石巻市の沿岸部は、2011年の東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた。
どこにでもあるような住宅地が、一瞬で人が住めないような荒野となってしまった。
しかし人々は立ち上がった。
とある水道配管工の方が、焼け野原となった自宅兼店舗跡地に「がんばろう!石巻」と大きく書かれた看板を設置したのだ。
その後、ガレキが撤去され、津波予防のための嵩上げ工事が行われ、近くにマンションができ、看板の周囲が公園になり、花壇ができて花が植えられ…。
その看板は傷んでくるので2011年の設置から5年ごとに更新され、2016年の2代目、2021年の3代目…と移り変わっている。
…そんな看板を何度も何度も見に行った話を1年前にしたのを覚えている?
僕はこの3代の看板をすべて見ているんだよ。
よかったら上記リンク先を見てほしい。そんじょそこいらの旅人にはマネのできない歴史を追いかける記事になっていると思う。
2023年3月に執筆したその記事の終盤、綺麗に整備された公園となったこの地を眺め、僕はこんなことを書いている。
もっともっとこの復興祈念公園について書きたいけどさ、それはまたいつか機会にしたい。
ちゃんと「石巻南浜津波復興祈念公園」としての独立記事にするからさ。
上の写真の2021年春以降、僕はここを訪れていないけど、この機会にまた行っていいかなぁ…?
執筆の1ヶ月後、僕は石巻の地を踏んだ。
石巻南浜津波復興祈念公園の誕生1ヶ月後
整備された大フィールド
まずは少しさかのぼって2021年5月初旬のお話だ。
2021年3月28日に開園したという石巻南浜津波復興祈念公園を訪れた。
うわぁぁぁ!!なんだこの広大で綺麗な公園は!
あの荒野がこんなにも綺麗になるだなんて!
これさ、アメリカの大統領がよく演説する「ナショナル・モール」のワシントン記念塔前の広場の絵にすごく似ているわ。ワシントンDCのど真ん中のヤツ。煙突がワシントン記念塔ね。
僕も昔行ったさ。演説はしなかったけど。
ただな、これはここまでを見て来た僕だからこそ感じられるカタルシス。
もちろん地元の方、被災された方に比べれば僕の感情なんてちっぽけすぎるけど、それでも「あの状態からここまで来たか…!」って鳥肌立つよね。
ちなみに右端に見えている大きな円形施設が伝承館らしい。目の前まで行ってみた。
本来ならばすでにOPENしている日程なんだけど、コロナ禍なので開館させられないんだってさ。残念、またいつか訪問しよう。
向こうに見えている丘が「日和山」だ。桜の名所だし眺めも抜群だが、津波襲来時にはみんなあそこに登って避難したらしい。
山頂の鳥居にズームしてみた。ゴールデンウィークだがまだ少し桜が残っているね。
僕は震災前からあの日和山に通い、何度か桜も眺めている。いつかその特集記事も執筆したいと思っている。
ただただ広い。
よそ者の僕からすると「広いですねー。何もないですねー。」みたいな感じだし、犬からすると「ワンワンワン!(走れる!)」って感じかもしれないが、ここが地元だった方からするとかけがえのない空間なのだろう。
ここもあそこも、町だったのだ。誰かが普通に散歩し、買い物し、くだらない会話をしながら登下校していたのだろう。
そういう何気ない日常は、もう帰ってこない。
あの頃の町は今…
園内には当時の光景を収めた写真パネルがところどころに設置されている。
冒頭の丘の周辺は、かつてはこのように街を眺めることができた。いや、むしろかつては丘すらなかったのだがね。この丘は、かさ上げした土地だ。
ギッチリと住宅の立ち並ぶ町。きわめて普通の町並み。
いったい何1000人が生活していたのだろう?あの日にすべてが一変してしまったのだ。
僕も旅人やっているから気づくんだけど、景勝地もグルメも、自分が撮影しなくってもWeb上でゴロゴロとほぼ同じ写真が出てくる。
一番貴重なのは、何気ない自分の住む町、日常の家族や友人の顔。ふと思いついて探してもそういうのって出てこないのだ。
こういう"当たり前"が、一番の宝物。でも失ったり離れてしまわない限り、なかなか気づかないよね。僕もだ。
何かの建物の基礎。いったい何があったのかというと、かつての「門脇保育所」だ。
0歳~5歳の子供たちが通園していたらしい。毎月避難訓練をしていたので、そのときと同様に0歳児はおんぶ、1・2歳児は車両に乗せ、3歳児からは走って高台に向かったそうだ。
だからみんな無事に避難できたそうだよ。訓練って、ホント大事だよね…。
パネルにはかつての保育園の様子や震災直後の保育園、そしてみんながどのように高台にある「石巻保育所」まで避難したかのルートがパネルで残っている。
この溝は「聖人堀」という江戸時代の水路。
2000年ごろに水路にはふたをして暗渠のようになっていたのだが、この公園整備にあたり昔のようにむきだしの水路として復活させたようだ。
これも水路がむき出しだったころのパネルが展示されている。2世代前の警官が戻ってきたという特異な事例だね。写真左、レトロな車がエモい。
公園の向こう側、日和山のふもとあたりには「門脇小学校」が見えている。あれも大きな震災遺構の1つだ。
ギリギリまで近づいたこともあるし、ライトアップを眺めたこともある。…が、今回は詳細の執筆は割愛しよう。門脇小学校については、また機会がございましたら。
時は流れて…
以上が、2021年夏の訪問記だ。
震災から間もない荒野のころからドライブで何度も訪れた僕にとっては、見違えるほどに記載になったと思える公園が誕生していた。
全部は歩ききれなかったが、いつか時間のあるとき、過ごしやすい季節のときにノンビリと散歩してもよいだろうと思っている。
2021年はまだ公園が開園した直後なので、植栽も育ち切ってはいない。まだ整備途中の花壇もあった。
しかしこの地に咲く花が、今まで茶色一色だった大地に色を与えてくれている。目に眩しいな。
誰かが住んでいた町。誰かの日常があった場所。
その人の心の傷が完全に癒えることはないのだろうが、せめて美しく彩れればいいと思う。穏やかに回顧できればそれに越したことがないのだろうと思う。
「がんばろう!石巻」の前を、こいのぼりが気持ちよさそうに泳いでいる。
こいのぼりが設置されているポールは、あの日の津波の高さと同じものだ。恐ろしいけど、知っておかねばならない歴史。
それではまたいつか、コロナが落ち着いた頃に再訪しよう。
そのころには今回OPENしていなかった伝承館を見学できるといいな。
2023年春、伝承館を見学する
沿岸は花に彩られて
メチャクチャ話が長くなってしまったが、前項までが前回の以下の「がんばろう!石巻」の看板の記事内に包括してもいいかな…って考えていた内容だ。
だけども上記記事をこれ以上長くするとダレちまうので、別記事「石巻南浜津波復興祈念公園」として切り出そうと考えたわけだ。
2023年の桜の時期である。2年ぶりに石巻にやってきた。
少し前に日本6周目を完走したので、日本6周目を担当した日産パオを2週間後くらいに手放す予定だ。その最後のドライブがここ宮城県の地である。
あいにくの天気だが、まぁいいや。また来れてうれしいから良しとする。
まずは前回はまだ開館していなかった伝承館に行く前に、園内を少しだけ散策しよう。
2年前とそんなには変わらない景観だが、それは「ひとまず復興も一段落」と捉えていいのかな?
更地だったころから完成までをちょくちょく眺めていたマンションが写真中央に堂々と建っている。
伝承館ができる前までの小さな小さな資料館、「南浜つなぐ館」。
ここはしばしばお世話になりました。語り部の方ともいろいろお話した思い出がある。生々しい展示と語りには心を揺さぶられたよ。
花がどんどん増えていってるね。
本格的な花のシーズンはこれからなのだろうが、四季折々の花が咲く公園になったら素敵な話だ。人はもう住まなくなったこの地に何を描くのか。この先も見守りたい。
花壇の向こうに「こころの森ガーデンカフェ」というのができている。2年前には建築中だった建物、カフェになったのだな。
店頭でメニューをチェックするとドリンク類のほかに本格的なジェラート、そしてご当地グルメの石巻焼きそばがあった。
うぉぉ、石巻焼きそば食べたい!好きなんだよ!でも満腹なので断念。いつかまた…!
以前は整備中だったところも花であふれている。何度も通った地なので、変化がわかる。それが嬉しい。
昔を偲びつつも、新しい世界を受け入れる時期に来ているのだろう。震災以前の石巻を知らない僕がこういうことを言うと怒られるかもしれないけどさ。
でも、戦後の日本もこうやって復興してきたよね。戦前とは変わった部分も多いけど、戦前よりももっともっと豊かになったよね。
未来に継承する部分もあるけど、その上で変えていかねばならない部分もあるよね。
最後に、3代目となる「がんばろう!石巻」の看板にご挨拶。これを外すわけにはいかない。
この看板があるからこそ、ここが祈念公園となったのだろうから。今や石巻市のシンボルだよね?
みやぎ東日本大震災津波伝承館
それでは、2年前の夏はOPEN時期が遅延したために入れなかった「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に入ってみよう。
正直言うとな、まずは入口がわからずにグルっと回ってしまった。円形なので正面の概念がないのと、裏口がやや立派であり正面がそこまでアピールされていないように感じたからだ。
これ、工夫してくれるとありがたいかもしれぬ。
中は広々としたホールのようで、見学料は無料である。
基本的な形式はパネル展示であり、シアターでの10分ほどの映像上映が定期的に行われるスタイルだ。
上の写真にもある通り、『国内観測史上最大級_マグニチュード9.0の巨大地震』が、あの日に発生したのだ。
しかも当然前触れもなく。平日の午後だったのでみんな学校や職場で普通の日々を過ごしていたのだ。震える。
しかも津波も来るし、余震もかなりの規模のものが数日で何100回も来たのだ。それこそ、生きた心地がしなかっただろう。この世の終わりのようだったろう。
館内には語り部の人が何人かいて、「なんでも気軽に話しかけて」と説明書きに書いてある。
せっかくだから生のコメントをいただきたい気持ちと、何を話しかければよいのかわからない気持ちとの狭間でジレンマを感じる。「あのときは大変でしたねー。大きな地震でしたねー。」みたいな安直なこと言ってもよろしくないかもしれんんしな…。
勇気を出して話しかけた語り部の人は、ご自身の体験談のみならず学術的な観点からの地震についても話してくれ、勉強になった。
いや、知っている知識が多かったのは事実だが、それに対し実際に直面した人がどう考えどう捉えているのか、その人の口からきくことに意味があったと思っている。
これは震災前のここいらの写真だ。写真中央の緑が日和山だ。
着目いただきたいのはその下。海ギリギリまでギチギチに住宅がある。
震災の津波後…。あったはずの沿岸部の家がほぼ消滅している。
「津波は来ないだろう」と思った人、一度避難したけど家財を取りに戻った人、足腰悪くて逃げられなかった人、家族を心配して家に向かった人…。いろんな人が犠牲になった。
津波は速い。人が全速力で走っても逃げられないし、車でも入り組んだ道では逃げるのは難しい。
いつか見たYouTubeの映像では、仙台近郊に押し寄せた津波から多くの人が走ったり車で逃げようとするが次々に津波に巻き込まれる様子がヘリから空撮される様子が映っていた。ヘリのカメラマンも自信が何もできないことにもどかしさを感じ、長らく苦しんだと聞いたな。
シアターは撮影禁止なので写真はない。
白い空間に簡素なイスが並び、僕と同行者以外では2人のみだった。
ドキュメンタリータッチで被災者の方数人が語っており、震災前の町の姿、津波の危機、そして失ったものなどについて語っていた。
津波からは逃げるしかない。そのためにも津波の怖さを知っておかねばならない。
日本は小さな島国で海に囲まれているし、海のない県の人も海の近くに出かける機会もあるだろう。他人事とは思わず、最低限の知識は得ておいたほうがいいかもな。
震災のときは、「自分は関係ない」って思っている人が真っ先に犠牲になってしまっていると感じるし。
あとは、写真パネルで震災前後の様子の展示。それから個人個人で使えるデスクで様々な映像を見られるブースがあったりした。
そうそう、この不規則に並んだ館内の柱が何を意味しているのか、語り部さんに聞いてみたよ。
この園内に植林した木々が育ったら、この柱とリンクするようになるんだって。
さらにこの管内の天井はやや傾斜しているけど、一番高い北側の高さが6.9mで津波の高さと一緒なんだって。
…しかし、水を差すようだけども僕は考えてしまう。
いつまでこの施設や活動を風化させずに残していけるだろうと。
無料とはいえ、地元の人が何度も来るような施設ではない。飽きさせないように展示を入れ替えるなどの工夫も困難。
観光客は来るだろうがリピーターにはなりにくいし、今や東北沿岸にいくつもの震災伝承館があり似たようなコンセプトなので差別化を図りにくいし複数行くだけのモチベーション維持もむずかしい。
地域の小中学生など若い世代はおそらく必ず来るだろうし、必要な体験になるだろうが、それでこの史跡をいつまで維持できるだろう。しかも無料だし。
この石巻の津波伝承館は2021年のOPENした。震災から10年後だ。
他の地域の震災関連の資料館もいくつも巡っているが、設立されたのはかなり遅いほうだ。これが継続に影響しないといいが…。
エピローグ
寒い。4月なのに曇りの東北の沿岸部はえらい寒いな。
ポカポカだったら園内を散策したかったが、ちょっと無理。今回は伝承館付近のミニマムな散策に留めた。
見上げる日和山の桜が目に入る。どうやら明日は晴れだそうなので、明日にあそこで花見でもしようと考えている。
このブログで、宮城県や福島県の記事は東日本大震災関連のものが多く申し訳なく感じている。本当はもっと楽しいことを書きたいし、楽しいスポットを紹介したいのに。
でも、旅というのはその土地やそこに住む人たちに敬意を払うことだと僕は思っている。そのためには最低限知っておかねばならぬことがある。
僕は客観的な立場から被災地を見てきた人間としては、他の人より少しだけ経験豊富だと思う。だからこそ、僕の視点でしか書けないことを書こうと思ったのだ。
また来るよ、石巻。
日本7周目、温かい時期になったらな。石巻の海鮮は日本トップクラスにうまいと思うので、それもいつかまた紹介させてくれ。
以上、日本7周目を旅する旅人YAMAでした。
住所・スポット情報