫かな?
なんか自衛隊とかプロの人たちって、すごいマスクをしてるのよ。
ホントにガスマスクとかそれレベルのもの。
僕は安物の不織布マスクを箱買いしたときのものなのだ。
これを見て不安になった。
物資仕分け
物資の仕分けもやったことがある。
どんな作業かというと、僕が体験したのは、被災者の各家庭に配布する生活用品のセットを作るというものだ。
被災地を直で見ることは無く、被災者との交流もない。
被災地を直視するのがちょっと精神的にキツい人でもできる仕事だ。
体育館の中で人海戦術でやると効率が上がるので、多くの人出を募集している。
鹿島のボラセンが肉体労働系で屋外での活動がメインなんだけど、雨の日なんかはその人たちが原町のボラセンに流れてきて、みんなで一気にやるイメージ。
僕らも雨の日に応募した。
遺留品洗浄メンバーとも再会して「やぁ」とか言い合える間柄だ。
遺留品洗浄の若き監督は、既に本部スタッフになっていた。
慣れないようですっごいワタワタしていたが。
雨の日は鹿島のボラセンの人も多く来るから、本部はとても大変なのだ。
239人もいるのだ。激増だ。
マッチングの部屋は溢れかえり、入室待ちとなる。
物資仕分けのタスクが割り振られても、現場に行くための出発指示がなかなか出ない。
本部の人たち、やることが多すぎて混乱しているのだ。
そりゃそうだ。みんなボランティア。みんなこの震災直後の混乱の中で動いているのだから。
なんとかかんとか、車5台ほどで作業場所に向かうこととなった。
現場に向かう時の光景だ。
漁船はそこいらにいくつも転がっている。車もグチャグチャに放置されている。
そして一面が茶色なのだ。
到着したのは「石神中学校」であった。
案内された体育館の中はダンボールとビニール袋の山で溢れかえっていた。
ここの段ボールの物資を被災者の個人宅への配布用に、1家庭1袋のビニール袋に入れていく作業だ。
既に待機していたリーダーのボランティアさんに作業内容を教えてもらった。
仕分けは基本流れ作業。
僕らはランナーというポジションに着いた。まずは役職がカッコイイ。
ランナーは、大きなビニール袋を持って段ボールの迷路の中を順路に沿って移動する。
途中では、「箱ティッシュ×2」・「タオル×5」・「カップ麺×3」・「マスク×5」…などのような物資受け取りポイントがある。
そこでは、役職名は忘れたけどダンボールからそれらをワシャワシャ出してくれる人がいて、その人からから物品を受け取ってビニール袋に入れていく。
全部回り切ったら、1軒分の物資パックが完成。
これを無限に繰り返す。
とても簡単だ。
まさに人海戦術ね。人は多いほうがいい。
バシバシ物資パックを作ってやんよって、思った。
ランナーの名に恥じないよう、すっごい速さで走り回ってやった。
「1日の目標は○千個」みたいな目標があるのだ。
被災者の人に届け、物資!
もちろん、本部からの出動指示がもっと早ければ、あと100は多く作れていた。
リーダーはずいぶん早くから現場待機していたのだから、車1台ずつでも出動指示をくれれば、もっと早く到着して作業ができたのだ。
その時間がもったいない。今も困っている人たちがいるというのに。
…もっとも、ボランティアも頑張っていない人は誰1人としていない。
どうしてもテンパっちゃうのだ。
1日2000人を記録したという石巻市のボラセンとか、本当に大変なのだろうな…。
泥出し
最後に、泥出し作業をご紹介する。
おそらく未経験の人が「東日本大震災ボランティア」と聞いてイメージするのは、これが多いのではないだろうか。
津波が運んできたヘドロを撤去する作業だ。
ついでにいろんなガレキを巻き込んでいるから、そういうのの処分なども担当する。
肉体労働のサンクチュアリ、鹿島のボラセンで働いたレポートだ。
「南相馬市まごころセンター」ってところの駐車場に愛車を停め、準備をしたら数10mのところにある「むつみ荘」っていう福祉サービスセンターに行く。
ここがボランティアセンターに本部になっている。
人、メチャクチャいる。
天気のいい日の鹿島は大人気だ。
ボラセンのオープンの20分前なのに、みんな鼻息荒い。
「ヘドロを掻かせろ。いっぱい掻かせろ。」という意気込みをヒシヒシ感じる。
「天気がいいし、もう中には入り切らないから、受付もマッチングも説明も全部外でやっちゃうぜ!」っていうパワフルさがウリだ。
この雰囲気、嫌いじゃない。
しかしみんな装備がすごい。
マイヘルメット・ツナギ・長靴装備済みは当たり前。
ガスマスクみたいなマスクとか、スコップ持参者もたくさんいる。
95%ガテン系で形成されている。
もちろん女性もいるけど、やっぱツナギとか気合入っている。
金髪にツナギ、似合うな。そして素手でケンカしたら絶対負ける。僕だけ武器持ってても、たぶん負ける。
僕、不安になっちゃって、こっそり仲間に不安を吐露した。
「なぁ、インテリ眼鏡は引っ込んでろとか言われたらどうしよう。」
「僕さ、第2次世界大戦に竹槍で挑む人の気持ちが今ならわかるよ。」
…とかわかりづらい表現をし、変な顔をされた。
ガテン系の人たちの猛烈な熱気に押し負けたのか、ボラセンは予定より早くOPENしたりもした。
僕はギュウギュウの受付をうまくクリアするのが得意だ。
人ごみから素早く受付票をゲットしたら、喧噪からちょっと離れた場所で落ち着いて記載できます。
ペンを持参していているとこういうことができるのだ。
「ペンは剣より強し」って言うだろ?
鹿島のボラセンでは、ほぼ全ての作業がガレキ撤去と泥出し。
現場は公園や河川敷みたいな公共施設もあるけど、大体が個人宅だ。
津波の被害を受けた地に直接趣き、作業するのだ。
ボランティアの猛者共、猛り狂っている。
沿岸部の"Oさん"というお宅の庭のガレキ撤去と泥出しを担当したお話にフォーカスを当てて執筆したい。
メンバーは全部で15人くらいだ。うち女性2人だ。
ビジュアル的に、とんでもない戦闘力だ。
某車ディーラーの人たちが、ディーラーのつなぎを着て7人くらいで参加してきている。彼らの1人がリーダーになった。
それから車所持者を確認し、公共機関の人は誰かの車に乗り込む。
そんな感じで車4台ほどにチーム分けができました。
あとは機材の積み込み。
リヤカー・フォーク・スコップ・ほうき…。そういったものをボランティアセンター本部スタッフの人のアドバイスをもとに必要数揃え、それぞれの車に積み込む。
そして出発だ。
車で10分ほど走る。
海岸部に近づき、津波を被ったエリアに足を踏み入れる。
あちらこちらにガレキや家具、車とかが散乱している。
今回の依頼主のOさんの自宅に到着する。
たぶん海岸からは1kmくらいの場所。
周辺は畑が中心だけど、津波の影響でドロンドロンの荒野と化している。
そしてところどころにガレキの山。
このガレキが、津波で壊れた家なのだろうかね?
Oさんの家はそれなりに無事だ。
後から聞いた話だと、石垣や生垣がバリケードになってくれ、津波が激突はしたけど家の耐久力のほうが勝っていたのでギリギリで浸水は免れたんだって。
しかし庭を見ると一面茶色。
ヘドロだらけ。津波はいろんなものを運んできてしまったようだ。
家の前の用水路もベッタリとしたヘドロが詰まっている。
Oさんにご挨拶をする。
Oさんはこの地で農業をしているおじいさん。
最初にどこをどの程度の仕上げ具合にするか、打ち合わせをしてビジョンを固める。
僕らはエリアに合わせてメンバーを2グループに分け、さらにそのメンバーも掻き出し班と運搬班の2つに分けた。
最初は大型フォークの登場。てゆーか、コイツがメイン。
アイダホ州で麦わら帽子を被りオーバーオールを着たおデブなアメリカンが農作業をしているときに使う、あの巨大フォークだ。
津波は多くのワラを運んできているので、それをスコップで撤去は困難。
さらに庭には木や草などいろんな障害物があるので、フォークが最適だ。
ヘドロの表面は乾いているので、フォークで救い上げるとバサッと粉塵が舞う。
この粉塵は有害物質を含んでいるので厳重注意だ。
ただでさえ、ここは第一原発から21㎞ほどしか離れていない。
屋内退避区域なのだ。
だから放射能物質の心配も尽きない。
フォークで掻きとったゴミは、運搬班がガンガンリアカーで運び、回収車のくる場所に捨てていく。
ヘドロはすごい堆積している。10cmくらい庭一面に積もっている。
悪夢としか言いようがない。頭がくらくらする。
ふぅぅ…、いい汗かくぜ。腰に来るぜ。
こんなシーズンだけど、Tシャツになっちゃうぜ。
ホントは肌を晒すのは、あまり良くないのだろうね。でも、しょうがない。
ヘドロをガシガシ撤去していくと、本来庭に映えていたと思われる緑の草が出てきた。あ、嬉しい。
しかし本来の庭の土とヘドロとが混じりあっていて、元の状態に戻すのは困難。
そもそも元の土も海の塩分を含んでしまっているから、このままじゃあまり良くないし。
どのへんまで掻き出すか、悩む。
しかしさすがに屈強な男たちがモリモリ働くので、庭はみるみる綺麗になる。
リアカーもひっきりなしに往復しています。途中でタイヤがパンクしたけど。
Oさんも僕らをいろいろ気遣い、声をかけてくれたり作業に手を貸してくれたり。
ここいらは水田があってOさんもお米を作っていたんだけど、この被害状況では塩抜きをするだけで3年はかかるような状況なんだって。
仮に塩抜きができたとしても、放射能汚染の可能性や風評被害もあるだろうから、前のようにはならないだろうって。
もう自分の代では再びお米を作ることは無いだろうって、悲しんでいたよ。
家の前にはそれなりの広さの畑もあって、副業としてそこでも農作物を作っていたんだけど、全滅しちゃっている。
ここより海側には知り合いや友人も数多く住んでいたけど、亡くなってしまった人も多いらしい。
そんな話を涙ながらに語るOさんに対して、僕らは返すことばが見つからない。
「頑張って」なんて逆効果になりかねないし、「大変ですね」とか言っても他人事みたいだし。
絶望的なこの状況下だけど、それを覆すために僕らボランティアは福島まで来ている。
復興を信じていなければ、ここにはいない。
僕らは作業をすることで、その活路を見出さなければ。地元の人と同じように悲しんではいられない。希望の光でなければいけない。
もう一度かつての、いや、今までよりも素晴らしい街を作るための第一歩としてここにいるんだよな。
虚しさを紛らわせるために、ひたすらに体を動かした。
昼過ぎには大体表面のヘドロは掻き出しが終わったんだけど、下の方が酷い状態なんだ。
なぜなら、ヘドロが3.11以来乾いていないのだ。
ヌッチャヌチャのベッタンベッタン。
重い、腰に来る、臭い。
そして足で踏むとさらにベッタリ固まって、スコップで持ち上げるのが大変。
リアカー班も「うおぉ!この重さはなんだー!」とか言ってる。
泥の密度がハンパないっす。
あと、ガラスがヘドロの中からヌチャヌチャと次々出てきて、処理に困った。
たぶん100kg分くらい出てきた。
午後の休憩のときにはOさんがみんなにヨーグルトと缶コーヒーを差し入れしてくれた。
わーい、ありがたいです。遠慮なくいただく。いや、少し遠慮してからいただく。
この15人、いい感じのチームワークが形成されてきた。
一緒に働いていると仲間意識も芽生える。
年齢も性別も出身もバラバラだし、名前すら知らないのに。
こうしてまた1日の作業が終わる。
機材を庭で洗い、車に積み込む。
Oさん宅、それなりに綺麗になった。Oさんも喜んでくれていた。
「ありがとうなー」と車1台1台にお礼を言っていくOさん。
みんな会釈をして出発していく。みんな、ことばに困っている。
お礼を言いながら寂しそうに次々去っていく車を見送るOさんに何か声をかけたい。
僕の車は最後の1台だ。何を言えばいいのだ。すごく迷う。
運転席から「あの…」とOさんに声をかけた。
ちょっとキョトンとするOさん。
僕は続けて「まだ寒い日もあるので、無理をせずに体調には気を付けてください。」みたいなことを言った。
Oさん、少しはにかんでで「ありがとう」と返してくれた。
被災もまともにしていない部外者だし、Oさんに比べれば遥かに若造である僕にそんなことを言われてOさんはどういう気持ちだったのか。
僕のことばは良かったのか悪かったのか。
ことばを発した直後からこの記事を執筆する2011年の夏現在まで、実は僕は悶々としている。
わかんないんだよ、難しいよ。
空はいつの間にか、泣き出しそうに曇っていた。
変わり果てた世界で
ボランティア活動は16時までだ。
9時~16時まで。原則徹底している。
無理して体を壊すようなことがあってはいけないのだ。
ボランティアは役に立つために存在している。足を引っ張る存在であってはならない。
休むのもまた仕事である。
16時以降のフリータイムにて、町を見るのも重要な役目だと思っている。
おそらくは今回の震災は、遥か先まで歴史に残るような大事件だ。
僕はその証人の1人でありたい。
震災後しばらくしてからのボランティアだが、僕には僕の見た世界があるのだ。
その世界を、あなたにもお伝えしたい。
僕らは、これを乗り越えなければならない。
原発20㎞ゲートだ。
こっから先は、人の入れる世界ではない。
国道は常に監視員がいるが、県道はこの程度だったりする。
ここが限界だ。
ゲートの前で愛車を停めた。
犬だ。2匹いた。
愛らしい顔から、飼い犬であったことは一目瞭然だ。
「インテリ眼鏡の兄ちゃん、どうしたの一緒に向こうに行こうよ。」みたいな顔をしている。
原発20km圏内に住んでいた人たちは、そこを離れるにあたって止む無くペットを手離した人も多いと聞く。
20km圏内はそうしたペットや牛馬も野放しにされている例が普通にあるみたい。
また、津波などの被害に巻き込まれてペットだけが助かった例もある。
キミたちの飼い主はどこ?
2頭はひとしきり僕らに興味を示した後、20kmゲートの向こうに消えていった。
まだまだ崩れたままで手つかずの家もある。
ボランティア要請を出していないと、まだこんな感じなのだろう。
家主はどこかに行ってしまったのだろうか…。
狭い道は迂回の指示が出ていることも多い。
カーナビなどは役に立たない。
看板と自分の目で道路の安全を確かめて進む。
さすがに怖いので、陰から撮影している。
複数台の専用車両にガッチリ固められていて、警備厳重だ。
ここから先は当然いけない。Uターンだ。
時間が前後するが、これが僕らの見た最初の津波の被害状況だった。
なんだか、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
…津波、だよね?
送電線が津波に引っ張られるかなにかしたのだろう。
鉄塔がグニャリと折れ曲がり頭を垂れている。
その向こうには荒野が広がっていて、いろんな物が散乱している。
僕らの足元の畑が荒れていないことを踏まえると、あの辺りが運命の境界線だったんだろうな。
思いっきりズームしてみた。
向こうにはもう、何もなかった。
ディスプレイを見て、カメラを持つ手が震えた。
なにもかもが茶色であり、直線であるものは歪んで曲がりくねっている。
もう完全に津波浸水域だ、ここは。
右も左もガレキが散乱し、車が転がっている。
それでもこの道を、今現在ん僕の車が通れるということは、それなりにガレキ撤去したのだろう。
こんな大型車も転がるのだ。タンクローリーだ。
津波直後の被害の大きさが想像できる。
走っている車は1台もいない。
遠くを作業トラックや自衛隊車両が走っているのがかろうじて見える程度だ。
ここには動くものがいなかった。
すごい数の車だ。
あの3月11日から、この車はここで天を仰いでいるのだ。
震災が起きたのは、平日の昼間だ。
これらの「働く車」に乗っていた人は、当然いたであろう。
無事を祈りたい。
仕事よりも避難の方が大事だ。
道路標識は雑巾みたいにグニャっていた。
どんな力が働けば、上空にあったはずの標識がこんな無残な姿になるのだろうか。
さらに沿岸部を目指すと、本当に何もない。
見渡す限りの広々とした荒野だった。
しかしよく見ると地面には無数の建物の基礎が残っている。
ここも以前は普通に家が立ち並んでいたのだ。
笑顔で人々が生活していたのだ。
その残酷な事実にめまいがする。
津波は人々の生活を一瞬でさらって行ってしまったのか。
悲しすぎる。
この道も、震災前に僕は走ったことがあるはずだ。
しかし思い出せない。変わり過ぎてしまっている。
夕日が照らすこの大地に、僕らは言葉が出なかった。
ついにはアスファルトもどっかいっちゃった。
でもよく見たら、バラバラになって傍らに散乱していた。
ところどころには、まだ水が引いていない箇所すらある。
ヘドロに覆われた世界だ。海の臭いが一段とキツくなる。
テトラポットは砕けた状態で散らばっている。
テトラポットって砕けるのかよ…。
内陸部に戻る途中、被災者に手向けられた花束と、土鍋に線香を刺してある光景
を目にした。
その背後には、被災者に向けた応援メッセージのボードがある。
あぁ、胸が痛い。とても痛い。張り裂けそうだ。
遺留品洗浄で扱ってきた品々は、自衛隊さんがこういうところから掘り起こしてきたんだよね?
こんなにも何もなくなっちゃって、でもそこから写真が出てきたのなら、大事に大事に取り扱ってあげなきゃいけない。
改めて、翌日からの作業に気が引き締まる。
鹿島地区から海方面に来たときの光景だ。
ガレキしかない。
窓を開けると、ムワーっと変な臭いが車の中に入ってきた。
磯の臭いをもっともっと濃く煮詰めたような感じ。
きっと雨上がりだからなのかな。
かなり強烈だ。
この臭いは、忘れることができない。
この先夏場になったら、もっと強烈な臭いになるんだろうな。
衛生面が心配だ。
しばらく沿岸部を北上すると、やや小高い丘の上から沿岸部を広く見渡せるようなロケーションがあった。
道路以外の大地は、まだグチョグチョであった。
まだ一部海水が残っている土地に、ボロボロになった道路が一本伸びている。
3月以前はここはどのような景観だったのだろうか?全然わからない。
見渡す限り、どこまでも津波の被害。ずーっと遠くまで、絶望が広がっている。
わずかに残っているのは、鉄筋コンクリートの建物のみ。
木造建築はもう存在しない。
傍らには電柱が転がっている。
あまりの水圧で真っ二つに折れ、中から電線が飛び出ている。
車に乗り込み、さらに進んでいく。
道路は一部路肩が崩落していた。
夜は絶対に走りたくない道だった。
この先、この地が再び笑顔になるのに、いったい何年かかるんだろうか?
全国から励ましの声もあるが、実際にこの目で見ると「本当に復興できるのか…?」と思ってしまう。
物理的な復活だけではない。人が笑顔でその土地に暮らせるようになるまでは、途方もない時間がかかるのかもしれない。
津波は、漁船を遥か内陸部まで運んでいきた。
ここまでは海から3・4kmはあるのではなかろうか。
恵みの海が、牙を剥いた。
僕らも海を眺めたが、海をこんなにも怖いと感じたのは初めてだった。
だからか、海の写真が大変少ない。
あと少し威力があったら、浜通りの大動脈である国道6号が機能しなくなって、交通
網はさらに大打撃だったんだろう。
僕らが見たのは本当に被災地の1シーンではあるが、ショックを隠せなかった。
※「松川浦」・「百尺観音」なども見て回ったが、それは後日別記事としてご紹介したい。
また来る日まで
僕は再びここに来たい。
今回はボランティアをしたかったにも関わらず、スケジュール調整ができずに来れなかった仲間もいるのだ。
その仲間たちと再びここを訪れたい。
そしてもちろん、「東北=被災地」ではない。
そういうイメージは抱きたくない。
ちゃんと復興し、笑顔になった東北をノンビリとドライブする。
早くそういう日が来るように、応援をするのだ。
この帽子は大切にしよう。
…そうだな、10年くらいは愛車に載せておくか。一緒に全国を巡ろうか。
帰路へと着く僕らに対し、大量の自衛隊車両が正面からやってくる。
本当に、ありがとうございます。
僕らは実際に働いて、無力さを知ったよ。
自衛隊さん、偉大だよ。日本を助けてください。
大好きな東北。
これでいっときのお別れだ。
でもまた戻ってくる。
約束だよ。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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