10年前、2011年3月の東日本大震災。
あのとき、僕が震災復興ボランティアをした南相馬市。
10年経った今、あの町はどうなっているのだろうか…?
2021年3月、僕は再びあの町を目指してアクセルを踏む…。
なんとなく見覚えのある風景。
だけれでも、もう変わってしまった町。
嬉しくもあり、切なくもあり。
…でもこれが、この町の真実なのだ。
そして10年の歳月が流れた
10年前に執筆した上記の3本のレポートを執筆し、それを再掲していったが、今回は新規の書きおろしとなる第4弾だ。
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2011年のこと。
上の写真、右のビニール袋はヘドロ掻き出し作業で汚れた上、放射能も含んでいるかもしれない服をギュッと詰めた袋だ。
帰宅し、母親に「有毒かもしれないから気をつけて洗ってくれ」と無造作に渡したんだけどな。
帰宅した僕は、「がんばろう!みなみそうま」の帽子を家に持ち込もうとしたが、ふとその手を止めた。
この帽子は車の中にこのまま置いておこう。
南相馬を忘れないために。
東日本大震災を忘れないために。
この先、僕はきっと日本中を走るだろう。
途中で車を交換することもあるだろう。
でも、ずっと一緒だ。
これは、僕と被災地を繋ぐ絆だ。
また、笑顔で会おう。
約束だ。
(「南相馬・リスタート」より)
僕は、思い出の帽子と共に日本中を巡った。
いつだって、身近に南相馬があった。
あっという間に10年経ったよな。
そして…。
2021年3月だ。
さぁ、再び行こうか。
南相馬へ。
実はね、これまでも僕は南相馬市を何度も車で通過はしていた。
しかし、「震災のその後を確認するため」という観点で巡ったことはない。
今回は久々に、あのとき僕らが活動した地を踏んでみようと思うのだ。
とても便利になったものだ。
福島県と宮城県のほぼ境目にある新地ICで一般道に入り、久々に海を目指して走った。
なんだかドキドキしてきた。
ドキドキを落ち着かせるため…というよりただ単にお腹が減ったのでコンビニで食べた、「カップヌードル_欧風チーズカレー」がうまかった。
特性チーズパウダーっていうのを後から振りかけるのよ。
コクと旨味のハーモニー。神々の食べ物だ。
よしっ、元気出た。
ところで今回僕は、ロクな事前調査をしてきていない。
最近はとても忙しくて、それどころではなかったのだ。
何の準備もせずに突然相馬市にやってきたのだ。
だから以前僕が活動した地を見つけられないかもしれない。
地名も大体忘れている。風景も大体忘れている。
だが、それでも良いと思っている。
以前の地を見つけられなかったらそれでいい。思い出せなかったらそれでいい。
だって、新しい町、新しい記憶が上書きされたということなのだから。
海沿いの記憶
僕は相馬市の「松川浦」付近を重点的に観光した後、県道74号で 南下し南相馬市を目指す。
「松川浦」については、いつか別項目で取り上げたい。
震災前から通っている、思い出の地なのだ。
建物と言えるような建物は、10年経った今でも存在しない。
しかし土地は綺麗に整備されている。
そして小さな苗木が一帯にビッシリ植えられている光景をよく見かける。
防風林や防砂林になるのだろうか?
この子たちが育つには10数年、あるいは数10年かかるのかもしれないけど、次世代の芽吹きだな。
いたるところに設置されている。
上の写真は広範囲の設置がわかるよう、ちょうど出てきた高台に車を停めて撮影した。
あと、近くに梅が咲いていた。
桜の時期はまだまだ先だが、東北の春、1つ見つけたぞ。嬉しい。
チラホラと住宅が立っている地もあるが、大半は何もない。
春以降は田畑に使われるのだろうか?
あまり変わり映えのしない景観だが、絶妙に10年前に記憶がリンクしそうな、しなさそうな、もどかしい思いだ。
しかし10年前、確かに僕はここを走っているのだ。
何度も。
どこまでも平らな土地が続いていてた。
あの向こうが海だ。
海まではまだ2㎞ほどはありそうだが、ほとんど平坦な地なので津波は一気にここまで来たのだろう。
「原町火力発電所」が見えてきた。
上の写真、オリジナルサイズだと右端に発電所の煙突がもう見えている。
そろそろかつての鹿島のボランティアセンターの活動範囲には入ったと思う。
ここいらは、南海老地区だろうか?
凄まじい津波で住宅地の家が根こそぎ消滅し、道路もアスファルトが剥がされたり崩壊した、あの光景が脳裏にフラッシュバックする。
ヘドロにまみれた大地、瓦礫の山、青い旗、土鍋に活けられた花、応援メッセージ板…。
僕は今、間違いなくあの日のあそこのすぐ近くにいる。
春と夏の訪問時に印象的であった、大崩壊した特徴的なカーブはどこだっただろうか?
あのときとは逆側から走っているせいか、それとも完全に形状が変更されてしまったのか、確信を持てる場所が無い。
しかし気付かないなら、それはそれで幸せなことだと思う自分もいる。
内陸側の風景だ。
ずーっと向こうまで何もない。
人が居住する地は、ずっと内陸側まで移ったのだろうか?
目の前に広がるこの土地は、春には田畑になるのだろうか?
しかし脇道に入る地点には「進入禁止」と書いてあり、遠くにショベルカーがいる。
ということは、まだ復活できていない土地なのかもしれないな。
「南相馬・リスタート」で訪問したひまわり畑の場所もわからなかった。
もうひまわり育成施策はやっていないのかもしれない。
北泉公会堂
このあと、発電所ギリギリまで接近してみたいと思う。
火力発電所の煙突を左手に見ながら海岸に向かう道。
あれ…?この光景を、僕は知っている…!?
実はこのとき、まだ「南相馬・リターンズ」を執筆できておらず、当時の写真の発掘作業もしていなかった。
だけども僕の脳内記憶の発掘はすさまじい勢いで行われた。
ひび割れた防波堤の上でのランチ…。
濃霧の中で崩壊した火力発電所…。
ヘドロの中から拾ったミッフィーちゃん…。
泥まみれの畳を敷いて作ったレールの上を走らせたリアカー。
崩壊しそうな天井の下でのヘドロ撤去作業…。
「またいつか会おう!」と言って別れた20人の頼もしい仲間たち…。
北 泉 公 会 堂
一気に思い出が脳内に溢れ、泣きそうになった。
あぁ、あの場所の近くにいる。
どこだったっけか、公会堂…。今もあるのかなぁ…?
後日机上調査をした結論から申し上げると、ここが正解である。
目星をつけ、後述する原町火力発電所付近を見学し、さらにUターンして戻ってきた。
そして僕は「きっとここがかつての北泉公会堂に違いない」と思い、愛車を停めた。
理由は3つある。
1点目は、当時北泉公会堂から歩いて火力発電所南側の海岸まで行き、ランチをしたという立地から。
ここが一番合致するし、周辺の道路もなんとなく見覚えがある。
2点目は、公会堂跡地に建てられているこの建物が公共施設っぽいこと。
いろいろ鑑みると、いきなり人家が建つとは思えないし、かといって頑丈な基礎と建物が乗っていた地なのだから田畑にする可能性も低いであろう。
そして3点目。
敷地の片隅に立つ、この碑だ。
東日本大震災犠牲者慰霊碑
二○一一年(平成二十三年)三月十一日午後二時四十六分、東北地方太平洋沖を震源として発生した東日本大震災は当地方にも甚大な被害をもたらした。
地震による建物などの損壊もさることながら、直後に襲った十メートルを超す大津波は多くの人の命を奪い、家屋は流出、倒壊、田畑は冠水した。
加えて原子力発電所の水素爆発による放射能の放出、拡散により、過酷な状況に陥った。
当行政区、住民の避難に当たり殉職された菅野利男行政区長、星勝消防部長をはじめ七名の尊い命が奪われた。
家屋の流出二十七戸、うち二十四戸が他地域への転出を余儀なくされた。
七回忌に当たる今日関係者各位のご賛同のもと、犠牲者のご冥福を祈ると共に被害の記憶と教訓を後世に伝えることを願い、ここに慰霊碑を建立する。
平成二十九年三月十一日 北泉行政区慰霊碑建立委員会
慰霊碑を建てるとするなら、それはシンボリックな場所。
かつての公会堂もそれに当たるだろう。
Googleマップにて北泉公会堂を検索すると、まさにこの地が出てきた。
ストリートビューでは既に、一番古い画像を出しても公会堂は存在しない。
だけども、ここが公会堂であったという推測は正しかった。
そして、僕の記憶の中には、確かにここに公会堂が残っているのだ。
原町火力発電所
北泉公会堂から、さらに海沿いに向かう。
正面に小さく防波堤が見える、同じ道だ。
尚、以後2枚組の写真においては、「左が2011年・右が2021年」とするのでご了承いただきたい。
防波堤の高さ自体は変わっているように見えなかったが、とてもきれいに整備されている。
そして左手には緑の小高い丘が形成されていた。
道路に導かれるまま、火力発電所方面にさらに向かってみた。
なんか駐車場があったので入ってみた。
すぐ背後は火力発電所の敷地だ。一望できていい感じだ。
赤いウェーブの描かれた公園だ。独特の感性の成せる技だな。
その向こうに火力発電所の施設。
上の写真の右の方に見えている三角屋根の建物。
見る限りは新しく、震災後に建てられたものだ。
しかしそのテイストには見覚えがあった。
ほぼ同じ場所に建てられた、同じテイストの建物。
なんの建物かは知らないし、積極的に調べるほどの興味もない。
しかし、10年前の記憶の扉を開けてくれた。
公園からはそのまま海に出ることができた。
「北泉ビーチ」というらしい。
『-この場所が好き-』と書かれている看板。
正直、10年前はここを好きとか嫌いとかっていう視点から見れなかった。
むしろ絶望ばかりを感じていた。
少し戸惑うが、好きな人がたくさんいそうな標語は嬉しい。
海だ。とても綺麗だ。
でも、どうしても震災のときの津波を連想してしまう。
きっと地元の人は僕の数100倍、連想してしまっているのだろう。
それでも、海とは今後も付き合わなければいけないし、海は同時に恵みも運んできてくれる。
全部ひっくるめての「好き」なのだろう。
勝手にそう解釈した。間違っていたらごめん。
あの日、ここでランチにした。
あの日は濃霧でほとんど火力発電所の施設は見えなかったが、ほとんど同じアングルだ。
とても綺麗になった。
もう二度と、あの悲劇が起きないよう心から願う。
原町の浜街道にて
原町火力発電所から南相馬市の小高地区まで、引き続き海岸沿いを走ろうと思う。
小高地区は、東日本大震災後の「福島県第一原子力発電所」20㎞圏内にかかっていた部分もあった地区。
そのギリギリも、僕ら震災復興ボランティアの活動の地であった。
高い鉄塔の立ち並ぶ、海に近い県道260号である。
場所はここより少し内陸側だが、当時は津波で大きく折れ曲がった鉄塔があり、それが印象的であった。
場所は少し違うだろうが、同じ電源を持つ鉄塔に違いない。
今、目の前に立ち並んでいる高い鉄塔が真っ二つに折れ曲がるさまを想像すると、鳥肌が立つ。
しかし10年前は、それが現実のものとなったのだ。
ここにもソーラーパネルが広がっている。
火力・太陽光、たくさん電気を生み出してくれてありがとう。
僕も今日、久々にドライブができて気力の充電ができている。
南相馬、ありがとう。
土地を整備している現場を目の当たりにした。
立地的に、津波が押し寄せた谷間…といった場所であろうか?
なんとなく未来予想図を描けそうな気がする。
新たな町が生まれそうな、そんな胎動が聞こえそうな図だ。
10年かけて、少しずつ少しずつ歩んでいる。
その旅路はまだまだ先が長いのかもしれない。
だいぶ南やでやってきた。そろそろ小高地区だ。
ここももちろん10年前に走行しているのだが、何もない地なので記憶がリンクしない。
ただし、DNAが記憶しているのか、なんとなく感じるものがある。
客観的ではなく、主体的に風景を見ることができるのだ。
いたるところで工事が行われ、そして同時に植林も行われている。
数10年後のここいらは、緑豊かなになりそうだな。
嵩上げ工事も行っているのだろうか?
岩手県の陸前高田市だとか、宮城県の南三陸町だとかもそうだけど、嵩上げするともう全く風景が変わってしまう。
かつて走ったこの風景も、見納めになるのかもしれない。
今日という日は、二度とない。
…そういう思いで、途中で愛車と道路との写真を撮った。
いつかこの写真を現地で見返し、今日の日を回顧できるように。
10年前の春と夏、こんなところからバキバキになった道路の写真を撮ったなーと思い、撮影してみた。
ロケーションは酷似しているが、どうにも違和感もある。
自信が無いので対比写真の掲載は見送ろうと思う。
ここいらで、内陸部の国道6号を目指すべき進路を変える。
なぜなら、この先はそろそろかつての第一原発20kmエリア。
当時は一般人は立ち入りできず、当然僕も足を踏み入れてはいない。
従い、思い出を辿る海沿いのドライブとしてはここまでなのだ。
なんとなく見覚えのある光景…。
これらは、「南相馬・リバイバル」のときに「Oさん」の家の泥かきをした前後で見た光景なのだろうな、と思った。
看板が立っており、『農用地を復旧する工事をしています』と書かれていた。
工事期間は令和5年までだそうだ。
2023年か…。
ここいらは水田があってOさんもお米を作っていたんだけど、この被害状況では塩抜きをするだけで3年はかかるような状況なんだって。
仮に塩抜きができたとしても、放射能汚染の可能性や風評被害もあるだろうから、前のようにはならないだろうって。
もう自分の代では再びお米を作ることは無いだろうって、悲しんでいたよ。
当時、Oさんが語った内容が思い出される。
なかなかに、長く険しい道のりなのだな…。
Oさんの家の泥かきをしたあの日、Oさんの家のトイレをみんなで使用するのは忍びないので、ここまで車を飛ばしてやってきたのだった。
Oさん、元気かな?
たぶん家の目の前か、すごく近所を走行したのだろう。
でも、もう会うこともないし家を探すこともないだろう。
それぞれの人生を歩み、交わらないほうがいいと思うのだ。
道の駅 南相馬
ここも思い出の地だ。
これまでの記事では触れていないが、当時から「憶・原町無線塔」を訪ねており、今回もそれ絡みでやってきた。
しかしその件は、いずれ個別の記事で執筆しようと思う。
まずは道の駅から国道6号を挟んでほぼ真向かいにある、「ビジネスホテル高見」の前を歩いて往復することにした。
「南相馬・リターンズ」で宿泊したホテル。
その節はお世話になりました。
道の駅まで戻り、内部を見学していると、震災から10年のイベントの一環として小規模な写真展をやっていた。
「真野小学校」だ。
2011年の夏、「災害ボランティア感謝の集い」のイベントに参加したときの会場だ。
震災直後はこんな感じだったのだな…。
例の鉄塔の写真も掲示されていた。
他にもいろいろな写真があり、1枚1枚丁寧に見た。
ここ数年はのほほんと暮らしていたが、改めて気が引き締まった。
桜井元市長だ。
この新聞記事も掲載されていた。
当時アメリカのタイム誌で「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた方であり、「災害ボランティア感謝の集い」で僕も一緒に集合写真に写らせていただいた方だ。
現在は市長をご退任されているが、南相馬に対する熱い想いはご健在だ。
まだまだ課題は多いし道のりは長いのだろう。
しかし、同情・哀れみなどではなく、極力笑顔で応援していきたい。
きっと未来は明るいのだから。
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コロナウイルスで混乱の渦中にある「東京オリンピック」だが、どうにかこうにか1年遅れで2021年に開催するそうだ。
僕がこの記事を書き始めた3月25日、聖火リレーがスタートした。
南相馬市は初日のゴール地点となった。
正直、こんな状況下で安全に開催できるのかと心配な方も多いだろう。
聖火リレー1つ取っても懸念点はあるだろう。
だけども、一度始まったからには暖かく応援したい。
少なくとも聖火ランナーが悪いわけではない。
被災地に、希望の光が灯ればよいと、ただただそう思う。
そういえば、帰り際に南相馬市のコンビニで食べたファミマのクリスピーチキンがうまかった。
発売直後で、速攻で販売いったん中止になるくらいの大人気だったらしいですな。
あと、一連に記事では南相馬市のみにスポットを当てたが、宮城県の南三陸町で震災復興ボランティアもしたことある。
いつの日か、旅友の「ニコル君」と共に参加した南三陸ボランティアの記事も書こう。
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それでは、南相馬市に幸あれ。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。