仮にいきなり知らない外国人に話しかけられ、「日本には何がある?」と聞かれたのであれば、僕だったら「日本には法隆寺がある」と答えるね。
「なぜ日本には法隆寺があるのか?」と聞かれたら、そりゃもちろん「聖徳太子がいたからさ」と答えるね。
その聖徳太子は、西暦622年に亡くなったそうだ。
ってことは、今年2022年は聖徳太子が亡くなって1400年だ。
そういうイベントもあると以前より耳にしていたし。
聖徳太子没後1400年記念。
僕はひそかにそれに合わせ、2022年内に彼の主要な功績の1つである「法隆寺」を取り上げようと思っていた。思っていた…。
しかしだ、各種聖徳太子没後1400年記念イベントってのは、2021年に行われていたのだ!
いっけね、没後1400年って、単純に1400を足すのではなかったのか。
1年も気付かずにのほほんと暮らしちまった。
Webを調べたら聖徳太子没後1400年記念実行委員会、今年の6月で全てのミッションを終えて解散していた。
もう更地に戻っていやがる。
この緊急事態に年の瀬の僕はしばし頭を抱えた。
でも、書くっきゃねぇ。
没後100年だろうと1401年だろうと、法隆寺がカッコいい寺院なのは事実なのだから。
クリスマスはジングル法隆寺
リア充は「クリスマスの思い出は?」って聞かれたら、恋人とのスウィートな思い出話でもすぐに出てくるのだろうが、僕が「クリスマスの思い出は?」って聞かれたら「法隆寺」と答えるに決まっている。
今日はクリスマスである。
なのに僕は1人、奈良に車中泊旅行に来ている。
なんて渋いクリスマスなのだろう。
でも急に奈良に行きたくなったのだからしょうがない。
どうしても法隆寺を訪問したかった。
僕は南大門をくぐる。
おっと、ここで前提情報だが僕は法隆寺に5回ほど訪問している。
その中でも日本4周目と6周目の写真をミックスさせてお届けしたい。
ジングル法隆寺を実現したのは日本4周目の方だ。
西院伽藍が見えてきた。
なんなんだ、この僕の視界に入る絵面は。
最高すぎるだろ。歴史の教科書が具現化し、矮小な僕に襲い掛かって来ている。
僕1人では到底太刀打ちできない歴史の重みだ。
正面に見えている西院伽藍の入口にあるのが中門。
そこに金剛力士像が立っている。もう上の写真、左右で構えている金剛力士像が小さく見えるぞ。
「日本最初の世界文化遺産 法隆寺」と大きな岩に刻まれている。
自然と背筋が伸びる。
僕は子供の頃にもここに来ているが、何の興味もありがたみも感じていなかった。
子供の頃の家族旅行や修学旅行って、そんなもんだよね。
そんなもんだけども行っておくってのが、実は大事だったりするんだけどね。
車の免許を取ってからも2回ほど来た。
自主的に法隆寺に来たのだ。子供のころと比べればすごいステップアップだ。
しかし無料ゾーンのみの見学だった。
西院伽藍(その他の設備との共通券だが)を見学するには2022年現在では1500円であり、当時はもう少し安かったけれどもやっぱちょっとお高い。
それをもったいないと感じたのだ。
さっきも掲載した西院伽藍の外側。
つまりかつての僕は、上の写真のところまでを見て撤退したのだ。
そいつはいけねぇぜ。
だからクリスマスの日、僕は奈良にやってきた。
金を払ってでも西院伽藍の内側の世界を知りたい。
僕はそう思えるような渋くてダンディなイケメンになっていた。
サンタは僕に詫び寂びを理解する力をプレゼントしてくれた。知らんけど。
西院伽藍が放つ歴史のインパクト
金剛力士像
西院伽藍のゲートである中門を守るガーディアン。金剛力士像。
どれほどの戦闘力を秘めているのか。
はい、すごい迫力だ。勝てる気しません。
711年の作品と言われている金剛力士像。その高さは4m近くある。
ただただ圧倒される。
ここから先、彼らの守る仏の世界に足を踏み入れるのだ。
お邪魔します。粗相の無いようにしなければならない。
ここで料金所の登場である。
1500円ほどを財布から取り出し、お支払いした。
西院伽藍・東院伽藍・大宝蔵院の共通券だ。
これで僕は法隆寺に対し1500円以上の価値を見出さなければならない。
いや、そもそも法隆寺にはきっとそれだけの価値があるはずだ。
それを感じられなかったら、僕はそれまでの人間ということだ。
つまりこれは法隆寺との闘いなんかじゃない、自分自身との闘いなのだ。
五重塔
すっっばらしい!!
左が五重塔、右が金堂である。
ちょっと吹雪いていたが、一瞬の晴れ間を縫って撮影したのが上の写真だ。
まさにこれらが、世界最古の木造建造物といわれているもの。
法隆寺自体は西暦607年に建立されたのだが、670年に焼失している。
その後まもなく再建されたのが、今日の法隆寺だ。
いずれにしても1300年ほどの歴史のある建造物であることは事実。
そりゃ1300年も経っているので、いろいろ少しずつ木材は取り替えている。
こうやって外から見える部分は、飛鳥時代当時のものはほとんどないであろう。
ただし、この五重塔の中心を貫く巨大な柱は紛れもなく飛鳥時代のもの。
上質なヒノキを使い、そして五重塔の各階層とはガッチガチに固定させていないから、地震が来ても衝撃を逃がせる構造なのだそうだ。
これ、「東京スカイツリー」にも使われている工法らしい。
「すばらしい!」と先ほど思わず唸ってしまったが、果たして何が僕にその感情を抱かせたのか。
いろいろ改修してパーツは交換されているけれども、1300年前の人とほぼ同じものを見ているという不思議な感覚が、たまらなくエモいと感じたのかもしれない。
静かな境内で、お寺の人が竹ぼうきで白砂を掃く「ザッザッ…」という音が、神聖さを演出してくれたのかもしれない。
自分自身で振り返ってもよくわからない。
写真を見返してもよくわからない。
でも、ありきたりな表現かもしれないけど、現地でしか味わえない雰囲気を、僕は感じたのだ。
あとね、あなたも法隆寺に行くのであれば、ぜひこの五重塔の内部を覗いて見てほしい。
東西南北の四方から、内部をチラッと覗けるのだ。
写真撮影禁止だが、これがすごかった。
目を凝らしてギリギリ見えるくらいの薄暗い空間。
そこに巨大な木を削って作られたと思われる、仏教の世界感と多数の仏像。
711年に造られたままのものらしい。
なんだかドロリとしたその造形に、僕はある種の恐怖感さえ覚えた。
金堂
そして五重塔の隣の金堂だ。
軒がすっごい張り出ていて、「まるで鳥が羽を広げたよう」と形容されることもある建物。
これも飛鳥時代から残る、世界最古の木造建造物の1つ。
ちなみに一番下の軒は奈良時代に追加されたパーツだそうだ。
最上階では、張り出た軒を支えるための柱がある。
これは江戸時代に大規模な修復をした際、「この建物、軒が張り出し過ぎていつかバキッと行くんじゃね?」って心配されて追加されたものだ。
柱には龍が巻き付いているのが目視できる。
頭が下になっているのが下り龍だ。
すごい重厚感のある彫刻。「日光東照宮」を彷彿とさせる彫り方だ。
後世のものだが、なかなかにこの世界観に馴染んでいる。
別の柱の登り龍。カッケェェ!
何!?その目のあたりからほとばしっている青いヤツ、何!??
プラスチック?
…じゃないにしても、江戸時代にそんなカッコいい素材あったの!?
あと、この金堂の中も見学できる。
そこは撮影禁止なので写真はないが。
中に鎮座していたのは、釈迦三尊像・薬師如来像・阿弥陀三尊像・四天王像などなど。
これヤベーぞ、教科書でお馴染みだった面々たちだ。
教科書の内容が「現実」として目の前に現れる、この興奮よ。
西院伽藍内の大講堂。
925年に焼失してしまい、990年に再建されたそうだ。つまり平安時代か。
中には薬師三尊像がいる。
これも再建時に造りなおしたものなんだって。
確かに法隆寺のメインどころはこの西院伽藍なのだが、もうここだけでお腹いっぱいだ。
既にお金を払っただけの価値を実感している。
東院伽藍、その他も見どころ多し
このあとは、次の有料ゾーンである東院伽藍に向かうのだが、ちょっと箸休めで無料スポットも見よう。
いや、箸休めなんて言葉を使うのはとても失礼なのだが、なんとなく言わんとしている意味だけご理解いただきたい。
これは三経院という建物。
ちょっと難しい話になるんだけど、もともと勝鬘経・維摩経・法華経っていう仏教の経典があってさ、それを聖徳太子が注釈をつけた書物が三経義疏。
そこから名前を取った建物だ。
この建物自体は鎌倉時代に建てられ、その用途は「聖徳太子の三経義疏を講義するため」というものだ。
特に法華経は日本最古の肉筆による物品であり、聖徳太子の肉筆と言われたりそうでない説もあったりとアレコレ論争があるけど、話すと終わらないので止める。
これも無料エリアにある、食堂である。
もらったパンフに「食堂」って書いてあり、お堂などの格式ばった名称が並ぶ中でメッチャ親近感のあるフレーズだったので「行かなきゃ!」って思って来た。
しかしなぜか最悪なほどにヘタクソなアングルである。申し訳ない。
聖徳太子の生きた飛鳥時代ではなく、もう1つ後の奈良時代のものらしい。
創建当時は法隆寺の寺務所だったけども、平安時代に入ってからはお坊さんたちの食堂として使われたそうだ。
ちなみに食堂(しょくどう)ではなくって食堂(じきどう)と読むんだって。
ここは現代人に親しみらしく"しょくどう"であってほしかった思いもある。
2つ目の有料エリア、東院伽藍にやってきた。
ここは少し小規模。
日本4周目のときにはここで急に曇り、雪がチラついてきた。メチャ寒い。
日本6周目のときは修学旅行っぽい生徒たちがいて、境内ワチャワチャと混雑していた。
左手に映っているのが鐘楼。鎌倉時代のものなのだそうだ。
しかし中に納まっているのは奈良時代の鐘。
いずれにしても想像できないほど昔のものなのだな。
東院伽藍のシンボル的な存在、夢殿だ。
中には飛鳥時代の作品である救世観音像が収まっている。
これは1200年ほどに渡って封印されていた秘仏中の秘仏だけども、今は年2回公開されているようだよ。
ファンシーなネーミングと造形の夢殿であるが、その救世観音像こそが法隆寺最大のミステリーではないかと僕は思っている。
聖徳太子亡き後に、聖徳太子の等身大の仏像を造ろうってなってできたのが、この救世観音。
しかしその仏師が完成直後に謎の死を遂げる。
人々はなんだか怖くなって、木綿でグルグルにして未来永劫封印としたのだ。
その掟を破ったのが、1200年後の「岡倉天心」そしてアメリカ人の芸術家「アーネスト・フェノロサ」。
法隆寺側にメッチャ頼み込んで、ようやく封印を解く許可を得た。
扉を開けると数100mもある布でグルグル巻きにされた救世観音が出てきて。
でも奇妙なことに聖人扱いされている聖徳太子の等身、つまりは扱いは本人と同じくらいであってしかるべきなのに、いろんなところに釘が打ち込まれていて。
しかも極めつけは仏像の背後に設置する光背っていう、後光が射しているような演
出をするためのパーツがあるじゃないですか。
これは当然本来だったら仏像を傷つけないようにいい感じのポジショニングで設置
されるんだけど、コイツの場合はクサビで後頭部にモロに打ち付けられていたそうで。
ありえん。
何か強烈にネガティブな事情があったのだろう。
僕も機会があったらこの救世観音の特別公開、見に行きたい。
最後に、3つ目の有料施設である大宝蔵院に入った。
これはようするに博物館だ。
最新の設備で照明・温度・湿度が保たれた環境下に、厳重に歴史的価値のある物品が展示されている。撮影は禁止。
こう、これはあなたご自身の目で見ていただきたい。
歴史の教科書などで見たもののオンパレードだ。
だけども教科書の小さな写真と実物とでは、迫力が雲泥の差だ。
これはいつもTVで見ている芸能人と実際対面したときの気持ちとかと一緒かもしれない。経験したことないから知らないけど。
とくに有名なのは玉虫厨子だろう。
息をのむような迫力だった。
1400年前の世界が、手の届くようなところに広がっていた。
1400年の時を越え、さらに未来へ
聖徳太子没後1400年。
すっごく昔の話であり、1400年で世界の技術も人々の暮らしもまるで変った。
それでもすごいものはすごい。
残るものは残る。
そう感じた。
…ん?
だけども1400年前って、そんなに古いか?
100歳まで生きる人が14回バトンを繋げば、聖徳太子の時代まで遡れる。
人間だから長く感じるけど、昆虫や動物であれば14ループはそんなに長くはないであろう。
だけども14ループ前の時代の遺物・遺構はあまりに少ない。
前時代のもんはどんどん失われていっている。
僕らが死んだら、何が残る。それはいつまで残る?
きっと切ないほどに少なく、そして短い。
だけども目に見えない、かたちに残らない何かが脈々と未来へ受け継がれていくのだろう。
それが人生であり、種として命を未来に繋げるということなのだろう。
僕はまだ物事をそこまで達観した目線で見ることはできない。
だから今はあがきたい。
束の間かもしれないけども、このブログが僕の存在している証明。
このブログがある限りは、僕の生き様をほんの少しだけ世間に知ってもらうことができる。
…法隆寺を出ると、途端に世界は現代へと戻った。
交通量の多い市街地を走りつつ、次のスポットを目指してハンドルを握る。
僕は今日も走る。
そして来年も。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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