洞窟は、神秘的だ。
仏像もまた、神秘的だ。
しからばこの2つのハイブリッドは、めくるめくミステリアス・ワールドだ。
かつては荒れ果て、誰からも忘れられていた、岩山の洞窟。
地元の人が整備をし、葬り去られていた歴史の深淵から近年少しだけ浮上してきた、「岩谷観音堂やぐら群」という名のスポット。
しかしまだまだ、知る人ぞ知る超マイナー洞窟。
少なくとも僕が訪問した日本5周目時点においては、詳細な場所を明記しないのがマナーみたいな空気すらあった。
え?なにそれ気になる。
なんでそんなミステリアスな扱いなの?
とりあえず、場所を推測して行ってみよう。
そんな日本5周目のエピソードを、ここに記す。
夕暮れの洞窟へ
年の瀬の、ほぼ日没時刻と同時にそこに到達した。
川沿いの県道に面した岩山。その足元に空き地がある。それが駐車場だ。
岩谷観音堂やぐら群を示す看板だとか標識だとかは皆無。
道路や駐車場からやぐら群も見えない。
唯一、道路から見える位置にこの史跡の説明版がある。
しかし、車を走行中にパッと解読することは不可能。
従い、ここに来ることを目的とし、しっかりと探し当てた人でないとここまで到達できていないだろう。
岩山を回り込むように歩く。
すると、岩山と民家の隙間に狭い階段がある。
「私有地か?」と思ってしまうようなロケーションだが、この階段が正解だ。
明確な案内板もないが、隙間を縫うように歩いていこう。
坂道の途中で、なんか老舗定食屋のショーケースを石工職人が作ったかのような、四角い展示スペースが現れた。
展示物はといえば、仏像・仏像・墓石・仏像・ただの石(?)・墓石・墓石・無縫塔・ただの石(?)…。
うん、無知だから全然わかんねー。
きっとかなり失礼な査定をしてしまっている。
なんだこのショーケース?ここからメニュー決めておいて、この先でオーダーするのかな?
進行方向を見ると、赤い観音堂がチラリと見えている。
あそこを目指してみよう。
スポット名は「岩谷観音堂」。
その観音堂部分がこれなのだな。
…で、残念なことだけど、僕はこの観音堂にはあまり興味がない。
僕の視線を捉えて離さないのは、この観音堂の背後だ。
「カッパドキア」 みたいなことになっている。
洞窟マンションか、ここは。
こんな洞窟が14個も、この岩山に彫られている。
ほら、あそこの2階の住人なんて、バルコニーにテーブルとイスまで設置している。
洞窟ライフをエンジョイしてらっしゃる。
次に、観音堂を挟んだ反対側を見てみよう。
穴、開けたい放題だ。
アメリカのアニメの出てくるチーズだって、ここまで穴ボッコボコではないぜ?
まずはこの洞窟外観をよく見てほしい。
上の写真では少々わかりづらいかもしれないが、仏像が設置、あるいは岩肌に彫られているのがおわかりいただけるだろうか?
これらが、この観音堂やぐら群の神髄だ。
まずは、わかりやすい青枠のほうを拡大してみよう。
どうだい?
マンションの住民が高層階から東京湾を眺めているだろう。
かなり風化が進んではいるが、大事に設置されている。
次は、もう1つの赤枠のほうをご覧に入れよう。
はい。このお方だ。
…わかりづらいかな?
洞窟の外に彫ってある仏像たちは、吹きっさらしの風雨で摩耗が激しい。
かなり見えづらくなってきてしまっている。
僕が見えたまんまをなぞってみた。
頭は比較的わかりやすいが、腕などはほとんどわからない。
この像の右側のスペースにも、かつてどなたかがいたような気もするが、僕にはもう判断できないわ。
では、本題だ。
実際にこの洞窟の中に入ってみよう…!
洞内の仏像群
岩山に開いた洞窟の1つに潜入してみた。
うわー、仏像がいっぱいだー!
一番手前のものが、仁王像と言われている。
表情は見えないものの、両腕の動きがわかるし、服のシワも残っている。
結論から言うと、これはトップクラスに保存状態が良いものだ。
一番右は千手観音だね、きっと。
そして、その他観音像がズラリと左に続く。圧巻だ。
どれも相当に摩耗しているものの、この荘厳さは今なお感じ取れる。
ところで、上記の写真などはライトで照らしながら撮影している。
少なくとも、僕が訪れた2016年の年末には洞内に照明は設置されていない。
照明がないと、このくらいは暗くなる。
もっとも、現在は日没後だが…。
それでも、照明の無い洞内ってのは、暗いものよ。
黄昏時(たそがれどき)の洞内。
まさに黄昏の語源である、「誰そ彼(たそかれ)」。つまり夕闇で相手の顔がよく見えずに、「あなたは誰ですか?」ってなるような感じ。
そのくらいに仏像の顔が見えず、誰が誰だがわからない。
ただ、顔は無いものの、彼らは僕らになにかを穏やかに語りかけてくる。
それが肌で感じ取れる。
冬の空気が静寂の中で、ひたすら神聖に感じられる。
洞窟は"コの字型"であり、ズンズン進むと違う穴から外界に出る仕組み。
外に出る直前、右手に口を開けている洞窟発見。
じゃあ次はそっちだ。洞窟から洞窟への、ハシゴだ。
ちなみに上の写真は、その別の入口であるが、ここの外壁にもなんとなく人型の痕跡が見えるような気がする。
なんだかシュミラクラ現象に支配されてしまったかのような気持ちになる。
入口から上を見上げる。
今度のヤツは、とんでもない上りだ。
そして、階段が途中で恐ろしいほどに幅が狭くなっている。その横は落とし穴。
今は手すりがあるからいいが、手すりができたのは近年。
それまでは、なかなかにデンジャラス・ゾーンであったと推測する。
今回の探索を一緒にしたメンバー、FUGA君らの頭上が足元に見えていることで、この階段の角度をご想像いただけるだろうか?
北海道の最西端にある「太田山神社」のエクストリームな階段を彷彿とさせるかのような、殺人的な傾斜だ。
そして、彼らの背後に目を向けてほしい。
たぶん、阿修羅像だ。
どこにカメラを向けようとも、必ず仏像がファインダーに入るぞ。
このあと、冒頭で少し紹介した洞窟マンションのバルコニーに行ってみた。
そこは観光客用の休憩スペースだった。
この岩谷観音やぐら群は、地元の人が整備したと聞いている。
それを踏まえると、ここにあるのはボランティアの人の家庭で使われていた、ガチのダイニングセットだろう。
ダイニングセット目線でも、この扱いはビックリだよな。
まさか第2の人生(?)を、こんな洞窟で送ることになろうとは。
テーブルの上にポツンと置いてあるランタンも、 整備してくれた誰かのものだろう。
この心遣いにほっこりする。
しかし…!!
言った通り、「どこにカメラを向けようとも、必ず仏像がファインダーに入る」。
うっすらとしか見えないが、壁面に仏像がずらりと並んでいるのが、第六感で感じ取れる。
ここの席に座った人、たぶん「なんか背後から視線を感じるぞー」とか、「座っているときに異様に肩が重かった」とか言い出しそう。
どこを歩こうとも、おぼろげに浮かび上がる人型。
懐中電灯で闇を照らせば、そこに人型。
あ、これも千手観音だね、きっと。
うおぉぉ、この方には顔がある!!
グルグル徘徊して僕が唯一発見した、顔のある仏像だ。
洞窟の奥のほうが、風雨を凌げて保存状態が良いものが多い気がする。
ありがたやー。
そしてこの洞窟。
五輪塔がたくさん彫られている。
彫られているっていうか、むしろ描かれている??
究極に手抜きをした彫刻だ。…って言ったら、バチが当たるかな?
ところで、球体に当たる部分に穴が開いているのはなぜだろう?
まるで灯篭のようにも見える。
ビッシリと仏像で埋め尽くされた洞窟。
表情のない仏像たちは、僕らに何を語りかけて来ているのだろうか?
そもそも、岩谷観音堂やぐら群って、なんなのだろうか…?
洞窟と仏像の成り立ちを考える
冒頭でチラッと、『道路から見える位置にこの史跡の説明版がある』と書いたのを覚えていただいているだろうか?
その説明版をご紹介したい。
奈良時代の高僧行基による一夜の作と言い伝えられている岩谷堂は、岩山に幾つもの石洞が彫られ、その洞壁に数多くの仏像が浮き彫りにされています。
古くは、横穴式の古墳と思われますが鎌倉時代の「やぐら」形式の岩洞もあります。
明治時代の石碑には、数馬村大悲山岩谷堂清厳寺と記され、本尊は十一面観音菩薩のお寺です。
線刻や浮き彫りの五重塔、大黒様に不動様、庚申塔に弘法大師、縄文時代の石棒と首だけのお地蔵様など、永い間、村人の祈りや集いの場所として在り続けた村の博物館です。
やぐらと古墳
そもそもスポット名にも入っている「やぐら」ってなんなのか。
お城とかにある櫓(やぐら)ではないのよ、これが。
いろいろ情報量が多いが、まずは中段のみに着目しよう。
この洞窟マンションは、「横穴式の古墳」・「鎌倉時代のやぐら形式の岩洞」。
主にこの2種類で構成されているとのことだ。
やぐらについては、上記をご参照いただきたい。
文章の熱量にちょっと圧倒されるが、簡単に表現するのであれば、鎌倉時代に鎌倉周辺で造られた、横穴式の墓(あるいは類似の目的を持つもの)。
「横穴式の古墳」と大差はないのだな。
ところで、「古墳」っていつの時代のものなのだろうか?
『古くは、横穴式の古墳と思われますが』って書いてあるということは、少なくとも鎌倉時代よりは前のものなのだろう。
念のため、古墳の概念を再確認してみた。
現在の日本史では、一般的に「3世紀半ばから7世紀頃にかけて日本で築造された、墳丘をもつ墓/高塚の墳墓を「古墳」と呼び、他方、弥生時代の墳丘墓は「墳丘墓、奈良時代の墳丘墓は「墳墓」、中世の墳墓は「中世墳墓」、近世の墳墓は「近世墳墓」と呼んで、それぞれに区別する。
(引用元:Wikipedia)
…だそうだ。
岩山のボコボコの穴たちは、西暦600年ごろかそれ以前に掘られたものである可能性があるのか。
仏像はいつの時代のものか
説明版の文中には、『奈良時代の高僧行基による一夜の作と言い伝えられている』との記載がある。
まずは、仮に「行基さん」が一夜で作ったとしよう。
洞内には100体余りの仏像がった。
夜を仮に12時間とすると、1体当たり7.2分で仕上げた計算。
どんなブラックな企業にオーダーされ、どんだけやっつけ仕事でこなしたのか。
さらに、行基さんが亡くなったのは、西暦749年。
鎌倉時代の数100年前。
つまり、鎌倉時代のやぐらの壁に、行基さんが仏像を彫ることは不可能。
そもそも、さすがに1300年近くも風雨にさらされた仏像は、あんなふうには残らないだろう。
鎌倉時代のやぐらも、この岩谷観音堂やぐら群もそうだけど、やわらかい砂岩を使っているという特徴がある。
もうね、ツルツルのサラサラなのだ。
まるでチョークのように、壁面を撫でれば手に粉がつくし、仮に仏像を雑巾でゴシゴシこすれば、数10分で仏像は消滅してしまうだろう。
とはいえ、じゃあこれがいつの時代のものかといえば、前述の行基さんの伝説以上に手掛かりとなるようなものは、今のところないらしい。
おそらくはもっと新しい時代のものだとは思うが、いずれにせよ、こんなに脆い条件の仏像が現代まで(大した管理もされずに)残っていることが、奇跡のような気がするのだ。
日の目を見た洞窟
2011年12月、地元の人たちの力で、このやぐら群の整備が行われた。
それまでは荒れ放題、訪問する人なんてほとんどいなかったこのスポットが、100万円を投じて綺麗になった。
ヤブに覆われていた洞窟入口が姿を現したり、階段に鉄の手すりが設置されたりしたらしい。
これで、一部の人のWebサイトやブログを通じ、ほんのちょっと世間に認知されるようになった。
僕がこのスポットを知ったのも、そんな時期であった。
すぐには現地には行けず、それに他にやりたいこと・行きたいところもいっぱいあったので、実際に訪れたのは2016年の年末であったが。
少なくとも、僕らが訪問した時点では、自治体のオフィシャルなWebサイト等にも取り上げられていないし、文化財の申請もされていないスポット。
つまり史跡認定はされておらず、地元の人の力だけで守っていっているようなスポット。
- そのような管理だからこそ、長い間ヤブに覆われてしまった。しかし、それが功を奏して人がほとんど立ち入らず、仏像の致命的な劣化を防げた。
- 正式に管理されていないので、今後もどんどん風化する可能性がある。管理されていないから、気軽に手を触れることもできてしまう。ましてや整備をし、有名になることで、いたずらなども増えるかもしれない。
果たして、この洞窟の運命はどうなるのだろうか?
今でこそ、それなりのWebサイトで取り上げられるようにはなったが、冒頭に描いた「詳細な場所を明記しないのがマナー」の理由、これでわかっていただけたと思う。
最後に、説明版の最後の文を、以下にもう一度取り上げたい。
線刻や浮き彫りの五重塔、大黒様に不動様、庚申塔に弘法大師、縄文時代の石棒と首だけのお地蔵様など、永い間、村人の祈りや集いの場所として在り続けた村の博物館です。
鎌倉時代・古墳時代に加え、縄文時代の痕跡すらあるそうなのだ。
すごいな。
縄文時代にお地蔵様を造り、古墳時代に洞窟を掘り、鎌倉時代にさらに掘り、そこを利用してどこかの誰かが仏像を彫り…。
調べてみると、第2次世界大戦の際には防空壕にも使用されたという。
村の博物館。
その表現が、まさにしっくり来た。
村の歴史だからこそ、地元の人々で守っていきたいと。
我々は、それらの村の思い出を壊さぬよう、そっとおじゃまするにとどめたい。
最後に、僕らは洞窟マンションの上層階から遠景を見る。
冬の長い夜が、もうそこまで迫ってきているのを感じた。
そろそろ行こうか。
岩谷観音堂やぐら群に、別れを告げる。
こうして冒険に明け暮れる1年が終わる。
新しい年も、またワクワクできるといいな。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報
- 名称: 岩谷観音堂やぐら群
- 住所: 千葉県仏紙数馬268-3
- 料金: 無料
- 駐車場: あり
- 時間: 特になし