神奈川県横浜市。
うむ、潮風に乗ってハイソサイエティな香りが漂ってきそうな響きじゃないか。
ただ、今日はそういう話をしたいんじゃないんだ。
仏像の話をしたいんだ。
しかも、ゴリゴリの山肌に刻み込まれた摩崖仏(まがいぶつ)の話だ。
あ、ちょっとあなた。
「なんで横浜で仏像ネタなんだよ。地味だし興味ねーよ。」と渋い顔をしているの、僕にはバレているぞ。
摩崖仏を紹介して「はい終わり」ではないから、とりあえず読み進めてほしい。
まずは日本の摩崖仏界のアイドル(?)、大分県の「熊野摩崖仏」をお見せする。
これで摩崖仏のイメージをしておいてほしい。
じゃ、僕と一緒に横浜へ「Here we go!」。
1体目:朝比奈の鼻欠地蔵
むしろ満身創痍の大ダメージ
横浜市の南部を走る環状4号。
横浜市には2体の摩崖仏が現存している。
その2体はそんなに距離も離れていないので、ハシゴして見てこようと思い立ち、うち1体のあるここまでやってきたのだ。
ちょうど交通量が途絶えたタイミングで写真を撮ったが、なかなかに交通量も多いし、なかなかに広い道だ。
最初の舞台は、この環状4号である。
愛車の日産パオは、環状4号沿いのコインパーキングに停めた。
暦上は秋になったが、南関東は残暑が厳しいな。
まだ余裕で半袖だし、なんだったら外で立っているだけで汗ばむ。
まずはこの環状4号沿いにある「鼻欠(はなかけ)地蔵」を紹介したい。
環状4号を歩く僕の横を、港町の海のように水色のボティをしたバスが通過していった…。
…ちょっと待って。
実はこの写真、それだけでは終わらせられない。
いるのだ。
この写真の中に摩崖仏が。
あなたは、一瞬「は?」って思ったろう。
そして次に、「消去法で真ん中の天然の山肌が見えているところくらいしか考えられないよな。でも、その中のどこにいるんだ?」と目を凝らしただろう。
うん、あなたのその思考は正解である。
天然の山肌とコンクリで固められた法面との境目あたりを、さらに拡大した。
「この中のどこに摩崖仏が…?」とお考えだと思う。
でもね、「まさにこれ自体が摩崖仏である」と言っても過言ではない。
さて、正解はこうだ。
はい、少々無理がある。
もともと鼻欠地蔵というのは文字通り鼻が欠けてしまっているお地蔵さんだったのだが、21世紀の現代において、欠けているのは鼻だけでない。
全身どちゃくそにえぐられて、満身創痍のお地蔵さんだ。
もはや輪郭がおぼろげに残るのみで、言われなければ絶対にこれがお地蔵さんとは気付けない。
風化が進み過ぎたのだ。
ちょっと横に回ってみよう。
〇で囲った部分が、本来の足だ。
座禅を組んでいるので、その分足は体よりも前に突き出しているハズだ。
しかし、近代に入ってその足部分は大胆にも削り取られた。
なぜかというと、歩道を作るため。
わーわーわー…、バイオレーンス…!!
子供に見せていいものか、ちょっと戸惑う図になったー…!
でも、事実こういうことだし。
工事関係者や工事の指示を出した人に、バチ当たらなかったのかな?大丈夫かな?
国境に座るお地蔵さん
お地蔵さんのすぐ横には、説明板が設置されている。
江戸時代当時に描かれた鼻欠地蔵の絵もあって、わかりやすい。
この頃から既に、鼻は欠けていたのだ。
なんとも風情のある絵じゃないか。
こういう時代のこういうところ、旅してみたい。
…実際はとても過酷だったのだろうが。コンビニもビジホもないし。
説明版の内容を以下にご紹介しよう。
崖に彫り込まれた像の高さが4m余りのお地蔵様摩崖仏で、風化して鼻が欠け落ちているため、このように呼ばれました。
いつごろ、だれが彫ったのかはわかりません。
江戸時代に出版された『江戸名所図会』には、この地蔵の挿絵があり、やさしそうな顔立ちや膝元で組んだ手などが描かれていますが、今はその輪郭を見ることができます。
また、江戸時代の地歴が書かれている『新編鎌倉誌』には、この地蔵について武蔵野国と相模の国の境界にあることから「界地蔵」と言われたこと、この場所から北に向かう道は釜利谷や能見堂に通じたことが書かれています。
また、地蔵の前の道は六浦道と呼ばれた金沢と鎌倉を結ぶ、中世からの大切な道であることから、この地蔵が交通の要所に祭られ、広く人々の信仰の対象となっていたことがわかります。
このお地蔵さんは、ただボケッとここに座って通行のジャマになっていたのではない。
武蔵野国と相模の国の国境を示していたのだ!!
上に、神奈川県の地図を示した。
赤線が現在の神奈川県内における、当時の国境だ。
確かにちょうど境界線の上にお地蔵さんがいるのがわかる。
すっごいお地蔵さんなのだ。
環状4号は、多くの車が走る。
しかし、今や誰もこの鼻欠地蔵に気を止める人はいない。
せめてあなただけでも、記憶の片隅に留めておいてほしい。
横浜市の環状4号、大道中学校入口の信号脇に、かつての国境を示したお地蔵さんが今もいることを。
2体目:釜利谷の白山道奥摩崖仏
谷底の最奥で待ち受ける
続いての摩崖仏は、先ほど記載した通りここからそんなには離れていない。
さっきの鼻欠地蔵の説明板に『この場所から北に向かう道は釜利谷や能見堂に通じた』という記載があった。
この文中にもある釜利谷(かまりや)という町に2体目の摩崖仏がいるそうだ。
さぁ、行こうかパオ。
僕は熱気がムンムンにこもっている愛車の日産パオに乗り込み、エンジンをかける。
※実は鼻欠地蔵を見学してから愛車に乗り込むまではかなり時間が経過しており、僕は汗だくのクタクタなのだが、それは後述しよう。
釜利谷という閑静な住宅地へと入っていく。
この整備された住宅地から、谷底に下りていく急な坂道が存在する。
摩崖仏はそっちだ。
さて、あなたは今から3分は、僕を口汚く罵っていい。
谷底に堕ちていくこのショットを撮る寸前にウォッシャー液を噴射し、そしてワイパーが劣化して綺麗に拭きとれない状態でピントの合わない撮影をした僕。
谷底と同時に、ブロガーの底辺に堕ちたことは言うまでもない。
ところで、この写真はいきなり真冬になっているのだが、その経緯も後述する。
(ここからは真冬の写真も数枚混じる)
谷底に下りてきた。
写真に向かって右手も山、そして左手も遠くに白い家が連なっている通り、山だ。
この山と山が、写真奥の方でぶつかり合う。
その行き止まりに摩崖仏がある。
この先は車の擦れ違いもUターンもできないと看板に書いてあったので、愛車は適当なところで留守番してもらおう。ここからは徒歩だ。
道が狭くなってきた。圧迫感を感じる。
しかしこれ、僕が場違いなところにいることによる圧迫感かもしれない。
完全に生活道路だもんよ。
地域住民が少数歩いているだけで、よそ者チックな人なんていないし。
GoToキャンペーンが行われているとはいえ、このコロナ禍だ。
地友の人になるべくストレスを与えたくないのだが、この先に摩崖仏があるのだからしょうがない。
うわぁ、さらに道が狭くなってきた…。
しかし間もなくだ。
はい、ここが車道の行き止まり部分だ。
道路の真ん中に植え込みがあるものの、ここだけ若干ロケーションが開けている。
角度的には見えないが、写真中央の掲示板の裏には、摩崖仏を示す説明板が設置されている。
*背後の崖の中段に見えるのが白山道奥摩崖仏です。
来たー。
…ということはですよ、摩崖仏は今、僕の背中に視線を投げかけているのだ。
緑に包まれて眠れ
さぁさぁ、念願の摩崖仏とのご対面だ。
振り向くぞー、振り向くぞー…!!
はい、なーんもありません!!
空き地・家・家・家・家・緑・山!!
摩崖仏、どこ!!
『崖の中段に見えるのが』とか書いておいて、全然見えないよ!!
少しズームしてみた。
なるほど、なんにもわからない。笑えるほどに意味不明だ。
さらにズームしてみた。
相変わらず摩崖仏はわからないが、代わりにそろそろ僕が不審者として通報されかねないことがわかった。
僕の視線の先、全部私有地だもんな。
人々の生活が広がっているのだから、あんまりジロジロ見たり撮影したりするもんじゃない。
だけどもここに摩崖仏あるって言うんだもん。看板もあるんだもん。
なんだこのジレンマ。
おいこら看板、なんとか言え。
あ、看板には裏もあった。
いや、むしろこっちが表だったのか?
そして雄弁に語っていた。
白山社は白山堂とも呼ばれ、南北朝~室町時代には称名寺の管理下におかれ、その末寺となっていました。
堂社の旧位置は不明ですが、北条氏が鎌倉と金沢の称名寺とを山越えに往復する古道が、このあたりを通っていたことは疑いありません。
この古道は「白山道」と呼ばれ、鎌倉時代後期に瀬戸橋ができる以前は、鎌倉と称名寺の往復に使われていました。
この山腹に刻まれている摩崖仏は、その旧跡を推定するための好資料であり、周囲が削平されていますが、現存顔面長4メートル、中世末期の彫刻です。
また、応仁年間(1468)に鎌倉大塔宮からこの地に移った白山東光寺に関するものとすれば、御姿は薬師如来をかたどったのでしょうか。
うん、内容は追って読解しよう。
気になるのは、右側に掲載されている絵の方だ。
右側が予測図。
筋肉剥き出しの人体人形みたいだ。
そして左側が現状を測量した図。
よく噛んだガムみたいにグニャングニャンじゃねーか。
時化の日の日本海みたいに、波打ってやがる。
ただでさえ、こんなにも風化してしまった摩崖仏。
それを夏の間に茂った草が完全に覆い隠しているのだ。
お手上げだぜ。
まいったまいった。
こうして僕は退散する。
…と思いきや!!
はい、やってきたー!
真冬に再びやってきたー!
さぁ、枯れ落ちて露出した山肌を我が前にさらせ!
うーん…。
やや薄くなって頭皮、じゃなかった、山肌は透けてはいるものの…、まだまだ草木は多い。
ハゲと呼ぶには少々失礼なレベルだ。
顔面だけで4mもあるという摩崖仏。
しっかり現存していれば、さぞや大迫力だったであろう。
見てみたかったなー…。
甦れ、鎌倉時代の旅路
古道を辿る
まだ気になる点がある。
横浜に2体しかない(昔はもっとあったのかもしれないが)摩崖仏が、すごく近距離にあるのだ。直線距離で1㎞くらいだ。
これだけ近いのであれば、何か関連性があるのではないかと思ってしまう。
「アイツらいつも一緒にいるけど、ひょっとして付き合ってるんじゃねーの?」と疑うのと一緒だ。
専門知識はないが、漠然と怪しい。
…話は戻り、鼻欠地蔵だ。
『北に向かう道は釜利谷や能見堂に通じた』
『地蔵の前の道は六浦道と呼ばれた金沢と鎌倉を結ぶ、中世からの大切な道である』
さっき読んだ説明板を基に、今一度鼻欠地蔵の絵を見てほしい。
左右に通じているのがきっと六浦道だ。
そしてお地蔵さんに向かって右から、奥の方に伸びている細い道に注目だ。
次に、白山道奥摩崖仏の説明板を思い出してほしい。
『この古道は「白山道」と呼ばれ、鎌倉時代後期に瀬戸橋ができる以前は、鎌倉と称名寺の往復に使われていました。』
鎌倉は、鼻欠地蔵のさらに南だ。
「称名寺→白山道奥摩崖仏→鼻欠地蔵→鎌倉」。
こんな古道が存在していたのではなかろうか。
本題に入ろうじゃないか。
鼻欠地蔵の少し右手を見てほしい。
『通り抜けができません。Uターンもできません。』
はい、スゲーのあった。
カーナビを眺めてもGoogleマップを見ても、この先車道はない。歩道もない。
しかし、何かシンパシーを感じる。
ここから北に入る道は、かつて白山道奥摩崖仏まで通じていた古道ではないだろうか?
ちょっと潜入してみよう。
入口ではおじさんが電動芝刈機をブンブン言わせて草を刈っている。
なんか「すみません、ここを歩かせてください」とか言ったら不思議な目で見られそうな道だ。私道テイストが強すぎる。
ビビりの僕は、地元の人に警戒されないためにも、40分ほど付近を散歩して時間を潰した。
戻ってくると芝刈りおじさんは芝刈機を放り出して道端で休んでいたので、その脇からスルリと野良猫のように小道に入った。(上の写真も、目を凝らせば芝刈機が見える)
しばらくは、なんとか軽トラくらいは入っていそうな急斜面の道だった。
しかし間もなくミッチリ木立に囲まれた極狭路になる。
ハイキングだ。ハイキングが始まったぞ。
鳥のさえずりが聞こえる。
とてものどかで気持ちがいいが、こんなことしに来たんだっけ、僕?
立て札もあり、なんとなく全容が掴めた。
「朝比奈北市民の森」というらしい。
そして、Web検索してみたら、この道を「武蔵野国境 古道」と呼んでいる人がいた。
おぉ、やっぱこれ、古道なのか?
汗をかきながら歩いていると、途中一人だけハイカーの女性とすれ違った。
あの人の目に、僕はどう映っただろうか?
全然ハイキングなカッコなんかしていなかったし。
一人で山の中を黙々と歩いていて、怪しかったであろうな、ごめんなさい。
途中で分岐があり、右手は住宅地に降りていきそうなルートだ。
真っすぐ行くと、ちょっとあらぬ方向に行ってしまう。
そっちもそっちで古道のような気配、僕の歩きたい仏像ロード(仮)はそっちではないのだ。
僕は白山道奥摩崖仏方面に行きたい。
分岐を右に行く。
私有地だと書いてあるが、先ほどの看板の地図にはこっちのルートも掲載されていたので、かまわず進んでみる。
階段が出てきた。
階段を下った。
綺麗な公園に出た。「高舟台第一公園」というらしい。
その先に広がるのは、メチャ閑静な住宅地だ。
僕みたいな人間が山道に一人でいても怪しいが、こんな閑静な住宅地にいてもそれはそれで怪しいなって、自己分析した。
この住宅地の先に、おそらくはもう1つ山がある。
前に見えている山かもしれない。それを越えれば白山道奥摩崖仏だ。
Webから地図を確認し、それが確信できた。
うむ、でも疲れた。住宅地を延々歩くのもダルいし暑い。
さらに前方の山が険しそうだ。
そもそも古道マニアじゃないし、僕。
ただのインテリメガネ君だし。
あとは、帰ってから地図で復習しよう。
住宅地を歩くとと、先ほどの山道をグルリと迂回して、舗装路のみを使ってまた鼻欠地蔵まで戻ってこれた。
こうして僕は車というハイテクマシーンの力を借り、白山道奥摩崖仏を目指したのだ。
かつての道を想像しよう
ちょっといろんなスポット情報が飛び交ったので、混乱させてしまったかと思う。
何を隠そう、僕自身も混乱している。
情報を整理してみよう。
そこから何かが見えているかもしれない。
前述の通り、白山道はもともと鎌倉と称名寺を結ぶ幹線道路だったらしい。
しかし今は宅地開発等で消えてしまってルートはよくわからないそうだ。
こっからはもう、イマジネーションの戦いだな。
僕は素人だし多くの文献を見たわけではないが、勝手にザックリ語ろう。
観光協会のページで出てくる地名を全て地図に反映させるのは面倒なので辞めたが、ザックリとこうなった。
右端には有名なテーマパーク「八景島シーパラダイス」が見えかけている。
ゴールはとりあえず「鶴岡八幡宮」に置いた。
「称名寺」は、金沢区の海にほど近い場所にある、鎌倉時代に北条氏が建立したお寺だ。
すごい古い歴史がある。
江戸時代なんかよりも、はるか昔だ。
そして上の写真を撮ったときは桜が咲いていて綺麗だった。ピクニックしている人もいた。
「手子神社」は、住宅地の中の丘に残る、小さな神社だった。
由緒はあんまりわからないが、提灯いっぱいセットされていてヤル気を感じた。
そして「朝夷奈切通し」だ。
昔、今で言うところの横浜市から鎌倉市に抜けるため、山を切り開いて作ったすんごいい道だ。
何を隠そう、鼻欠地蔵の芝刈おじさん待ちの時間に攻略していたのは、ここだ。
ぶっちゃけ「この勢いで鎌倉まで歩いてやる!」って思ったのだが、2020年9月の巨大台風で一部崩落しており、途中までしか行けなかった。残念だ。
朝夷奈切通しについては、また機会があったら個別にページを設けて紹介したいと考えている。
そして、暫定ゴールに設定させていただいた鶴岡八幡宮だ。
それはね、1ヶ月前に僕が執筆した記事を見てもらっちゃおう。
さて、ボロボロの2体の仏像だが、抱えている歴史はとてつもなく古く、そして重い。
調べていくと、遥か1000年前の古道が見えてきた気がした。
東京が江戸として栄え始めたのは、たかが400年ほど前だ。
その倍以上も昔から、ここには道があった。
仏像がいつ掘られたのか定かではないが、はやり相当に昔から旅人を見守ってきてくれたのだろう。
いつしか風化し、近代住宅に飲み込まれ、そして忘れ去られていく仏像。
そんな彼らに、少しだけスポットを当てたかったのだ。
あなたも、いつもの町を歩くとき、少しだけ意識して見てほしい。
先人たちの記憶がそこに眠っているかもしれない…。
…というわけで、港町横浜の紹介なのに、海が1ccも出て来ない物語、これにて終了!!
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報
鼻欠地蔵
白山道奥摩崖仏