あなたは「インディ・ジョーンズ」を好きだろうか?
僕は大好きだ。
物心ついたころから見ている。サバを読んで大げさに言えば1万回見た。
彼の帽子も鞭も僕には似合わないが、革の鞄と分厚い手帳はインディ・ジョーンズをイメージして所持している。
あの映画の何が僕をそんなにもワクワクさせるのか。
とあるシリーズでは、”モーゼの十戒”を刻んだ石板を収めたアークを探し、あるシリーズでは"キリストの最後の晩餐"で使われた聖杯を探していた。
これらから僕は1つの法則を見出す。
有名な人のゆかりのある物品が無くなっちゃって、「ホントにそんなものあるの?」ってくらいに時を経てからそれを探す。
…こういうのがワクワクの源泉ではなかろうか。
もちろんそれを探す際にライバル出てきてバトルして…っていうドキドキワクワクもあるが、物語の主軸は上記の赤字の通りだ。
そういえば、僕もこれに類する物語を知っている。
今回はそんな話をしようと思う。
プロローグ:つぼのいしぶみ伝説
ウソはホントかは置いておいて、まぁ聞いてくれ。
バチクソ強くて偉くて、死後神格化されるほどの将軍が、1200年前にいた。
この将軍が生前、矢じりを使って岩に文字を掘った。
「この国の中心はここだ」とも読み取れる意味の文字だ。
だが、その岩は歴史に埋もれて所在が不明となった。
いろんな人が長年探したが、見つからない。
「どこにあるかわからないもの」の例えとして、その岩の名前を使うことが詩人たちの間で一般化したりもした。
100年前には、皇帝が必死になって探したりもしたが、それでも見つからなかった。
実はこれ、日本の話だ。
今回のエピソードの根底にあるのが、この伝説だ。
ここでは「つぼのいしぶみ伝説」と呼ばせてもらおう。
日本の中心は青森県だ
今回ご紹介したいのは「日本中央の碑」と、それが発見されたスポットだ。
場所は青森県。
これはたくさんある日本の中心の1つである。
あなたは「日本の中心がたくさんあるとか、意味不明なんですけど?」とか「青森?メチャクチャ北すぎると思うんですけど?」と、いきなり敵意剥き出しになってしまっているだろうが、まずは落ち着いてほしい。
実は日本中心の定義って曖昧で、様々な定義により無数に乱立しているのが実状だ。
ぶっちゃけ30箇所くらいある。
青森にだってある。
詳細については上記リンク先の【特集】をご覧いただきたい。
そしてこの無数の日本の中心を全部巡ってみたいと夢見ているのが、この僕だ。アホでしょ。
さて、今回ご紹介する日本中央であるが、理系の方を納得させる根拠には乏しい。
「こういう測量方法をすればここが日本の中心」という理屈が無いのだ。
「有名な方が『ここが日本の中心だ』と言ったから、ここが日本の中心」という、イエスマンのお手本のような文化が創り出した日本の中心である。
このお方が発言すれば、白も黒になるかもしれないし、青森も日本の中心になるのだ。
…という表現はさすがに乱暴かもしれないが、古来の伝承っていうのは100%理解するのは難しい側面もある。
であれば、ある程度クールな視点から見た方が面白い。
日本の中心を示すスポットは2つ用意されている。
かつて有名な方が「ここが日本の中心だ!」と言いながら岩に"日本中央"と刻んだ日本中央の碑を展示してある資料館と、その碑が発見された地だ。
うん、両方行こう。実際に現地に行ってみよう。
2回ずつ訪問しているので、それらをブレンドして執筆するぞ。
日本中央の碑_発見地
場所は青森県の東北町。
ちょっとローカルな林の中の一角に、発見地の駐車場があった。
まだ新緑にも早い時期に、1人フラリとやってきた。
砂利の駐車場には僕以外の車もいない。静かな静かな山の中だ。
一見すると足を止めるような場所ではないが、『「日本中央の碑」発見地 東北町』という真っ赤な看板がある。
大体目星をつけていた僕は、初回訪問時でも迷うことなくこの駐車場に入ることができた。
2回目に訪問したのは、2021年のことであった。
看板は少しくたびれていた。
盛夏ということもあってか周囲には草木が生い茂りってワイルドであった。
相変わらず、僕以外の車はいない。
実際に碑が発見されたのは、ここから遊歩道を数分進んだ場所である。
駐車場から階段を下り、森の中へと進んでいく。
正面奥に、立て札とベンチが見えるだろうか?
あそこからさらに階段を数10m下ると、日本中央の碑発見地を示す標柱がある。
「日本中央の碑」と書いてある。
まさにこれが碑であるかのような記載だが、前述の通りこれは碑ではない。
碑が発見されたことを示す標柱だ。
だけども、こうやって立派な標柱を作ってくれていることに僕は感謝したい。
この標柱があるからあるからこそ、僕はここに来たのだ。
何もなければ、例えここが発見地であったとしても僕の足が向いたかどうかは怪しい。シンボルって大事なのだ。
では、標柱の元に行こう。
一歩足を踏み出すと、ズブズブと足が沈んだ。
ここは駐車場から随分を下った、風通しも悪いジメジメしたエリア。
湿地帯みたいになっていたのだ。
だとしても、諦めるわけにはいかない。
僕は靴を泥だらけにしながら進んだ。
こうして撮影できた思い出の写真がこれだ。
日本3周目における初回訪問時の貴重な写真。
2021年、日本6周目の行程において久々に再訪してみた。
駐車場から見た遊歩道の入口部分だ。
初動に少しの勇気を必要とするほど、草木が生い茂っている。
僕は以前に来たことがるからある程度勝手がわかっているが、初見だとたじろぐかもしれないな。
前回と比べて手すりが朽ちているし、歪んでいる。
谷底にあたる地なので湿気が多いのだろう。木製のものはヤバい。劣化する。
2つ目の階段が出てきた。
こっちはもう階段の中央に笹が生い茂っている。元気。
そして階段のまっすぐ進行方向を見てほしい。
小さく標柱が写っているのが見えるだろうか。あれが先ほどもご紹介した、発見地の標柱である。
久しぶりー!また見れて嬉しいぜ!!
だが僕は階段の途中で歩みを止めた。
もう笹すごいし、階段を降りたところで今度は標柱までの茂みもすごい。
さらに茂み以外にも湿地にズブズブ沈む恐怖がある。
今日はあんまり服を汚したくないのだ。
階段からのズーム撮影に留めておきたい。
悲しいことに、標柱は相当に朽ちていた。
遊歩道の管理状況を見ても懸念がある。
近いうちにここは忘れ去られたスポットになってしまうかもしれない。
よっぽど綺麗に整備されて生まれ変わらない限り、僕自身もここに来るのは今回が最後であろう。
そういった思いもあり、今回見ることができてよかった。
伝説の始まりと、追い求める人々
次に僕は、前項で発見された石碑を実際に見に行く。
その前に、冒頭で触れたつぼのいしぶみ伝説を具体的にご説明しよう。
なお、いくつかのWebサイトや現地の説明板を基にしているが、どうしても情報のブレや僕の理解の追い付かない点もあり、つたない文章となることをご了承いただきたい。
*-*-*-*-*-*-*-
「坂上田村麻呂」。
日本史で絶対に習うであろう、西暦800年前後、奈良時代の人物の名前だ。
初代の征夷大将軍である。
蝦夷(つまり現在の東北地方)に遠征し、その地を平定したことでも有名だ。
死後も神格化され、いろんなところで祀られている。
彼がこの地に来たとき、弓の矢じりで岩に文字を刻んだ。
「日本中央」と。
なぜそう書いたのかはいろんな説があって定かではない。
「千島列島も含めれば日本の中央だ」とか、「当時蝦夷は"日本"と呼ばれていて、そこの中央だからだ」とか、複数ある。
この岩の名を、つぼのいしぶみと呼ぶ。
漢字で書くと”壺の碑"となるそうだ。
つぼのいしぶみはたぶん行方不明になってしまい、存在だけが伝承として残った。
でも、伝承としてはかなり知名度が高かった。
11世紀から12世紀にかけての和歌で度々登場しているのだ。
みちのくの いはで忍ぶは えぞしらぬ かきつくしてよ つぼのいしぶみ
例えばこれは、源頼朝の詠んだ歌だ。
他にも和泉式部・懐円法師・西行法師・寂蓮法師・僧正慈円・阿仏尼など、平安時代から鎌倉時代にかけての結構有名な人たちが和歌に詠んだ。
「どこにあるのかわからないもの」・「遥か遠くにあるもの」という意味を満たせた歌枕だったようだ。
一方、「つぼのいしぶみを見つけ出したい!」って夢見る冒険野郎ももちろんいた。
1700年代くらいからの主要な探索記録が今も残っている。
一七七八、平沢元愷、北海道へ向かう途中野辺地に宿泊、「つぼのいしぶみ」を探索。
一七八八、菅江真澄、石文村で「つぼのいしぶみ」について尋ねるも不明。「遊覧記-いわてのやま」(七月五日の条)。
一八七六、7月、木戸孝允、「壷の碑」を求め千曳神社の発掘を先導するが見つからず。
一九三四、東京の江口少将が発起人となり「日本中央の碑」を求め捜査するも未発見(十一月二十二日付け東奥日報)。
…こんな感じだ。
上記には記載がないが、最も有名な探索は「明治天皇」によるものだろう。
つぼのいしぶみに強い興味を示し探索令を出したが、それでも見つからなかったのだ。
…っていう内容は全て、前項の発見地の階段を降りたところの説明板に書いてある。
これを読みに行くのも楽しいかもしれない。
そして伝説の結末だ。
そんなつぼのいしぶみが、昭和時代の中期にとうとう発見されたのだ。
1949年、地元の人がここで倒れている大きな岩を起こしたところ、その表面に日本中央と書いてあったそうなのだ。
今は「日本中央の碑保存館」という小さな資料館に展示されている。
次の項でご説明しよう。
日本中央の碑_保存館
日本中央の碑の発見地から、そう遠くない国道4号沿いに保存館がある。
1200年以上誰も見つけられなかった伝説の石碑、つぼのいしぶみがそこにあるのだ。
しかも無料でだ。
もちろんルンルンでやってきた。
2回目となる2021年だって、もちろんルンルンである。
ただね、このときは気付かなかったんだけど、愛車の前方にある小さな石柱を見てほしい。次の写真で拡大するから。
新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、この保存館に入れるのはしばらくは青森県民だけとしていた。
僕は青森県民ではない。
入口まで行ったがそこの貼り紙に気付き、断念することとなったのだ。無念しかない。
窓越しに見えた館内。
ひっそりと静まり返っていた。
中に入って間近に伝説の石碑を眺めたかったが、それは適わなかった。
このときは、保存館の外観と周辺の碑文などを撮影するのみとした。
前項で挿入した碑文の写真なども、この敷地内で撮影したものだったのだ。
…では、日本3周目にて実際に内部に入ったときの写真をお見せしよう。
入口を入る。
21世紀に入ってからの数年間は有料だったそうだが、現在は無料の施設である。
だけども管理人さんはいて、ちゃんと管理が行き届いている。
保存館の中には日本中央の碑の伝説や、発見された経緯などがパネルで説明されていた。
2022年現在の僕は、そちらのパネルももっとしっかり読み込み、写真を撮っておけばよかったと後悔している。
小さな資料館の中央に、ご本尊みたいに鎮座して光り輝いている岩がある。
あれがつぼのいしぶみである。
実は写真に写っているのが表側だ。
つまり日本中央と書かれている側だ。あなたにはその文字が見えるだろうか?
近付いてみた。
これでわかるよね?
うっすらとであるが、日本中央の文字が刻まれている。
これ以上でもこれ以下でもない。
パッ見では何も心に響かないかもしれない。
それでも、この岩には1200年分のロマンがパンパンに詰まっているのだ。
この岩をとり巻く歴史スペクタクルを知った僕は、見れて良かったと心から思った。
エピローグ:伝説は伝説として
こうして1200年以上の月日を経て、伝説の石碑つぼのいしぶみは発見された。
そしたら次に「この石碑は本物なのか」という話が出るのは世の常だ。
実はこれ、近年まで相当ワチャワチャ議論がされているようで、結論は出ていないらしい。
まずは坂上田村麻呂自身はここ東北町までやってきてはいない。
それに、日本中央と書かれた文字がカジュアルすぎる。端的に言うとダサい。
本当に奈良時代の人がドヤ顔でこんな字を書いたのだろうか?
そもそも当時の日本は"日本"とは呼ばれていない。
何を意図して日本と書いたのか。…というのは前述の通りだ。
さらに2012年に発覚した話で、「実は地元の人がそれっぽい石碑を作ってあそこに転がしたんだよね」っていう逸話もあるらしい。
話の精度には確かに疑問が残る。
ただ、伝説や伝承ってのはそんなもんだったりするのかもしれない。
全国の温泉や石像の多くは「弘法大師」が発見したり作ったりしているし、デカい岩が不自然な場所にあったり割れていたりしたらそれは大体「弁慶」の仕業だ。
そんなわけないのだろうが、そんなもんだ。
1000年も前の話というのは、こうやってフンワリと角が取れて、人々の想いや理想の部分だけが残るのかもしれない。
霞の中に手を伸ばすような、太古の存在なのだ。
それでも我々は、その想いを受けとめて継承する。
こうやって脈々と語り継がれるのが、日本の文化だ。
我々が暮らす21世紀っていうのは、「事実か事実でないか」・「そこにエビデンスはあるのか」・「5W1Hをしっかり報告しろ」みたいな世の中だ。
解像度が高くてブレがない。
これはこれで正義が満ち溢れた良い世の中なのだろうが、伝説や伝承を理解する上ではちょっと窮屈だ。
…夜の闇には魑魅魍魎が潜み、人の心には鬼が住む。
祟りもあれば、神の御加護もある。先祖はどこかで僕らを見守ってくれている。
そんな文化の片鱗を、日本中央の碑から少しでも感じ取れるのであれば、僕もあなたも人生勝ち組かもしれない。
…そして、そんなインディ・ジョーンズがいてもいい。
そう思うのだ。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報
- 名称: 日本中央の碑_発見地
- 住所: 青森県上北郡東北町夫雑原
- 料金: 無料
- 駐車場: あり
- 時間: 特になし
- 名称: 日本中央の碑_保存館
- 住所: 青森県上北郡東北町字家ノ下39-5
- 料金: 無料
- 駐車場: あり
- 時間: 9:00〜16:00(火曜定休)