残念ながら僕はそれを見ていながらも写真に収めたことがないまま、2011年3月11日の東日本大震災の津波で1本を残して壊滅した。
それが「奇跡の一本松」と呼ばれている松の木である。
まぁこの一本松も2011年の秋くらいには枯死してしまうんだけどね。今僕らが見ているのは、もう命のないサイボーグなのだ。
では、最後の一本すらも死んでしまって高田の松原は完全に全滅したのだろうか?もう復活しないのだろうか?…いや、実は未来に希望を抱ける情報があるのだが、それは最終章で記載しような。
それでは、震災直後のまだ一本松がかろうじて生きている時代から現在までを追いかけてみよう。
- 2011年、まだ一本松が生きていた頃
- 2014年、宇宙基地のような世界
- 2016年、解体される土砂運搬施設
- 2017年、整備の進む陸前高田
- 2019年、かつての姿に思いを馳せて
- 202X年、これから始まる新しい時代
- 住所・スポット情報
2011年、まだ一本松が生きていた頃
久々に高田の松原に到着した。
まずは道の駅の特徴的な建物が津波でボロボロになっていることに心を痛めた。建物の中をいろいろ見たりしたのだが、その話はまたいずれかの機会に書こう。今回の対象は奇跡の一本松だ。
しかし、ここから松原まではどういけばいい?
松原は対岸に横たわる砂洲にあったと記憶しているが、その砂洲がもうほぼ消滅している。さらにそこまで行く道も津波で無くなっている。
そもそも2kmほどに広く存在していた松原の中のどこに奇跡の一本松があるのだろうか。
再び愛車に乗り込んで付近を1往復する。
すると遠くに一本だけ高くそびえる木が見えた。
あった!あれか!南端に近い部分だね。国道からは200mくらいだろうか?津波に覆われた部分を歩かなければいけないので、愛車は国道沿いの空き地に停めておこう。
足もとがガタガタになっている中、ボロボロの建物とかガレキの山を横目で見ながら一本松を目指す。日差しが強くて暑い。気温は27℃もあるらしく、汗ばんできた。
あぁ、これが奇跡の一本松か。見上げるほどに大きい。10mはあるのかな?
本当に何もない荒野の中、一本だけしっかりと立っているのだ。まさに奇跡。
もともと江戸時代初期にこの地に6000本ほどのクロマツが植えられたのが高田松原の始まり。その後、松の本数は7万にもなり、日本百景に認定されたりもした。
観光客は年間100万人にも及んでいたそうだ。
しかし2011年3月11日の東日本大震災に伴う10mを超す津波により、たった1本を残して全ての松が消滅してしまったのだ。
災害の失意に沈む人たちに対し、この松がどれだけ希望を与えてくれたことか。復興の象徴なのだ。
この一本だけが残った理由としては、松原の中でも古くて大きな木であったこと、津波をこの「陸前高田ユースホステル」が防いでくれる位置にあったこと、さらには津波の引き並みを背後のバイパスの高架が防いでくれた、などの奇跡が重なったためだと言われている。
だがしかしだ。
これらの写真はかなり貴重だからよく見ておけよ。この1ヶ月後にはこの一本松は枯死してしまうのだから。これは一本松がまだ生きている激レアな写真なのだ。
震災直後の春にはまだ元気だったこの松も、津波による海の接近と地盤の沈下に伴う塩害で、徐々に状態が悪くなってきた。
みんなが必死にポンプで海水を汲み出したので、2011年には初夏には新芽すら出るほどに復活した。
だけども盛夏あたりからどんどん弱ってきた。
付近には浸水を食い止めるためのバリケードや、海水を排水するためのポンプが設置されているんだけど、それだけじゃ防ぎきれない様子だ。
どうにか元気になってくれればいいけれど…。
僕は祈るようにこの一本松を見上げた。
しかしその願いは叶わなかった。
2011年10月ごろの調査で、根がほとんど腐っていて再生できないとの決断が出た。従い、もう延命治療は無駄だ多判断され、水を汲み出すポンプ類の稼働も停止してしまったとのことだ。残念だ…。
2014年、宇宙基地のような世界
陸前高田に近づくと、思いもよらない建造物が宙を縦横無尽に侵食して度肝を抜かれた。
しかしなんだここは…??
以前と光景が変わりすぎ。一面ガレキだったところは更地にされたあと、縦横無尽に太い配管が頭上を駆け巡っている。宇宙基地みたい。
ベルトコンベアーだな、これは。津波対策の土地のかさ上げのための土砂を運ぶために一時的に造られている、今しか見られない建造物。
これにより、トラックだと9年かかる土砂の運搬をわずか2年半で終わらせるのだ。このコンベアーの全長は3㎞もあるそうだよ。
ベルトコンベアー、ガタンゴトンとすごい音が鳴り響いている。砂煙が一面に舞っている。まるで火星の基地のようだ。
周囲はその工事関係と思われる大型トラックが絶えず行き交っている。
この異様な光景、音やにおいや砂煙の感覚、この期間にここにいた人しかわからないだろうな。これも復興のひとこま。見ることができてよかった。
というより…、「奇跡の一本松」はどこ?
変わりすぎてどこだかわかんねー。ひとまず、この工事に携わる車両ではなく部外者も駐車してOKそうな駐車場があったので、そこに愛車を停めたのだがね。
駐車場の道路側に立っているヘルメットを被った工事車両の誘導員のおじさんに「奇跡の一本松はどこですか?」って声をかけてみる。
すると「昔はここいらにあったみたいだけど、どっかに持って行っちゃったんじゃないかなー?」と言われた。
えぇぇーー!!なんてこったい。そんなことしたのか!?
奇跡の一本松、引っこ抜いて撤去されたのか!??
一瞬絶望するんだけど、周囲を見渡したらこの駐車場、「奇跡の一本松駐車場」って書いてある。
あるじゃねーかよ、一本松!!おじさん、自分がどこに立っていたのか自覚なし!!
ここから一本松までの距離は1kmほどありそうだ。
これがもし景色がいいのであれば、1㎞程度はなんてことは無い距離だ。
だけどもここは白濁してホコリっぽい空気、ベルトコンベアの轟音とトラックの走行音、そして不快な暑さ…。ちょっとシンドい予感だぜ。
無機質な道のりを淡々と歩く。同じような観光客がチラホラいるのがせめてもの救いだな。
「希望の架け橋」という名前の巨大な吊橋が見えてきた。
ベルトコンベアー用の吊り橋というという非常に珍しい橋。主塔の高さは40m・塔柱間は220mもあるそうだ。
"陸前高田市が早く復興するように"と明るい未来への架け橋になるよう、市内の小学生から募集して名前が決定したのだという。
土砂の運搬用に短い年月存在するだけの橋だけど、これが未来の陸前高田を作るんだもんね。
あと10年・20年もしたら、きっと大半の人が忘れてしまうことだろう。
この地がこうやって復興してきたということを。この橋があったということを。
僕自身、記憶が薄れていくに違いない。だからこそ、今しか見られないこの光景をしっかりと写真に収める。五感で感じたことを記録に残す。
見えてきた。ベルトコンベアーの向こうに見えていた。奇跡の一本松が。
前述のとおり、奇跡の一本松は2012年になるころにはもう完全に枯死していた。今のアイツはそれを解体して、人間でいうところのエンバーミング的な処理を施してまた元の様に組み直したものだ。
今までは見慣れない風景だったけど、ここの沿岸部ギリギリまでくれば、確かにこの一本松の立っている位置は昔のままだったと理解できる。
陸前高田ユースホステルもあのときのままだ。このまま震災遺構として保存するのかな?
一本松も見た目は同じだが、枯死した後にいろいろ処理を施された。
幹は5分割されて中身をくりぬき、鉄骨を入れて強化してある。
根っこは切り取られて別の施設で保存してある。枝葉は精巧に再現された複製品だ。そして避雷針を頭上に設置した。
そんな姿ではあるが、復興のシンボルであることには変わりない。
わずかにその名残の見える高田の松原。次来るときには、もうこの面影もなくなっていることだろう…。
往復で30分強かけて駐車場に戻った。まだ朝だというのになんか体が汗とホコリでベタベタしちゃった。
2016年、解体される土砂運搬施設
空、スッキリしたな。
そう感じたのは、2016年夏の夕暮れの訪問時だった。前回と同じ駐車場。だけども空中を走るベルトコンベアーはもうなかった。
つまりはかさ上げ用の土砂運搬作業はもう終わったのだ。震災からは既に5年以上が経過している。復興事業は次のフェーズに移っているのだろう。
土砂の運搬は終わったのだろうが、土地の整備はまだ終わらない。
前回同様、工事のフェンスは設置されたままだ。そんな工事エリアの奥の奥に、奇跡の一本松がある。
向こうの山には巨大なモジュラージャックみたいな穴が開いている。今まではあそこからベルトコンベアーが伸びていたのかな?
…てゆーか、あなたはモジュラージャックを知っている世代?近頃は電話機を設置している家も少なくなったし、あったとしてもその接続口をまじまじと見る機会ってあんまりないからピンと来ない表現だったかな…??
でもモジュラージャックなんだよ、あの山は。
希望の架け橋は、今まさに解体中だった。
主塔の上の部分がちょっとずつ解体されているし、橋の両側の部分は存在しない。幻の橋よ、お疲れ様でした。僕はこの光景を忘れない。
あ、一本松の背後に立派な防波堤ができている。
これはここに限ったことではないけれども、今後津波が来ても大丈夫なように、沿岸部は軒並み高い防波堤が築かれつつある。
海とともに見える景色が少なくなってしまうことに残念な気持ちもあるけど、また津波で同じような被害が起こることのほうがもっと残念だから、これはきっと受け入れるしかない決断。
夕闇の静かな海面と一本松。まるで時が止まったようだ。
本当にそうなのかもしれない。ユースホステルはあの日のまま保存されているし、一本松は成長することも枯れることも、もうないのだから。
ユースホステルは、このまま震災遺構として残される予定となっているそうだ。
僕は植物も好きだ。
日々ちょっとずつ成長する姿、残念ながら枯れてしまう姿、それを追いかけることが好きだ。だからフェイクグリーンはあまり好きではないのだ。
生命があり、寿命があるからこその美しさ。人間も同じことが言える。不老不死になってしまったら、人間も植物もちょっと味気ない。
前回見た時と1ミリも変わっていないのだから。
だけどもこの奇跡の一本松については、それが大事なのだろう。
偉人の銅像と同じように、人々を鼓舞した姿を未来永劫残すのだろう。
僕もまた来るよ。陸前高田の未来へと進んでいく姿を確認しに。
2017年、整備の進む陸前高田
2017年は、実はここを2回訪れている。春だけでなんか2回来た。
うち1回は3月11日だ。つまりは震災の日だ。被災地を巡りながらいくつかのセレモニーなどを見たりしていた。
その行程で、高田の松原も訪問したのだ。
駐車場から一本松への道のりはさらにきれいになっている。周囲はどんどん埋め立て・堤防建設・盛り土が進んでいるのだ。
ただ、いたるところで工事がガンガン行われているので、一本松までの道のりは工事地帯を迂回・迂回ですんごい距離だったよ。来るたびに迂回距離が長くなっているな…。かなりの歩行距離。
あ、まだ一部は震災のダメージが残っているのだね…。かつての道路がひび割れ、そして途中で消滅したままで残っている。
わわっ、とっくにもう撤去されて埋め立てられたと思っていた、かつての松原の名残も少しだけあるではないか。
一本松ばかりにフォーカスされるけど、こういった松原そのものの残存部分も忘れたくはないなぁ…。みんなこっちにも目を向けてほしい。
もう何度も見上げた奇跡の一本松。
今日も変わりなく立っている。変わりないけど、何度も眺めたくなる姿。そのために毎回僕はここまで歩いているのだ。
今回は頭頂部にかなりズームしてみたぞ。
梢のやや左側、白い避雷針が設置されているのがおわかりだろうか?この木がサイボーグ化されてしまった痕跡の1つだね…。
その2ヶ月後、僕は落ち合った旅友と共に再びこの地を踏んでいた。
堤防がすんごいできている。もうユースホステルが目立たないくらいにそびえている。
周辺はガシガシ整備されていっている。
何がどうなるのかよく知らないが、この一帯が震災祈念公園として整備されるというウワサは耳にしている。
被災した道の駅 高田の松原も一緒に保存するみたいだな。
河口に水門も作るらしい。
平成32年までかかるそうだが、平成時代ってどうやら31年で終わるらしいね。陛下が最近引退表明をされたから。
でも、次の時代の名前はまだまだ決まるまでには時間がかかるそうだから、今は平成32年としか書けないよね。
あぁ、新しい水門は向かって右側のものだね。
左側は以前からあるもので、「川原川水門」という。津波を食らってもう動かなくなってしまっている。それに対し、右側に新しいものを作り始めているのだ。
調べると、川原川水門は新しい水門ができたら撤去されるそうだ。
堤防の内側には、まだ少しだけ松原の残骸が残っていた。
でも立ち枯れの木々はどんどん朽ちて減っているよね。
では、また来るよ。
2019年、かつての姿に思いを馳せて
6月末だというのに、寒い寒い日であった。雨が降っているせいもあったのかもしれないが、しっかりと長袖を着こまないと凍えてしまいそうな日であった。
かつて空中にベルトコンベアーが張り巡らされ、トラックが行き来していた駐車場。
なんだか土産物屋などもできて一気に観光色が強くなったな。これはこれで喜ばしいことよ。
しっかし寒いな。そして風も強く傘を握る手にも力が入る。
看板には『風が強いので気をつけてください!』の手書き文字。なんだこの優しさの不意打ちは。泣けちまうだろ。
整備はされているが何もない大地が続いている。これ、嵩上げ工事を頑張ってやったんだろうな。
来るたびにちょっとずつ道が変わったり高低差が変わったりしていたもんな。なんだかんだで、こうして大地ができた。そこに花が咲くのはこれからだ。
謎の階段が出てきたりする。
今までなかった高低差。そして次に来るときにはやっぱりないのだろうなって思える、仮設の階段。これも一期一会。
震災後、これだけの土砂をもってきて、あたり一面標高を高くしたのだ。そりゃあれだけのベルトコンベアーをフル稼働する必要あるよね。
『高田の松原津波復興祈念公園をつくっています』、だそうだ。
奇跡の一般松へのアクセス、良くなる?芝生を突っ切って行ける?毎回毎回途方もない距離なので、どうしてもそこに目が行ってしまう。
あと、写真下部に濃い緑のカーブが作られている。おぉ、これもしかして松原を復活させる計画なのか!?
一筋縄では一本松に行けない。
通り過ぎてから戻る感じになっていないか?まるで迷路のようだ。寒い。
だがもうすぐ、このグチャグチャの大地が綺麗に整備されるのだろう。その過程を毎回見られてうれしいぜ。
そして今回も変わらぬ一本松が見えてきた。震災から8年。もうずいぶん長い年月が経ったね。でもこうしてまだ沿岸部は復興作業の真っただ中なんだな。
陸前高田ユースホステル。震災2ヶ月前の2011年1月から長期休館に入った矢先に震災の被害を受けた。
休館中だったので被害者はゼロだったらしい。それは幸い。
かつては松原の中に囲まれて建っていたようだが、今はそれを想像することすら難しい。執筆していてふと思ったのだが、僕の知っているこのユースホステルの姿は、この渡り廊下が折れ曲がった姿だけなのだ。
往時の若者や旅人で賑わった姿も知りたいな…。
ただね、今回母親を案内した目的の1つがこれだ。旅人の先輩でもある母親は、かつてここに宿泊したことがあるそうで。
海を眺める絶景の食堂でご飯を食べた記憶があるそうで。
思い出の場所がこうして無残な姿になるのって切ないよね。建物も人も一本松も、震災前まで生きていたのに。
僕も今まで多くの被災地を巡ってきた。震災前にも訪問したことのあるスポットについては、心をえぐられそうになるぜ。
新しい水門はずいぶんできて来たな。
その足元に小さな木々がピョコピョコ生えているが、あれは何?もしかしてすでに新松原の植樹がスタートしている!?おぉ、だったらテンション上がるぜ!
帰り際に見かけたノッペリした施設。『高田松原国営追悼・祈念施設(仮称)をつくっています』という横断幕が掲げられていた。
さぁ、もうすぐこの地が生まれ変わるぞ。
202X年、これから始まる新しい時代
日本6周目も後半に入っている。僕は再びここにやってきた。
前章のラストで見た施設は、2021年に全面供用となったそうだ。
道の駅だとか祈念公園・伝承館などが合併した一大施設になっている。
今回の記事では奇跡の一本松にスポットを当てたいので、道の駅 高田の松原のかつての姿から現在に至るまでのお話はまたいつか機会があったら書きたいと思う。
なので、実はこのとき賑やかになった道の駅を覗いて買い物したりだとか、伝承館での生々しい被災状況の展示物を見たりもしたんだけど、その話には今回は触れるのはやめておこう。
2021年時点で、4万本の松の苗木を植樹したそうだ。
なんとそのうちの600本は、かつて高田松原に生えていた松の子供なのである。
実は震災前の年に松原でクリスマスリーフ用の松ぼっくりをたくさん拾っていた人がいたらしい。その松ぼっくりから600本の松が誕生したのだ。
その松がちゃんと育って"松原"と言えるようになるには、50年かかるらしい。
それでもみんな頑張るんだよね。
未来に生きる人たちのため、この震災の記憶を消さないため。ちょっとずつ景観は変わっていっているけど、一本松はこれからも変わらず僕らも見守ってくれるのだろう。
以上、日本7周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報