風光明媚な岬だ。
景色はもちろんのこと、「東京湾要塞」時代の遺跡を巡っても楽しい。
三崎にマグロを食べに行くついでに寄ってもいいし、「横浜みなとみらい」の観光から一歩足を延ばして訪問する人も多かろう。
僕も何度も訪問している、大好きな岬である。
今回はそんな観音崎を、少し別の始点も絡めてご紹介したい。
もしこの記事を読み終えたあなたが、「観音崎にはそんな伝説もあったのか。現地を訪問してみたい。」と思ってくれるのであれば、大変に嬉しい。
観音崎公園に行こう
昨シーズン、2020年の秋のことである。
僕は観音崎に向かって愛車を走らせた。
横須賀の市街地を経由し、三浦半島を南下する。
上の写真、すぐ左は実は海だ。
なんと気持ちのいいシーサイドドライブ!ここは南国だろうか。
着いた。
観音崎の有料駐車場だ。車ギッチリで、ギリギリで駐車できた。
人気の景勝地なので、大賑わいだ。
後ろに写っている建物をご紹介しよう。
かなりの年季の入った建物だ。
だが2016年、空き家だったこの建物に「夢DREAM食堂 」という地魚の食堂が誕生している。
入ったことはないが、土地柄おいしいに違いない。一生続いてほしい。
ちなみに僕は、この建物のこのあたりが好きだね。
かすれた「REST HOUSE」の文字が、観音崎の長きに渡る歴史と、海軍の町横須賀の異国情緒をうまく体現していると思うのだ。
駐車場の片隅には、ミニ灯台がある。
こういうオブジェは大好きだ。
もしあなたも好きなら、積極的に写真を撮っておいたほうがいい。
こういうのって、突然なくなってしまうことが多いから。
灯台の左に見切れているが、大きな看板がある。
観音崎公園のMAPである。
正直、すさまじく広い。
全部を一気に巡るのであれば、強靭な足腰と充分な水分をご用意いただきたい。
今回の僕は、右上の一角を巡るだけで40分以上歩いているからな。
アップダウンも激しかったぞ。
そして、ネタバレになってしまうが、今回の記事に登場するメインスポットが「〇」の部分だ。
では、歩こう。
悲願の観音像復活劇
まずはあなた、観音崎ってなんで"観音崎"って言われるか知っているだろうか?
いや、1秒考えれば予想はできるだろうが、いちいち考えることすらなかったのではないだろうか?
例えばここ神奈川県も、「なんで神奈川っていうのだろう?」 って日常の中で考えることってあまりないもんな。
恥ずかしながら僕も、最近まで観音崎の名前の由来について真剣に考えたことがなかった。
では、由来はなんなのか。
上記写真は駐車場から灯台に向かって歩いているときに撮影したものだが、ここをさらに奥に行ったところに、由来を記載した案内板があった。
令和になってから設置された案内板だ。新しいぞ。
はい。
これをあなたにスマホから一生懸命拡大して読んでいただくのは少し酷だな。
かといって、僕にはこれをテキストに打ち直すだけのモチベーションは無い。
なのでざっくりと概要をまとめたい。
- 741年… 「行基さん」が彫った観音像をここに祀った。行基さんは「奈良の大仏」の建立に携わった超有名人だな。すげー。
- 1213年… 鎌倉時代の「北条氏vs和田義盛」の闘いの最中で、観音像が行方不明になった。みんなで必死に探したが、見つからなった。
- 空白の100年。
- 鎌倉時代末期… 観音崎の沖で海が光っているのを発見した漁師が、「なにあれ?」って探索したら100年行方不明だった観音像だった。復活!お堂に大事に祀る!
- 1880年… 観音崎に砲台をたくさん作って武装化(東京湾要塞)する。観音様にはちょっとどいてもらおう。岬内のお堂を移転。
- 1986年… 火事!!お堂も観音像も燃えて無くなった!!
- 2018年… 観音像を復活させたい!プロジェクト始動。
1000年以上の歴史スペクタクルだな。
胸熱だ。
そしてだ。
復活したぞ。
2019年9月23日のことだ。
33年ぶりに観音像を復活させ、観音崎内の洞窟前に設置した。
わかりづらいが、写真中央の三角屋根の小屋、これがシン・観音様の住居だ。
観音様の身長は75cmだ。
小さい。僕、もっと何mもあるものだと思っていたよ。
2つ前の写真、実は僕の前には柵があってこれ以上は近づけない。
そして、すんごい逆光な上に小屋のガラスカバーがフニフニして光を反射し、観音様は非常に見えづらかった。
写真加工してもこんな感じよ。
あぁ、ちなみに海の向こうの千葉県房総半島に立つ、「東京湾観音」がここから見える。
観音崎の観音様よりもよく見えるくらいで、ちょっと皮肉だ。
…まぁ何はともあれ、おかえりなさい!観音様!!
めでたい!!
ガリバー旅行記の謎
ガリバー旅行記とは
灯台方面に引き続き歩きながら、次の話をしよう。
観音崎は、「ジョナサン・スウィフト」の「ガリバー旅行記」にも登場しているといわれている。
これはすごいことだ。
- 小人の国
- 巨人の国
- 空飛ぶラピュタとその下界の国、降霊術の国、不死の国、日本
- 知的な馬と野蛮な人間の国
日本でよく読まれているのは、第1章・第2章だな。
僕も小学生のときに熟読した。
第3章の「ラピュタ」は、ジブリ作品のモチーフにもなっている。
第4章の野蛮な人間はヤフーと呼ばれている。
身近な話では、「オレたちはアウトローだぜ」って悪ぶっていたアメリカの大学生2人が、生み出した検索エンジンにこの名前をつけた。あなたも使ったことあるのではないかな、Yahoo。
地名から探る
さて、第3章でガリバーが上陸した日本であるが、「ザモスキ」・「エド」・「ナンガサク」といった地名が登場する。
エドはもちろん江戸であり、現在の東京だ。
ナンガサクは最後にガリバーが日本を出航する際に使った港である。
発音的に、長崎っぽい。津軽のおばあちゃんが発音したら、こうなりそうだ。
ガリバー旅行記の時代設定は1700年前後であり、当時鎖国中であった日本情勢から考えても、唯一外国に対し開かれていた長崎に間違いない。
ザモスキは、ガリバーが上陸した地である。
でも、そんな地名は日本にはない。
「ひょっとして観音崎では?」という説が誕生したのは、どうやら割と最近であり、平成になった頃だそうだ。
発音は、似ているとはとても言えない。
僕もちょっと自分自身で考えてみた。
いろいろ調べると、ザモスキは「Xamoschi」だそうだ。
観音崎は、僕の想像も入れてしまったが、カンノンザキではなくカンノンサキと発音。さらに発音上、2つ目の"ン"がほとんど聞き取れずに「カンノサキ(Kannosaki)」となったと考えた。
その2つを筆記体で並べてみると、日本の地名を全く知らない西洋人であれば見間違い・書き間違いをしてもおかしくないほどに酷似していた。
うん、「ザモスキ=観音崎」ではないか?
そんな発見をして浮かれたりもしたが、その後にWebを見てみると同じような考察をしている人がそれなりにいてヘコんだりもした。
そりゃいるわな。
内容から探る
次に、旅行記内に記載されている内容から、地理的手掛かりを掴めないか考えてみる。
6日目に、わたしを日本まで乗せていってくれる船が見つかった。
15日間航海したのち、わたしたちは、日本の南東部にあるザモスキという小さな港町に上陸した。
町は、長い腕のようなかっこうで北にのびている細い湾の西の岸にあり、湾の北西部にあたる所には、首都のエドがあった。
わたしは、上陸するとすぐ、税関の役人に、ラグナグ国王から日本の皇帝にあてた手紙を見せた。
(引用元:「ガリバー旅行記」坂井晴彦訳)
よし、ここでザモスキが観音崎だと仮定し、東京近辺の地図に上記内容をあてはめてみようか。
うん、すごくしっくり来た。
引用内の『日本の南東部』の部分については日本地図にて確認はしていないが、東京を『日本の南東部』と表記することに違和感はない。
そして、それ以降の地理的説明も、バッチリ「ザモスキ=観音崎」を示していると考えた。
情報経路から探る
じゃあ、なぜ作者のジョナサン・スウィフトは、ここまで日本の地理を知っていたのだろうか?
当時日本は鎖国していたので、なかなか西洋にまで日本の地理情報は出回らなかったのではないだろうか?
ましてや観音崎なんていう、失礼ながら当時わざわざ海外に知らしめるほどの要素が無さそうな地名が、なぜ流出したのだろうか…。
「三浦按針(みうらあんじん)かな…?」って僕は思った。
本名は「ウィリアム・アダムス」。
かの「徳川家康」に仕えたイギリス人だ。
家康から重宝され、武士として神奈川県三浦半島に領地も与えられたのだ。
つまり、三浦按針にとっての観音崎は、庭のような場所だ。
では、三浦按針とジョナサン・スウィフトはどう繋がるのだろうか?
三浦按針は日本を出ることなく死去したし、ジョナサン・スウィフトが生まれたのはそれから50年も先の話だ。
なんやかんやWeb情報を探していたところ、「ジョナサン・スウィフトは当時の三浦按針が母国に送った手紙を所持していた」という情報が見つかった。
何が書かれていたかまではわからなかったが、東京湾の地理情報が含まれていたのであれば、前項「情報経路から探る」内の引用文も書けるであろう。
そして、三浦按針の文字を読み違え、観音崎をザモスキと表示する可能性もあるだろう。
Web内では、三浦按針の直筆の手紙数点の画像を見ることもできる。
筆跡から、「ザモスキ=観音崎」とならないか、鑑定しようとしたさ。
結果無理だったよ。
達筆だし、英語見ると頭痛くなるさ。帰国子女なのに。
これが解読できれば、「地名から探る」で僕が書いたザモスキと観音崎の筆記体も、もっとリアルになっただろうけどね。
ガリバーの正体を探る
ガリバー旅行記に登場する数々の国は、ほぼ全てが実在しない。
実在する国は、日本だけである。
なぜだろう?
ジョナサン・スウィフトの住むアイルランドから見て、遥か極東の日本。
鎖国しており、全く未知の国である日本。
その存在自体が既にフィクションに匹敵したのではないだろうか?
実在するファンタジーだ。事実は小説より奇なり、だ。
小説の題材として、これ以上の国は無かろう。
次に、ジョナサン・スウィフトから見た三浦按針だ。
たぶん、とんでもなく波乱万丈な人生を送った冒険野郎だと思われたのではないだろうか。
オランダから5隻の船団で極東を目指した一行。
うち2隻は拿捕され、1隻はリタイアしてUターン。もう1隻は沈没。
三浦按針の乗った唯一無事な「リーフデ号」も、飢餓や病気、原住民との戦いで散々なことに。
出航時110人だったメンバーも、日本に辿り着いたのは24人だ。
しかも、そのとき立ち歩けるほどに元気だったのはわずか6人だ。
サラリと書いたが、とんでもない冒険活劇だ。
日本から故郷への手紙に、そんな冒険譚を熱筆したのだろう。
小説家のジョナサン・スウィフトがそれを読んで大興奮するのは想像に難くない。
ガリバーは、毎度毎度航海時に嵐だとかトラブルで仲間とはぐれ、そして1人未知の国を冒険することとなる。
まさに三浦按針だ。
ガリバーのモチーフは他にもあるかもしれないが、三浦按針がジョナサン・スウィフトに与えた影響は大きいだろう。
ガリバーは、日本に上陸。
ドキドキしながら"踏み絵"を体験し、なんかやんかかろうじて友好関係を築き、最後は長崎から出向して故郷を目指す。
少なくとも、ここの部分は三浦按針がモデルなのだろうと考えた。
冒険をくぐり抜け、日本の最高権力者である家康に会って認められ、そして家康に仕えた三浦按針。
かたちをかえてガリバーとなり、21世紀の今も世界中の人たちに読まれている名作の登場人物となったのだ。
…諸説あろう。
真実は歴史の彼方であろう。
だが、考察し想像する楽しさは失いたくない。
僕だって冒険野郎なのだから。
東京湾要塞の一角
最後の章では、ここまでの文中で2回ほど触れた東京湾要塞について少しだけ触れたい。
東京湾要塞というのは、明治時代から第2次世界大戦終了まで設置されていた、東京湾を丸ごと要塞化させて東京を守る巨大設備だ。
ザックリとしたイメージで、こんな感じだ。
東京湾に侵入する敵国の船からしたら、絶望的すぎる集中砲火を浴びることになりかねない。
観音崎には、とりわけ多くの砲台がギッチリと、そりゃもうミッチリと設置されていた。
その当時の遺構が、今も東京湾の各所に残っている。
それらはいつか特集などでまとめて書いても面白いとは思うが、今回はテーマ通り観音崎にフォーカスしよう。
「北門第一砲台跡」というところにやってきた。
灯台のすぐ後ろに当たる場所だ。
写真では立体感を見せられにくいが、階段の奥は半円形の舞台のようになっている。
ここに大きな砲台が設置されていたのだ。
日本最古の砲台だ。
似たような舞台は2つあり、それがレンガ造りのトンネルで連結されている。
ちょっとトンネルをくぐってみようか。
このトンネルの側面が、弾薬庫や兵員待機所への入口だったらしい。
上の写真もよく見ると、トンネルの壁が一部レンガではなくって灰色に塗り固められているのがおわかりだろう。
今では封鎖されている。
円形の舞台を取り囲む石壁。
胸墻(きょうちょう)という名前で、砲台を取り囲むように設置されていた。
ちなみに僕は砲台にはあまり詳しくないので、これ以上の説明はできかねる。
これは倉庫跡。
いたるところに、過去への扉がある。
もう開けないほうがいい扉なので、これらは封印されたままだ。
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岬って、本当に面白い。
航海の要所であり、観音像や神社が祀られる。
地形柄、漂流者も流れ着くし魚もやってくる。
国防の要所にもなり、武装化される。
現代は絶景と魚を求めて観光客が集まる。
これらの特徴を兼ね備えた岬は、日本国内に散見される。
そして振り返ると、観音崎はこれら全ての要素を満たしている。
奈良時代から現代まで、この岬の歴史をたどってきた。
さて、未来はどのようになるのかな?
それを作っていくのは、僕らだ。
もしかしたら、未来の"冒険者ガリバー"は、あなたなのかもしれない。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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