「ここに来たことありますか?」
「ここがどんな宿か知っているんですか?」
「本当に大丈夫ですか?何もないですよ。ご飯も飲み物も無いですよ。」
電話口の女将は、若干いぶかし気に僕に質問を繰り出してきた。
大丈夫なのだ。
僕は初めてだが、カクゴができている人間の目をしていた。
こんなにも晴天だというのに、磐梯吾妻の上空は分厚い雲だ。
いいじゃないか、行ってやろうぜ。
横向温泉、「中の湯旅館」。
今回はここで1泊する。
雪の中の湯治宿
日本6周目の前半戦の3月のある日のことである。
そう、ちょうど2023年の今の時期のように、冬が終わり急速に春が近づいてきたシーズンであった。
週末は能登半島一周しようと思っていた。
しかしそっち方面は雨だという。じゃあやめよう。
蔵王の情報を調べてみると、噴火警戒がようやく解除されたのだが、数日前に樹氷シーズンはほぼ終わったとのことだ。残念だ、じゃあやめよう。
岩手県の三陸海岸沿いドライブをしようにも、そっちも天気が悪いらしい。
そっか、じゃあやめよう。
決して悲観的になっているわけではない。ヤケクソになっているわけではない。
安心してほしい。僕には旅の引き出しがいっぱいあるのだ。
なら温泉に行くか。
僕は特に温泉にすごく興味のある人間ではないが、鄙びた味のある民宿が好きなのだ。
それで思い出したのが、以前知って気になっていた福島県の「中の湯旅館」という湯治宿。
ちょっとボロボロな雰囲気な昔ながらの湯治宿で、ご飯は出てこない。
調理機材以外の物はすべて自分での持ち込み。
ここにすっか。
そうやって電話をしてみたやりとりが、冒頭だ。
まずは「ここに来たことありますか?」、「ここがどんな宿か知っているんですか?」の攻撃。事実を答える。
いぶかしげに「本当に大丈夫ですか?何もないですよ。ご飯も飲み物も無いですよ。」
と聞かれる。
余裕です。結構耐性あるんです、僕。
ってことで、無事に予約完了。
念入りに、「YAMAさん。ウチは初めて。」って復唱された。
大事なのはそこなのか。
とりあえず、週末突撃してみるわ、そこ。
青空から一転して周囲は豪雪、粉雪の舞う世界。
春、どこいった??
そんな雪道の先に見えてきたのがコレだ。
なんてクールなジャパニーズホテル!ヒューーッ!!
宿の前には雪は無いけど、これはホースから垂れ流される水で無理矢理溶かしているだけだからね。メッチャ寒いよ。
とあるWebサイトでは東北一のボロ宿と書かれたりもしていた温泉宿。
そんな宿に興味をそそられないわけがない。
きたぞ、僕のサンクチュアリ!
鄙びた世界が僕を癒す
おそらく周囲数㎞は商店1つない世界。
山の奥深くの秘境の一軒宿。それが、横向温泉の中の湯旅館だ。
玄関を入るとこの昭和な世界が広がる。最高である。
土間のストーブが暖かいぜ。
土間で作業をしていた女将さんが「いらっしゃい」と迎えてくれた。
あまりこちらに絡んでくることも無く、でも必要なときにはちゃんと案内をしてくれる、絶妙な距離感の女将さんであった。
「じゃあ、案内するからついて来てね」と、女将さんは宿内を案内してくれる。
お風呂と、洗面台と、お部屋と…。
あれ、…お部屋遠いな。
曲がりくねった渡り廊下のようなところをズンズン進む。
この廊下、大丈夫かな?
酔っ払ったおじさんがフリーハンドで書いたような壁と天井だけど、大丈夫かな?
軽くダンジョンのような雰囲気だ。
ほら、ダンジョンだからモンスターが現れた。
いや、これは…、モンスターじゃない、掃除機だ。
21世紀では見かけないような、レトロかわいいデザインの掃除機だ。
軽自動車のムーヴキャンバスとか、こんな感じのパステルツートンカラーだよね?
時代は一巡してレトロブームが来ていると感じているのは僕だけか?
部屋。
昭和。
もうこれだけで、ネコがマタタビ見たようにキャッキャとはしゃぎたくなるわ。
薄暗くて狭い部屋!畳!こたつ!窓の外の雪!
「炊事場にも調理器具があるけど、部屋にも最低限のものがあるから使ってね」と女将さんが言う。
部屋の入口横にはこのような簡単な調理グッズがあった。
年季が入りまくり。最高。
座卓の上にはお茶セットがあったので、とりあえず飲むことにする。
一杯のお茶。
これがこの世界に馴染むための儀式だ。通過儀礼。
しかし、女将さんは電話で「何もないですよ。ご飯も飲み物も無いですよ。」って言っていたよな。
あるじゃないか、お茶。
ツンデレか。好き。
極上のお湯に浸かれ
では、極上と言われている温泉に浸かろうか。
僕は温泉オンチでお湯の善し悪しはよくわからないし、ボロ宿目当てで来ているから極論普通にシャワーでもいいんだけど、やっぱ温泉には入るよね。
「温泉に入る」という行為が、既に詫び寂だと思うしね。
プライベートスペースでこたつに入っている女将さんに、「温泉入ってくるー!」と声を掛けておいた。
どうやらこの旅館には混浴内湯・混浴露天・女湯の3つがあるらしい。
ちなみにこの季節露天は自殺行為だそうで、内湯のみだ。
1階からさらに、狭くて暗い階段を下がった先に男性用の脱衣所があった。
あれ?
僕は手前側から入って来たのだが、向かって奥の白いドアをよく見てくれ。
男性用脱衣所の向こう側に、女性用浴室がある…!!
どういうことだ?
女性用脱衣所に行くには、男性用脱衣所を通過しなきゃいけないのか!?
これはヤベーぞ!
女性も男性もヤベーぞ!
…と思ったが、先ほど書いた通り、ここには男湯というものはない。
かわりに混浴の温泉がある。脱衣所は男女ともにある。
ちなみに混浴の温泉に行くには、男性用脱衣所を通らねばならない…??
…って思った。確信しかけた。
しかし、この宿に詳しい方から「女湯 ⇔ 混浴」を行き来する通路があるとの情報をいただいた。
なるほど、そいつは気付かなかったぜ。ありがとう。
とても簡素で味わいのある温泉だ。
誰もいなかったタイミングで、女将さんに断り撮影させていただいた。
シャワー・シャンプー・石鹸類は何もない潔さだ。
混浴側のみにある36度の冷泉が人気だそうで、だから女性もこっち側に入ってくることがあるのだとか。
そのかわり、女湯側に人がいなければ男性が女湯に入るのもOK的な文化だそうだ。
ゆるいなー。
でもそれで平和的に解決するのであればいい世界だなー。
そういえば、この近所にある赤湯温泉の「好山荘」もそんな感じのゆるさだったなー。
お湯はやや茶色。そして大量の湯の華が舞っている。
冷泉のほうの湯舟はもちろんぬるい。
しかし一生入っていられそうな心地良さで、その後に体がジンワリと温まる。
話は前後するが、翌朝に入浴したときにはここで女性と一緒になったな。
前述の通り、僕は温泉に詳しくないからこれ以上のことは書けない。
しかしこの鄙びた空間で何をするわけでもなく、ボケーっとお湯に浸かっているのが至福なのだ。
そんな時間、人生に必要だろ?
戻った部屋の窓から見える裏庭はとんでもない積雪であったが、もう僕はポカポカだ。
気分は無敵であった。
自炊しよう、酒飲もう
では、もうやることもないから夕食を作るのだ。
いや、「作る」ってほど手間をかけるものは今回作る予定はない。
ただせっかくの自炊宿なので買って来たものをそのまま食べるのは味気ない。
料理のまねごとをしたいのだ。わかるね?
廊下の突き当りに共同の調理場スペースがある。
「調理場」という部屋は無いのだ。廊下と同じ幅で、突き当りにキッチン装備。
こいつぁ、えらい寒いぞ!
温泉で温まっておいてよかったな、YAMA!
ワクワクする空間だ。
厳冬地特有の、「水道管が凍るから水を出しっぱなしにしておいて」の文化も風流だ。
調理道具はどれも古く、鍋なんてどんな虐待を受けたのか心配になるほどボコボコだ。
食器は昭和のデザインから一歩も進化していない。
これ、湯治宿あるあるなんだけど、それが好きなのだ。
そんなボコボコの鍋を丁寧に使い、そして洗う自分が好きなのだ。
食材も調味料も、ラップみたいな消耗品も全部持参だ。
食器と調理器具以外は無いのだ。
僕はそれら全部用意してきた。
なんか洋風なモンができた。
チキンのハーブ焼きとウインナーだ。ライスには軽くハーブソルトを振りかけた。
こういう季節にこういうところ来たら普通は鍋だよね。
僕も普段はそうするが、なぜかヨーロピアンの血が騒いでしまった。
そんな血は一滴たりとも入っていないのに。
まだ外は明るいのに、温かいこたつに入り込んで、早くもビールを飲み夕食にする。
なんて幸せ。
今週末はこの幸せを選んで正解だった。グッジョブだ、僕。
遠くに夕焼けが見えた。
こんな天気であったが、最後にわずかな夕焼けが見られるとはラッキーだ。
そして明日はここも晴れるらしい。
しかし寒いな。
実は窓サッシが歪んでいて、窓がどうしても1cm開いてしまうのだ。
まぁいいか。
その後はゴロゴロと読書をし、TVを見て、22時過ぎくらいには寝ていたような気がする。
このくらいのレベルが人間として正しい過ごし方だと思う。
…続けて翌朝の朝ご飯の話もしよう。
逆光の調理スペースの中で、僕が両手に抱いているのはパンだ。食パン。
はい、コイツまた洋食に走る気だぞ。
我が家はパンに決まっている。そう言い張りたい。
昭和レトロな花柄の鍋やゴツさMAXの釜はあるが、トースターが無い。
しかしトーストを食べたい。どうしよう。
この宿、客がトーストを食べることを想定してない。しょうがない。
魚焼きの網があったので、それで気をつけつつパンを焼こう。
大丈夫、かつて車中泊自炊でさんざんやったことのあるスタイルだから。
そしてフライパンでは目玉焼きとウインナーを焼いた。
実はパンにはピザ用チーズをのせて、チーズトーストにしたい。
しかしこのスタイルではパンの上に乗せたチーズは溶けない。
チーズを乗せたパンを引っくり返せばチーズは溶けるが、パンからは全て落下して網を洗うのに2時間かかる。
この問題はどうしよう。
この写真を撮った後に実行したのだが、この状態のトーストの上にアツアツの目玉焼きを乗せるのだ。
そうすればそれなりにチーズが溶ける。
ひとまず優雅なのかワイルドなのかわからない朝食が、こうして無事に完了した。
旅館内を探検しよう
最後の章では、1日目・2日目とそれぞれ僕が旅館内をウロウロ徘徊した際に撮影した写真をご紹介しようと思う。
改めて外観。
煙突から勢いよく立ち上る湯気が猛々しい。
ブルーシート・脚立・「土湯峠改築計画」の看板・ホウキ…。
これらを見るとまるで工事現場の簡易事務所みたいな感じだが、旅館である。
女将さんがいない場合、玄関にはカゴが置かれる。
もし日帰り入浴の人が来た場合は、このカゴに料金300円を入れるシステムだ。
また、「この温泉はぬるいよ」という注意書きもある。
初めての人や急いでいる人は同じく横向温泉の「マウント磐梯」に行くよう勧められている。
初めての人はあまりのぬるさにビックリしてしまうし、急いでいる人は体が温まるまで浸かれないからなのだろう。
1泊で3900円。
暖房・TVは別料金だと書いてあるが、実際は込み込みであったな。ありがとう。
平成5年、つまり1993年の茶色く変色した料金表も転がっていた。
この頃は1泊3000円だ。
その他、事細かに料金設定がされている。
朝、僕はトイレの窓ガラスがとても美しい模様であることに気付いた。
昭和の職人技だな、すごい。
…って思った後、それは違うことに気付いた。
これは氷だ。窓が凍っているのだ。
なぜこんな不思議な紋様なのかというと、それだけ風が強かったからであろう。
なんて恐ろしい地!暦上ではもう3月なのに!
洗面所には「水は止めないで」の貼り紙が複数ある。必死のアピールだ。
もしこの気候で水を止めたら、間違いなく水道管は凍るだろうからな。
奥には洗濯機もある。
湯治で長期滞在するなら洗濯OKだ。
浴室の近くには、このような休憩室もあった。
窓が大きくて、天気のいい日にはサンルームのようにポカポカするのだろう。
ストーブがついていなくって地獄のように寒かったが、僕が館内で一番好きになったロケーションだ。
陽だまりの縁側でゆっくりくつろいだら、最高じゃないか。
そして頭上にはたくさんの物干し竿とハンガーがある。
長期滞在の湯治客はここに洗濯物を干したりするのだろう。
今回は全然お客さんいない。
たぶん僕以外に女性2人組がいるような気配であったが、その程度だ。
季節によっては、あるいは湯治が盛んだったころにはこのスペースもみんながワイワイしていたのだろうか?
そう考えるとちょっと切ないね…。
この宿の再開を祈り…
そんな思い出深い横向温泉・中の湯旅館なのであるが、ちょっと今ピンチなのだ。
実は2023年3月現在は休業状態であり、「女将さんも年だし、このまま閉業してしまうんじゃなかろうか?」というウワサも流れている。
2022年3月16日、福島沖地震が発生した。
2011年の東日本大震災と同じような時期に同じようなところが震源で、どうにもモヤついた気持ちになってしまうけれども。
宮城県や福島県は場所によっては震度6強となり、このあたりも震度5は確実にいったハズだ。
その地震で休業している模様だ。
あとは、その年の積雪の影響で建物が一部損壊したから、という情報もある。
どっちが正しいのかわからないしどっちも正しいのかもしれないが、歴史ある旅館が今存続の危機に瀕していることは事実なのだろう。
休憩スペースの脇の本棚には、1944年(昭和19年)からの宿帳がある。
まだ戦時中だ。ほとんど古書ってレベルだ。
そんなものが無造作に置かれていて、手に取ることができるのがすごい。
しかし宿の歴史はそんなもんじゃない。
福島県初の自炊専門湯治宿として、1882年に創業したのだ。
140年以上の歴史がある。
この歴史、終わらせたくないよね。
地震や積雪も、乗り越えてほしいよね。ついでにコロナも。
…2023年の僕は、祈るような気持ちでこの宿の続報を待っている。
翌日は最高の快晴であった。
10時ギリギリまで入浴・自炊とゆっくりした僕は、荷物を愛車の日産パオに運び込み、女将さんに挨拶をする。
ちょっとクールな女将さんであったが、「ありがとう。また来てね。」と最後に言ってくれた笑顔が眩しかった。
旅館の外の太陽も眩しかった。
雪の壁の間をゆっくりと歩き、最後に中の湯旅館を振り返る。
短い間だけど、ありがとうございました。
日本6周目前半の、冬と春の間の物語。
たった1泊だけど、忘れられない思い出。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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