2023年3月。
あの東日本大震災から12年の月日が流れようとしている。
もうあの震災は一昔前なのだ。
だけども今でも僕はあのときのことを思い出すたびに心がゾワゾワとする。
東北とは縁も所縁もない地に住んでいたのに、いまだに涙が出る。
僕が、日本が、絶対に忘れてはならない記憶だ。
震災の津波は、東北地方を広く襲い、沿岸部を壊滅させていった。
岩手県の大船渡市も、見るも無残な状態となった。
12年目の3月は、その大船渡市の思い出について語りたい。
…僕は震災の情報を最初につかんだときにね、どこよりも先に大船渡市のことを案じたのだよ。
プロローグ
東日本大震災が発生した。
東北の沿岸部の町は、軒並み全滅だと聞いた。
膝から崩れ落ちるような絶望感に打ちひしがれた。
大船渡の宿の、あのおじいちゃんとおばあちゃんは…!?
海と川の近くのあの宿で、秋に僕を温かく迎えてあのお二人は…!!?
安否を知りたい。確認しに行きたい。
だけどもこの混乱の渦中で、電話をしたり手紙を書くのは憚られる。
今の日本はそんな場合じゃない。
そうだ、大船渡に災害ボランティアに行こう…。
ダメだ。
僕はあきらめた。
岩手県は僕の自宅から遠すぎたのだ。
いや、僕は距離ガバなドライブを多くやっているので、大船渡まで行くことはそんなに難しくはない。
ただ、物見遊山で行くわけではない。そんなこと言っていられる時代ではない。
ボランティアだ。役に立たねばならないのだ。それにはある程度の日数が必要だ。
そう考えると、大船渡市には行ったところで充分な活動ができない。
僕は社会人で、それなりに責任のあるタスクを担っている。
震災復興もそりゃ大事だが、自分が守るべきものを放り出すわけにもいかないのだ。
僕はそこをボランティアの地に選んだ。
第一原発20㎞圏内にかかるために放射能が懸念され、ニュースで連日取り上げられるにも関わらずボランティアがあまり集まらずに苦慮している町。
宮城県石巻市がボランティアをメッチャ集めて軍隊ばりのフォーメーションを組んでいるのに、南相馬市のボランティアセンターは連日を自転車操業で動かしていた。
僕はそこに通う。
しかし、心にはいつも行けなかった大船渡市のことが引っかかっている。
…そう、12年経った今でも、だ。
ー 時代は震災前の初秋にジャンプする ―
シルバーウィークの抜け穴
9月にはシルバーウィークと呼ばれる大連休がある。
正確に言うと、有休をうまく差し込めば土日休みの人にとって大連休になる時期がある。
行楽の秋、みんな旅行に出かけるテンションである。
そんな世間の祭りに僕も乗じようとした。とりあえず岩手県に行こうとした。
しかし甘い。
みんなが出かける、イコール宿が無くなる。
普段は車中泊しかしない僕だけど、今回は同行者がいるのでどうしても宿を取りたい。
だがWeb検索すると見事に岩手県の宿という宿は全て予約で埋まっていて。
ホント冗談抜きに岩手県内全てを検索しても全然空いてなかった。
そりゃ旅行の数日前まで何も動かなかった僕も悪いさ。
しかし日本の都道府県の中でも有数の大きさを誇る岩手県にて、宿が1つも空いていないってどういうことさ、って思った。
…さてどうしよう。
大丈夫、僕には作戦がある。
Webでの大手旅行サイトには出てこない宿。Webで「〇〇市_ホテル(旅館)」などと検索しても出てこない宿。
それを探すには、町役場などのWebサイトの中にある「宿泊施設一覧」などのメニューを見つけると良い。
そこにはWeb展開していないようなローカルな旅館や民宿があったりするのだ。
※2023年現在であればGoogleマップからの検索だとかストリートビューでしらみつぶしだとかもあるかもしれないが、当時僕ができうる範囲で思いついた方法がこれだ。
とりあえず、その日の夕方に「滝観洞」っていう鍾乳洞を観光したい。
そうなると、付近の都市としては釜石とか大船渡とか大槌とか陸前高田がよいだろう。
先ほどリストで出てきた旅館にはもちろんWebでの予約フォームなんてない。
電話だ。
片っ端から電話し、当たっては砕け、当たっては砕け…。
どのくらい繰り返したかは覚えていないが、ついに予約が取れた。
大船渡市の「大東館」という旅館である。
大船渡の駅から150mほどの好立地にある素泊まり専用旅館。
よかった、これで心置きなく旅立てる。
大東館に宿泊した思い出
当日である。
前章で写真掲載したような観光地をいろいろと巡り、最後に滝観洞を観光したら、入浴施設でひとっ風呂だ。至福。
ここは以前も利用したことのある、大船渡市北部の温泉だ。
結構な山の中にあって、暗い中を車で進むのは少しドキドキしたが、いいお湯だ。
しかも(訪問当時は)300円。
そして大船渡の駅前近くでコンビニに立ち寄る。
今日の夕食は気楽にコンビニ弁当でいいや。ついでにお酒とかおつまみも買おう。
これらを宿で食べるのだ。
20:30ごろ、大東館にチェックインした。
この写真は翌朝チェックアウト時に撮影したものである。
Web上からは全く情報を得られなかったので、どんなところか少々不安もあったんだけど、やさしいおばあさんが出迎えてくれた。
看板には「ビジネスマン専門」って書いてあった。
あれ?そうだったの?僕は一般人で観光目的だけどもいいのかな?
まぁ何も言われなかったからいっか。
宿泊料金は4000円だ。
駅近という好立地なことを加味すると、なかなか良心的な価格だ。
さっそくおばあさんが部屋に布団を敷いてくれるという。
そこそこ高齢なおばあさんが僕の前でせっせと布団を敷くのをボケッと立ったまま見ているのも心が痛み、「僕らも手伝いますよ!」って言い、バツグンのチームワークで寝床が完成した。
では、夕食と飲み会を同時スタートだ。
おばあちゃんに部屋飲みの許可をいただき、買って来たものを座卓に広げた。
改めて見るとジャンクだな。栄養とか大丈夫か??
でも酒がうまい。
ただし前夜はほぼ徹夜で運転していたので、酔いが回るのが早い。普段の3倍酔う。
南部せんべいは大好物だ。うますぎ注意だ。
おかげでコンビニ弁当は半分しか食べられなかった。明日に残りを食べよう。
ほど良く酔い、フカフカの布団に包まれて寝た。
いい1日であった。
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そして翌朝である。
6:00ちょい過ぎに起床した。
朝からヒンヤリした空気が身を包んだ。
おぉぉ、寒い…。さすがに9月の東北の朝は寒いのだね。
今日の最高気温は15℃だというし。なかなか寒い。半袖をたくさん持ってきているのだが、着る機会はなさそうだ。
それにこの旅館は結構古そうなので、断熱性能が高くはないのだろう。古民家と同じような感じだ。
洗顔を済ませ、館内をウロウロ見て回る。
どうやら他にお客さんはいなさそうだ。
この深紅のカーペット、和風の欄間みたいなデザイン、昭和レトロでグッと来る。
備え付けのコーヒーがあったので、飲んで温まった。
それでもクシャミが出たけど。
館内に段差があり、こういう小さな階段があるのもとても風流だと思う。
外観からでは想像つかないかわいい造りだ。
また機会があったら来てみたいけど、次はビジネスマンとしての利用じゃないとダメかな?
7:20、チェックアウトする。
愛車の窓越しに旅館の写真を1枚撮影した。
荷物を積み込んでいると、オーナーのおばあさんとおじいさんが外まで出てきてくれた。
あ、おじいさん初めまして。
おばあさんは「その靴オシャレね!」とか言ってくれた。
「ABCマート」の紹介をしたけど、どうやらご存じでない様子だった。
「じゃあ、東京の娘に靴を買って送ってもらおうかしら?」と言っていた。
おじいさんは、「旅は長いんだろ?ゴミを引き取るよ!」と言ってくれた。
「自分で出したゴミは持ち帰りまますから」って言っているのに、「いいから預けなさい。こちらで捨てておくから。」と優しく言ってくれた。
すみません、ではお願いします。
朝の駐車場で、思ったより寒くてクシャミを連発する僕は、おじいさんとおばあさんに笑われた。
寒いけどのどかで平和な朝であった。
おじいさんとおばあさんに手を振って出発する。
「それでは、行ってきます!」
2011年秋の沿岸部訪問
2011年の9月。
あのときと同じ9月。あのときと同じシルバーウィーク。
しかしあのときのようなワクワクは全くない。僕は1人、岩手県の沿岸部を北上していた。
ようやく震災後初めて大船渡に来ることができた。
冒頭で書いた通り、当初の僕の震災ボランティアの舞台は南相馬ではなくて、ここ大船渡にしようとしていた。
そのときは来れなったが、9月にようやく訪問できる目途が立ったのだ。
しかし、なんてこった。
この光景に胸が苦しい。
よそ者の僕がそう思うくらいなのだから、ここに住んでいる人・生まれ育った人・友人や親戚がいる人のショックはいかほどか…。
2月の大寒波の中でのドライブを回顧する。
吹雪で立ち往生を食らった福島県北部のとある峠で、僕は同じ境遇の1人の学生君と出会った。
彼は大船渡出身で、故郷に向かって車で帰る最中だと言う。
「えっ!大船渡を知ってるんですか、すごい嬉しいです!」と言われた。
ふふふ、そうだよ知っているのよ。とあるマニアックな旅館に泊まったのよ。
吹雪の中でコーヒーを飲みながらそんな話をした。
彼は「明日は雪が止む予報だから、そしたらまた走行再開できるかな?」と言っていた。
いや、しかし雪が止んだところで除雪されなければ無理だろうと僕は言った。
だから僕はレッカーを呼び、峠を下ることにした。
大船渡の学生君はもうしばらく様子を見るという。
「でも、2日後までに大船渡に帰りつけなければ人生にかかわるんですけどね…」とか言って、焦っていた。
彼は今、無事なのだろうか…。
確かにちょっとマイナーだった大船渡も、今では震災の影響で日本中のほとんどの人が聞いたことのある町の名前になってしまったよな…。
記憶を頼りに国道を反れて駅のある海側の県道230号方面にハンドルを切る。
大船渡駅前を通過した。
駅から海側は、ほとんど人がいない。以前は活気のある駅前だったのにな。
とりおり作業トラックが通るくらいだ。
しかもいろんな箇所で水が溜まっていて危険な状態だ。
わかりやすい場所にあったはずの旅館を探すのも一苦労。
なにせ、景観が変わりすぎている。
「大船渡プラザホテル」がある。大東館はそのすぐ裏側くらいだったと記憶している。
ここに違いない。僕は確信した。
しかし大東館は跡形もなかった…。
わかっていた。
実はGoogleアースを使って、この旅館が消滅していることは確認済みなのであった。
それでも自分の目で確かめてみたかった。
海にほど近いし、さらに川がとても近くにあったから、周辺の建物はほとんど残って
いない。
知っていたけど、実際自分の目で見ると改めて辛い。
周囲は海のようになっていた。
陥没した道路を避けながら、僕は失意のもと国道を目指して引き返す。
12年目に思うこと、思い続けて来たこと
その後、大東館について調べ続けたが、復興したという情報は見つからなかった。
むしろ、僕以外に在りし日の大東館に宿泊したという記録すら見つからない。
そもそも予約した経緯が「Webで出てこない旅館」なのだから、情報が無さすぎなのだ。
それが裏目に出てしまい、東日本大震災後の動向も全く掴むことができなかった。
本気で調査すれば…、どこぞに問い合わせとかすれば、大東館のおじいさんとおばあさんの消息を掴めるかもしれない。
しかし僕はそれをしなかった。なぜだったのかな…。
- たった1泊しただけの僕が安否を気遣うのはおこがましいから
- 極めてセンシティブな個人情報だから
- 万一の結果を知るのが怖いから
- この先、中高年になっても旅を続けていれば、気になる店や人の消息がわからなくなることも多くあり、いちいち気にしてはキリがないから
その全部が少しずつブレンドされていたのかもしれない。
たまーにだけど、「大船渡出身だよ」とか「大船渡に親戚がいるよ」という人に出会うことがる。
その際には「大東館って知ってる?」って聞いたりする。
しかし知っている人に出会ったことはない。
こんなにも手ごたえが無く、Webにも情報が無いと、「あの日の宿泊は幻だったのかな?」とか思ってしまいそうになる。
でも、僕は確かに大東館に泊まったのだ。
手元にわずかに残る写真、そして僕の鮮明な記憶。
ウソじゃない、夢じゃない。
だから僕は12年経った今も願っている。
おじいさんとおばあさんがどこかで無事でいることを。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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