「原町火力発電所」。
2011年3月11日の東日本大震災にて高さ18mの津波が直撃し、揚炭機が破壊炎上し、8万tの石炭船も沈没した、南相馬市の火力発電所。
発電所脇のひび割れた防波堤の上で、僕らは弁当を食べた。
深い霧で煙突も巨大な発電施設もほとんど見えず、まるで異世界に迷い込んだかのようだった。
「これ、終わりが見えないな…」
「だな…。僕らにできることってわずかだけど、それでもできることをやっていくしかないよな…。」
絶望が落ちて来そうな空の下、弁当を食べながら話した。
果たして僕らのボランティア作業は前に進んでいるのか、役に立てているのか。
文字通り霧の中にいるような不安に潰されそうになり、僕は先ほどヘドロの中から拾ったミッフィーちゃんのぬいぐるみをギュッと握った。
リターン作戦は5月
日本列島に未曾有の災害をもたらした、東日本大震災。
壊滅した東北沿岸部に対し、何かできることをしたい。
そう考えた僕らは、福島県南相馬市に災害復興ボランティアとして赴いた。
その初回の記録が上記リンク先である。
あのとき僕は、南相馬再訪を誓った。
10年前に執筆した上記の3本のレポートのうちの、第2弾の再公開だ。
尚、新規書下ろしを含めて計4本の連載となる。
先ほどリンクを貼った前回の記事を読まなくても内容はわかるが、先でもいいし後でもいいので、上記リンクも訪問していただけると大変ありがたい。
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さて、前回からしばらくの間、僕は南相馬ボランティアセンターのブログをブックマークし、頻繁に現地の様子を確認していた。
ブログ以外でも、いろんなチャネルで情報をキャッチアップしていた。
再訪の数日前には大甕支援隊が結成された。
消防団とボランティアが団結して、津波に飲み込まれた大甕地区の行方不明者の捜索をする部隊。
「道の駅 南相馬」からみんなで消防車で出勤するのだそうだ。
しかし相当な体力・精神力が無いとやってられないだろうな。男性限定だというし。
僕みたいな軟弱な心身では勤まらないであろう。
やりたい気持ちが無いわけではないが、今回のメンバーには女性もいるので、大甕支援隊には手をあげないつもりだ。
着実に、やれる分野で力になろう。
再訪は5月。
季節外れの台風が来そうな気配である。
一応南相馬のボランティアセンターに電話をしておいた。
「台風が近づいてきましたね」という不思議な時候の挨拶から始まり、いろいろ情報を仕入れておいた。
では、行こうか。
出発は夜中だ。
荷物の一番上に、前回ボランティアセンターでもらった「がんばろう!みなみそうま」の帽子を乗せる。
そして愛車に乗り込むと、仲間2人との集合場所の東京都心を目指した。
※ 前回とは違うメンバーとボランティア活動しています。
災害派遣等従事車両に登録する
あなたは「災害派遣等従事車両」をご存じだろうか?
知っている方や、「早く現地の状況やボランティア活動について知りたい」という方は、この項目を飛ばしていただいて結構だ。
「災害派遣等従事車両」は、災害復旧に携わる車は高速道路等の料金が無料になるという措置だ。
僕の愛車も既にこれに登録している。
一緒に南相馬でボランティアしていた、遺留品洗浄部隊のリーダーと一緒に登録作業をしたのだ。
この申請にに詳しいリーダーの車を追走して、南相馬市の町中をしばらく走る。
到着したのが、「南相馬合同庁舎」であった。
必要なものは車検証のみであった。
リーダーや職員さんの丁寧なレクチャーにより、 申し込みは完了した。
しかし証明書が発行されるには数時間を要するのだ。
僕は昼休みに申し込み、ボランティア活動終了後に「災害派遣等従事車両証明書」を受け取りに行くというフローを取った。
尚、現在(2011年)は東日本大震災後の特別対応で、一般車両を含め高速料金は基本1000円だ。
どこまで走っても、全国一律1000円だ。首都高を含めても3000円には行かない。
しかし、何事も体験しておきたい。
この証明が金銭面以外に役に立つ場面もあるかもしれない。
こう思って登録しておいたのだ。
尚、僕のように被災地現地で手続きをするとその日のうちに発行となる。
しかし地元など被災地以外でこの手続きをしようとすると大変である。
地元の市役所行き、専用のフォーマットに記載して現地に書面を送り、現地からの許可証が郵送で届いたり…となるのだ。
手間などを考えると、被災地への行きは通常料金を払い、ボランティア活動の合間に災害派遣等従事車両証明書を入手し、帰りを無料にするのが良いのかもしれない。
使用に当たって、何点か注意点がある。
まずは高速道路のICに入る際には、ETCカードを使わずに、紙のチケットを入手するのだ。
※ もしかしたらETCカードで入ってしまっても、出るときになんやかんや調整できるのかもしれないが、合同庁舎の職員さんにはこのようにレクチャーを受けたのだ。
もちろん、最後に高速を降りる際にも、有人の窓口を選ばねばならない。
東北道の始点となる浦和料金所の係員さんは、この処理についてご存じであった。
なにやらゴソゴソと裏で記載し、対応してくれた。
首都高についても同様であった。
首都高を完全無料で走行できるのは、なかなかに爽快であった。
ただし首都圏のややローカルな料金所では、処理の心得の無い係員さんもいた。
証明書を渡したら「??これは…もらっちゃっていいの…?」と聞かれたりした。
いやいや、ダメです。
期限内は再利用できるし、最終的には南相馬に返却しなきゃだし。
…という具合である。
今回僕らは、この特権を得て南相馬にアプローチをした。
ボランティア活動
ボランティアセンターにて
僕らは朝一に南相馬市の「原町区福祉会館」にやってきた。
ここがボランティアセンターだ。僕だけ懐かしい場所だ。
前回の記事では、「ここではガレキ撤去作業はやっておらず、ガレキ系は全部隣の鹿島区のボランティアセンターがやっている」と書いた。
しかしその後に運営が変更された。
ここ原町でもガレキ撤去や泥出しができるようになったのだ。
だから今回は原町のボラセンのみで活動したい。
今回は、初回参加の人はこのまま外で初期研修を受けるのだそうだ。
ちなみに僕は経験者ではあるけれど、他の2人と一緒に行動しないと一緒の作業ができないので、ここは初心者という設定で初期研修をもう一度受けよう。
「初回の方はここで講習でーす!そして2回目以降の方は中でマッチングがありますので順番に入ってくださーい!」と本部スタッフの人が言っている。
マッチングとは、ボランティアスタッフに仕事を割り当てる行為だ。
壁に貼りだされた様々な仕事に対し、希望する仕事に自分の名前の付箋を貼る。
定員に達していなければ、これで仕事ゲットだ。
基本的に早い者勝ちだ。
しかし初期研修組は、すぐにはマッチングを受けられない。
数10分も前から並んでいたにもかかわらず、ついさっき来たばかりの常連さんにどんどん順番を抜かされてしまった。
歯がゆいが、しょうがない。
「スキルのある人を迅速に現場に送り込む」。当たり前のことだ。
尚、南相馬のボラセンは規模が小さい。
仕事が無いのではなく、ボランティアスタッフが集まらないのだ。
その理由は、「福島第一原子力発電所」の半径30㎞に入っているからだ。
絶対立入禁止となっている20㎞圏内も含まれている。
放射能は「20㎞圏内だから危険だが、それより1mでも離れれば安全」というものでもない。近寄らないに越したことは無い。
もちろん気持ちはわかる。
それでも僕らがここにいるのは、合法的なギリギリのところで、できることをしたかったからなのだ。
最近は、まだまだニーズがあるにもかかわらず、参加者が100人に届かないことが多くなったってボランティアセンターのブログに書いてあった。
宮城県の石巻市のボラセンが1000人とか2000人とかいるのに、こっちは数10人なのだ。
だが、雨のためにニーズの高い屋外活動が出来ず、わずかな屋内活動のために45名制限の日もあった。
雨だと途端にニーズが少なくなる。
この日は週末で、そこそこボランティアの人数も多かったにも関わらずだ。
僕らは50分ほど前から待機していたから余裕であったが、すぐに規定人数に到達し、新たに来る人に対し本部の人が謝って帰ってもらうという寂しい構図が出来上がっていた。
それであっても、雨の中で屋外活動はできないのだ。
雨の中には非常に有害な放射能物質が溶け込んでいると聞いている。
仮に作業途中であっても雨が降ったら本部から中止指示が入るのだ。
そうそう、ボランティアセンターはボランティアスタッフの衣食住の面倒を見てくれるわけではない。
自分のことは自分でやらないとなのだ。
僕は水・保存食・トイレットペーパー・ハサミ・ペン・メモ帳・ビニール袋などを携帯している。
車の中には毛布もある。何もなくても車さえあれば、生きていけるようにはしている。
とはいえ、食堂やホテル等が営業しており、キャパシティがあるのであれば使ったほうがいい。
現地のお店や宿は、お客さんが来ずに経営が大ピンチなのだ。
充分な確認の上、利用できるようであれば積極的に利用した。
前回は奇跡的にボラセンでランチを出してくれたこともあったが、今回はそうではなさそうだ。
しかしこちらは最初からそのつもりなので、全く問題はない。
僕らは働きに来ているのだ。
では行くぞ!!
遺留品洗浄
まずは遺留品洗浄をした話をしよう。
定員は15名ほどとなる。
活動場所によってはボラセンから車に分乗して目的地を目指するんだけど、今回の舞台は場所が近く、徒歩5分なのでみんなで歩いて向かった。
目的地は南相馬市役所の北分庁舎である、「モータープール」だ。
遺留品洗浄とは、その名の通り遺留品を綺麗にして持ち主の元に返しやすくする作業のこと。
津波に飲み込まれた地域から自衛隊さんがいっぱい遺留品を持って来る。
しかしそれらはヘドロにまみれてドロドロのカオスな状態だ。
それらを綺麗にして展示場に運べる状態にする、重要な仕事なのだ。
尚、上記の写真はボランティア活動外の時間にて、監督に許可を得て撮影している。
対象物のメインは写真。
その他、ノート・賞状・絵画・位牌・貴重品…。
そんな感じの比較的小物を取り扱う。
ヘドロは病原性微生物だとか化学有害物質を多く含んでいる。
仮に乾いていたら、それはそれですごい粉塵が舞う。
目にも喉にもダメージが来る。
だからヘドロから身を守るため、配布された防塵マスクとゴム手袋をつける。
しかしそれでもヘドロの独特な臭いが鼻が結構やられる。つらい。
僕は前回経験者だから、それなりに率先して頑張っちゃおうと思った。
だが、もう1ヶ月前とルールが全然違うのね。
まず、水洗いをしていない。
遺留品"洗浄"じゃなくなっている。根本から概念崩れた。
なんでも、水洗いだと写真とかどうしてもグニャグニャになる。
本当に丁寧に扱わないと、洗う作業で写真が剥げ落ちちゃうという本末転倒になるの
だ。
それを避けるためか、水洗いは絶対せずに、布やハケで表面の泥を落とす作業になっていた。
当然写真や泥が湿っていたりしたら布で拭いた時のダメージが計り知れないので、ま
ずは徹底的に乾かす。
だから晴れの日が続いていないとあんまり作業効率が良くないのだそうだ。
きっといろいろ考えられた上で、今回の方法に変更されたのだろう。
こういったノウハウは、いつかどこかで役に立つかもしれないな。
ある程度綺麗になった遺留品は、展示会場に展示され、持ち主が来るのを待つ。
1つでも持ち主のもとに返ってほしい。
そして受け取った人が喜んでくれるよう、心を込めて綺麗にしたい。
僕ら15人は、さらに2チームに別れた。
僕はかなり汚れている遺留品の汚れを大雑把に落とす班。
僕以外はゴツい男性ばかりがそろった。
もう1つはその後の細かい汚れをハケとか使って丁寧に落とす班であり、なぜか女性が多くなっていた。
今回の同行メンバーの女性も、そちらに所属となった。
カーゴボックスをいくつか並べてそれぞれの班用の作業テーブルを作り、その周りに
小さい折り畳みチェアを用意して黙々と作業。
僕らの班はまずそこいらに無造作に置いてあるボックスの中の写真だとかアルバム
だとかの遺留品を、乾いているものと乾いていないものに分類する。
そして乾いているものを布で簡単に汚れを落とし、もう1つの班に送る用のボックスに
入れておく。
ついでに名前など記載があり個人が特定できそうなものはまとめておいて、展示場に一緒にまとめて展示できるようにパッキングしておく。
もう震災から2ヶ月以上だというのに、アルバムとかジットリと湿っている。
ページ同士がくっついちゃったりしてもう大変だ。
こういうのは無理に剥がすと写真がダメになっちゃうので、次の晴れの日に乾かす。
僕らの班は、わりと連携力のある人ばかりだった。
- 「こういうカテゴリのボックス作りましょう」
- 「あ、こっちに廃棄候補のボックス作ったんで発生したら僕に回してください」
- 「これ、どう分類すればいいと思いますか?」
…みたいにコミュニケーションを取って連携力や絆を深めていった。
遺留品洗浄の仕事はボラセンから近い。
つまり僕の愛車が停まっている駐車場からの近いので、昼ごはんは車内で食べることができる。
こういうリラックスできる空間が確保できるのは、とても重要だ。
そして、余った時間は車内で昼寝してスタミナ回復させることもできるし、ボラセンの中を見学することなどもできる。
雨の日のニーズ、わずか7件。
雨は嫌だ。
僕は上記の会報をよく読んでいた。
あと、冒頭で書いた通り災害派遣等従事車両の手続きに行ったりもした。
上の写真も、そうやって昼休憩時間に駆けずり回ったときのものだ。
すっごい雨ね。雨の多いボランティアであった。
また、今回はマッチングの部屋を見学したいと思っていた。
マッチングは結構人がギュウギュウの部屋で、本部の人もボランティアの人も慌ただしく動く。
ボランティアの人は指示待ちで待機時間も生じたりするけれど、あまりウロウロできるような空気じゃないんだ。
だけどもそのマッチングの部屋には、復興ポスターだとか全国から届いた応援メッセージだとかが所狭しと展示されている。
せっかくいろいろ展示してあるのにみんな見る時間が無いなんて、もったいない。
で、受付の人に交渉した。
そして写真撮影含め、特別OKもらった。
マッチングの部屋は、原則ボランティアの人だけでは入るのはNG。
ただし今回は本部の人がその部屋でPC作業していたので、それで「監督付き」っていう建前となり、OKをいただいた。
ごく一部の紹介だけど、こんな展示物であった。
他にも被災地を応援する写真だとか、南相馬地区の巨大地図、汚染状況を記した地図などなどいろんな情報が展示されていた。
引き続きの遺留品洗浄についてご紹介したい。
僕はノートの切れ端とか手紙とか、ものすごい量のメモをファイルにストックしてある人の遺留品に取り掛かった。
たぶん、女子中学生とか高校生とか、そんな感じ。
授業中の交換メモとかちょっとした手紙のやり取りとか、大量。
ちなみに見られた本人はもしこれを他人が見たことを知ったらすっごい恥ずかしがっ
たりするかもしれない。
たぶん、多感な時期だし。
しかしこちらはあくまで作業。
内容自体には全く興味はない。黙々と処理するのみだ。
でも、手元に戻るといいね、思い出の品々。
それだけは心から祈る。
今回の同行メンバーである女性は、「ガレキ撤去や泥出し作業は、まだ終わりが見えていたからよかった。だけども遺留品洗浄はやってもやっても先が見えないから精神的に堪える。」って言っていた。
そうだね…、1年は続く見通しなんだっけ、この作業。
ここの部屋にあるだけでも何日かかるかわからないのに、まだまだ沿岸部のヘドロの中から発掘されてくるのだ。
津波の映像はTVやWebで何度も見た。
あの中にある遺留品、全て発掘して洗浄するのだ。
気が遠い作業。
しかしやらねばならぬのだ。
被災者の方々のため、復興への前進のため。
恐ろしいのは、そのうち夏が来るということ。梅雨も来るということ。
そうなるとカビ・腐敗・異臭などの懸念が格段に上がる。
ただでさえヘドロは雑菌だらけ。
僕らも防塵マスクをしているけど、それでも粉塵の逃げ場のないこの施設では、喉がイガイガする。目もゴロゴロする。
休憩時間には必ず手洗いうがいをしているけど、それでも安全には程遠いだろう。
雨続きなので遺留品を乾かすことができず、イマイチ作業がはかどらない。
洗浄作業はちょっとストップだ。
晴れている日に効率よく作業できるよう、ここからは仕分け作業に切り替えよう。
無造作にボックスに入れられている遺留品を、乾いているものと乾いていないものに分けていく。
ついでに貴重品だとか個人特定可能なものは専用のボックスにさらに分ける。
結構な重労働だ。
繰り返すが、昭和テイストの重厚な表紙のアルバムとか、1ページ1ページが厚紙なので、濡れて泥だらけだとかなり重い。
またもや服や靴がが汚れる。
前日のガレキ撤去のときも汚れたが、この作業もヘドロとの戦いだ。
あと、額入りの立派そうな絵を発掘したりした。
絵にはビッシリと白い点々が描いてあって、「変わったデザインだな」って思った。
しかしなんか変だ。妙な立体感なのだ。
実は、額と絵の間に虫のタマゴがビッシリと産み付けられていた。
ぞわわわー…ってなった。恐怖しかない。
これからの季節はこういうことも増えてくるのだろう。
16:00に作業が終了。
リーダーはずいぶん片付いたと喜んでいた。
晴れの日だとみんなガレキ撤去に行っちゃって、遺留品洗浄は人気が無いから人数が少ないんだって。
そうなるとこういう仕分け作業も取っても時間がかかるそうだ。
「あと1週間はこの仕分けを元に洗浄作業ができるぞ」って言っていた。
よかった。
途方もない道のりのわずかな一歩だが、着実に進めたようであった。
ガレキ撤去
雨続きでガレキ撤去ができない南相馬市。
本部の人も復興作業への遅れを懸念していた。
しかし、しばらく朝のマッチングが進んだところで突然、本部の人が「どうやら天気が大丈夫そうなので、今日はガレキ撤去もやることにしました!みなさんの願いが通じました!」と叫ぶ。
本部の人が言う通り、みんなパワーをガレキやヘドロにぶつけたいのだ。
やり場のない怒りでガレキをブン投げたいのだ。
場の雰囲気が「うおぉぉぉ!」みたいになる。
これは僕らもこれはガレキ撤去やるっきゃないね。血が騒ぐ。
仲間と3人、即座に肉体労働系にエントリーし直した。
その後のマッチングでは、無事に3人とも同じガレキ撤去・泥出しの作業にノミネートされたようで、集合指示がかかる。
20人のメンバーが集まり、結構ベテランなリーダーとサブリーダーが選出された。
車5台にメンバーを割り振り。
そして目的地の場所を周知される。
目的地は「北泉公会堂」という、津波に飲み込まれた施設だそうだ。
機材の準備。
本部の人やベテランさんの見立てで、次々機材を準備。
本部所持の軽トラも借りていた。
リアカーをガンガン乗せる。スコップ・バール・フォーク・熊手・竹ぼうき…。
これを軽トラの荷台にみんなでガシガシ積んだらロープで縛って固定する。
「ほい、そっちパス!」とか言われて荷台の反対側からロープが飛んでくるんだけどど、ちょっ、待って。
僕、軽トラのロープ固定なんてやったことないんだぜ。
てゆーかみんな、ベテラン過ぎだ。委縮。
そんなこんなで5台の車が連なって、津波地区を目指して出発。
ベテランリーダーが見事に20人をまとめあげ、一致団結で行動した。
北泉地区に入た。
あ、津波ラインだ。
津波の被害を受けたところとそうでないところが明確にまだわかる。
当然だが、そのラインの向こう側に僕らは向かう。
前回と比べてある程度片付けが進んでいるのはわかるけど、まだ重機が田畑に転がっている。
ボロボロになった家具をみんな家の前に並べていたりする。
…本当に、まだまだだ。
上の写真は、実はこのとき撮影したものではない。
3ヶ月以上の後、2011年8月下旬に再訪したときのものだ。
だから非常に綺麗になっている。
「うわ…、ボロボロだ…。」
思わず声が出るような惨状であった。
コンクリなので骨組みはしっかりしているけど、とりあえず一面ヘドロまみれ。
そして家具(?)だとか窓ガラスが至る所に散乱している。
天井も壊れてていろんなものがダランと垂れ下がってきている。
何度は、前回の一般家庭で実施したガレキ撤去・泥出しの比じゃない。
もう中までバッキバキのグッチャグチャだ。
明らかにこの中を津波が貫通しており、なんなら屋根まで全て波を被っている。
では、作業開始だ。
僕はまずは20畳くらいの大広間の担当をした。
大木だとか棚とかストーブだとかバケツだとか備品だとか、津波の運んできたものと公会堂の中にあったものがミックスされて、全部茶色でなにがなんだかわからん状態でうず高くなっている。
これを運び出す作業だ。
内部班がこういった物品を外に放り投げて、外で待機しているリアカー班が収集場所に運んでいくシナリオだ。
しばらく什器類を運んでいくと、今度は部屋を取り囲む木の壁が腐ってグジュグジュに
なっているので、それも破壊して運び出す。
もう、すっごい粉塵が舞う。
前述の通り、ヘドロは細菌の宝庫。
防塵マスクでもヤバイ。目もヤバイ。
今回の同行メンバーの男性は、外でバカスカゴミを投げています。荒ぶっていた。
同行メンバーの女性は、キッチンや廊下辺りに潜入していた。
大きなゴミがある程度少なくなったら、フォークでヘドロの表面を覆う枯草とかの除
去。
フォークというのは、アイダホ州で麦わら帽子を被りオーバーオールを着たおデブなアメリカンが農作業をしているときに使う、あの巨大フォークだ。
この作業用もハンパなくボリューミーだ。
そのうち外に近いところから大広間の畳が見えてきたので、パワフルな連中がそれを剥がし、外に出るところからゴミ堆積場までの10数mに畳の道を作っていた。
こうすることでリアカーの運搬が格段に速くなるんだ。
サブリーダーは軽トラでボランティアセンターをもう1往復し、さらにリアカーや機材
を追加で持ってきた。
戦力さらにUPだ。
みんなでサブリーダーに「うおぉぉぉ!」みたいに賞賛の声を送る。戦国武将のようだ。
実際、結構みんな装備がすごい。
経験もすごい。
「ノコギリないかー!この柱を切る!」、「あいよー!」という言葉が普通に飛び交っている。
メンバーの1人は大工さんだ。
乗ってきたハイエースの後部は工具をびっしり乗せた棚になっている。
そこからいろんな工具を出してきて、テクニカルに公会堂を破壊していく。
途中、「キッチンからガスの臭いがするぞー!ちょっといったん退け!!」だとか、「あれ?日本酒の匂いが立ち込めてきてませんか?」みたいな展開もあったりした。
僕はさらに天井の破壊を担当した。
やはりここはm天井まで波を被ったらしい。
断熱材だかなんだかわかんないけど、天井のコンクリではない表層の部分がズルズルに腐って垂れ下がってきている。
ついでに鉄骨も一部垂れ下がっている。
これが崩れたら下にいる僕らも無事では済まないんだけど、このときはみんな気合で何とかなると信じていた。
天井を破壊する。
シャベルでドツいて天井のパネルを下に落とすのだ。
同時にいろんな粉塵や土も落ちてくるので、ときどきモロに被って大変なことになる。
もう体中ドロドロだ。いろいろ有害物質も被ってしまっているだろう。
しかし、嫌ではなかった。
現地の人たちは、もっともっと、僕らの数100倍以上も大変なのだ。
少しでもその痛みをわかりたかった。…わかりっこないのだけれども。
でも、ここにいる間だけでも、自分を痛めつけたい気持ちがあった。
*-*-*-*-*-*-*-*-
こうして昼になった。
僕ら3人はお昼を持って、1kmほど先にある海まで歩いてみることにした。
あの日、海から津波がやってきたのだ。
その経路をさかのぼってみる。
少しでもあの日のことを知っておきたいと思ったのだ。
なんなんだ、この天気は。
霧が地上ギリギリまで立ち込めていて、すごい圧迫感だ。気持ちも苦しくなる。
なんだか異世界に迷い込んだみたいな気分だ。
途中でヘドロの中からミッフィーちゃんを発見した。
泥だらけだけど、名前が書いてある。あとでボランティアセンターに届けよう。
持ち主の元に戻るかもしれないから。
おそらく海の上、霧の下のわずかなスペースに得体の知れない巨大建造物が見えている。
海岸線の向こうのハズなのに、ゴッツいものが見えているんだ。
巨大船?それとも何かの海上施設?
思いっきりズームで撮影すると、タンクのようだ。
あぁ、確かあれは、原町火力発電所だ。
そっか、霧で良く見えないが、火力発電所のすぐそばにいるのだな、僕らは。
きっと霧さえなければ、巨大な発電所の煙突も見えているのだろう。
おそらく、あのコンクリートの建物の背後にうっすらと見えているのが、火力発電所だ。
あの建物は、18mもの津波をモロに被り、揚炭機が破壊されて炎上したと聞いた。
歩きながら周囲を見渡すと、高台に立っている家以外はほぼ全滅だ。
よほど高い津波だったのか、高台の家も1階が柱以外消滅していたりしていた。
さらにその柱も2階を支えきれずに朽ちていていて、家全体が痛々しく歪んでいる。
そういう家は、例え2階が無事だとしても家財道具を回収しに入ることすらできないだろうな…。
そもそも階段も無くなっちゃってるしなぁ、どうするのだろう?
防波堤に登る階段はほぼ全壊だったので、ガレキを足場によじ登る。
すると海の向こうの火力発電施設が一望できた。
クレーンの上部すら見えないほどの低い霧だけど。
上の写真をよく見てほしい。
あらゆる施設が、津波に破壊されてボコボコだ。
鉄筋コンクリの発電所まで、津波であんな大きなダメージを受けてしまうんだ。
背筋が寒くなる。
あの向こうから、とてつもない津波がやってきたのだ。
この防波堤を越えて。
そんなことを、誰が予想できたのだろうか?
原発事故しかり、みんな誰かのせいにしようとしている。
誰かのせいにしないと、気持ちのぶつけ先が無いってのもあるかもしれない。
確かに、事前に予想した上でしっかりした建築もできたかもしれない。
僕はそういうのの詳しいことはわからなけいけどさ、実際この光景を目にすると、「こんな状況をカンペキに事前に備えられるようにするには、日本全土を数10mの城壁で囲わないといけなくなるぞ」って思うのだ。
それがいいのか悪いのかも、わからないけど。
ちょっと酷いロケーションだけど、僕らは防波堤の上で火力発電所を見ながらお昼
ご飯を食べた。
午前中の運動量がすさまじかったので、かなり水分補給した。
夕方まで持たないかもな、水分。
食後、仲間と3人で愛車に乗り込み、トイレを探すドライブに出かけた。
そして途中で見つけたパチンコ屋でトイレを借りました。
津波ラインの向こう側にトイレなどは原則ないのだ。
かといってボラセンは遠いし、ガマンできるようなものでもないし。
パチンコ屋は、津波ラインから数100mほどしか離れていないけど、賑やかな音で溢れていた。たった数100m、津波が来たかどうかで大きく世界が違っていた。
ドロドロの状態で入った僕らは少し浮いていた。
*-*-*-*-*-*-*-*-
午後の作業だ。
僕が中央の部屋のヘドロをスコップで掻き出し、窓から外に放り投げる。
それを外にいる同行の仲間がリアカーに卸し、堆積所に捨てに行く。
こんな感じの連携。
しかし仲間が結構なスピードでリアカーでヘドロを捨てて戻ってくる。
そして僕が部屋の泥を掻いているのを窓の外から見ているの。
悔しい。スピードUPしてコイツの待ち時間を無くしてやりたい。
コイツがリアカーで泥を捨てている間に窓の外のヘドロ置き場を泥でいっぱいにすれば、コイツがそれをリアカーに盛りつけている間に僕が休憩できる。
それを実現したら、今度はその仲間が悔しがってさらにスピードUP。
僕の休憩時間がまた無くなった。
負けじとこっちもさらにスピードUPした。
もうヤバイ。体がヤバイ。
普段肉体労働なんてまったくやらない僕は、ヘロヘロだ。。
しかしコイツには負けたくない。
ついに仲間は「YAMAが速すぎるから休めねーだろうがよ!リアカーメチャクチャきついんだぞ!」とか、キレてきた。
僕も「アホか!いちいち身をかがめてスコップで泥を掻く方がきついに決まっている
だろうが!」と言い返した。
もちろん本気でキレているわけではない。
僕らなりの、相手に対する賞讃だ。
僕らは共に日本1周目を成し遂げた、10年以上前からの仲間なのだ。
そんなこんなで凄まじいスピードで部屋が綺麗になった。
室内に厚さ30cmくらいも堆積していたヘドロは綺麗に掻き出され、畳が見えてきた。
ここでみんなでオヤツ休憩を取った。
休憩直前、僕はスコップに寄りかからないと立てないほどにクタクタだった。
2011年で一番疲れた1時間半だった。
僕とペアを組んだ仲間も、腕プルプルで「さっきリアカーごと堆積所に突っ込んだ」って言ってた。
本部からダンボールいっぱいの差し入れのドリンクが届いた。
やったー、よみがえる。
もう汗だくだもの。
かといって、スタジャンを脱ぐわけにはいかない。
この室内はいろいろヤバい物質が飛び交っているので。
そして最終ラウンドだ。
室内の泥の中から大きなホワイトボードのフレームをサルベージした。
すごい大変だった。
間仕切りとか押入れとか、木材は全部撤去した。
みんなで畳を全部剥がした。
そしたら床板が結構朽ちていて、踏み抜いたりした。それなりに痛い。
女性の仲間をちょっと見に行ったら、キッチンを職人みたく綺麗にしていた。
割れた食器がいっぱい出てきていた。
大工さんの提案で、床板をみんなで剥がした。
バールを使ってみんな器用に剥がすんだ。
なんか泥出しでもガレキ撤去でもなく、家屋解体が始まりまったけど?
床板を全部剥がすと、今度はその下から縦横に走る床梁が登場した。
そしたら大工さんが「構造上、横の方は外してOK」みたいなことを言い出す。
みんな床梁まで除去し始めました。
僕はちょっと離れたところで柱とかメキメキ剥がしながら、その光景を見てた。
ボランティアの範疇、超越した。
床下からはさらにヘドロの層がベットリと顔を見せた。
東日本大震災から2ヶ月以上が経ったというのに、まだグチャグチャのヘドロ。
バケツリレーだ。
すっごい重いけど、頑張って掻き出した。
腕がプルプルすぎて、もう自分の意志で動いてくれない。
夕方、最後の後片付けだ。
リアカーの線路代わりに使っていた、朽ちた畳の回収作業が重すぎて参った。
2人かがりなんだけど、握力がもうなくってさ、泣きそうなくらいシンドい。
でも畳はメチャいっぱいあるし。
でも周囲を見ると、みんなも腕に力が入らずに、「ベチョーン!」と畳を落としていた。
そしてまた5台の車でボランティアセンターに戻る。
放水装置で使った機材を洗ったりしたけど、もうフラフラであまりよく覚えていない。
昼に拾ったミッフィーちゃんは、本部の人に渡しておいた。
名前が書いてるのだ。
遺留品洗浄グループで綺麗にし、持ち主に返ってくれたら嬉しい。
そして、今回のチームのみんなとお別れだ。
絆が芽生えた。みんな、ありがとう。
いつかどこかで、笑顔で再会できたら酒でも飲もうよ。
僕らは伝えなければならない
ボランティア活動は16時までだ。
9時~16時まで。原則徹底している。
無理して体を壊すようなことがあってはいけないのだ。
ボランティアは役に立つために存在している。足を引っ張る存在であってはならない。
休むのもまた仕事である。
16時以降のフリータイムにて、町を見るのも重要な役目だと思っている。
おそらくは今回の震災は、遥か先まで歴史に残るような大事件だ。
僕はその証人の1人でありたい。
震災後しばらくしてからのボランティアだが、僕には僕の見た世界があるのだ。
その世界を、あなたにもお伝えしたい。
僕らは、これを乗り越えなければならない。
街中を走る車は、自衛隊とダンプカーとトラック。
この比率が非常に高い。
一緒に走行していて相当プレッシャーを感じるが、同時に頼りになる。
県外ナンバーのマイカーである僕は、もしかしたらそれらの人や地元に人から訝しげな眼で見られることを危惧していた。
そんなときに役に立つのが、「がんばろう!みなみそうま」の帽子である。
ボランティアの多くがこの帽子を被っている。
この帽子はある程度市民権を得ている。
これを被っていれば、地元の人たちもちょっと安心してくれたのではないかと思っている。
福島第一原子力発電所からの20km地点に設置されたゲートだ。
あの向こうには、もう防護服が無いと入れない。
国道は厳重に封鎖されている。
南相馬市は、20㎞圏内も跨っている町なのだ。
それを知るためにも、ここを見ておきたかった。仲間に見せておきたかった。
県道も、比較的大きな道には警備員がいる。
写真には無いが、この右手自衛隊のキャンプ地となっていた。
ちょうど朝に僕らが通りかかったのが出勤時間なのか、キャンプから大量の自衛隊車輌が出てくる。
何10台も。
そして僕らの目の前を通り抜け、次々と原発20kmゲートを突破して行った。
大変だろうなぁ。不安だろうなぁ。彼らにだって故郷や家族があるんだから。
自衛隊さん、本当にありがとう。
くれぐれも、気を付けてほしい。
田園地帯の道県道120号。
この道を南に走ると、上の原発20kmゲートが出てくる。
前回は、飼い主がいなくなった2頭の犬に出会ったところだ。
ここのゲートには警備員はいない。
後ろからパトカーが現れ、僕らの横をかすめてゲートの向こうに消えていった。
福岡県警のパトカーだった。
なんと、九州からか。頭が下がる。
僕らはポツポツ降る雨の中、看板の前でしばらく佇んだ。
国道6号をちょっとだけ南に行き、沿岸部に曲がれる道から海を目指す。
するとすぐに津波ラインを越える。
このラインで世界が大きく変わるのだ。
もう、ここにはちゃんと建っている家なんて一軒もない。
鉄骨・ガレキ・家の基礎・家具・車…。
そんなものが散乱しているだけの世界だ。
鉄骨ですら、こんなにグニャグニャになるのだ。
よく見ると家の基礎の中央ほどに花が添えられている。
あぁ…やるせない気分になる。
これはミニ消防車だろう。
あの日、地震が起こった。
直後、消防車は沿岸部の様子を見たり、被害を受けた人々をレスキューするためにここに駆け付けた。そこに津波が襲い掛かる…。
…そんな光景が目に浮かんだ。
さらに海へと向かっていると、左手に簡素な仏壇・生け花、そして被災者に向けられ
た応援メッセージのボード。
あ、見覚えがある。前回走った道だ。原町区萓浜だ。
荒野にはポツポツと車が転がっている。
そして、数えきれないほどのガレキの山。
昔はこのガレキも、家具や生活用品、そして家の一部だったのだ。
今ではもう、何が何だかわからない。
この1ヶ月で、ここは何が変わっているだろうか。
若干大きなガレキ類が減ったり、まとまったりしているような気もするが、復興だとか
のイメージには程遠い。
人が住めるような状態ではない。
左右ともに、家の基礎があるのだ。
ここは確かに町だったのだ。
降りしきる雨が、一層ここを悲しい景色にさせている。
ヘドロに覆われた大地。
津波で砕けたテトラポットの残骸が、こんな内陸にまで散らばっている。
アスファルトもところどころ剥がれている。
道自体が崩壊している部分もあるので、津波ラインの内側を走る車は非常に少ない。
作業車両くらいだ。
ところどころ、ガレキが盛られている上に青い旗が立っていたりする。
それは「ガレキを撤去してもOKですよ」っていうサインだ。
ちなみに、写真には撮っていないが、赤い丸印がついている建物の残骸もあったりする。
それは遺体が発見されたマークだ。心が痛い。
ここに再び笑顔が戻るまで、いったいどれだけの年月が必要なのだろうか…。
整備して家を建てて、はい終わり、ではない。
人が住み、コミュニティができ、文化ができるまでにはさらに長い年月が必要だろう。
あまりに気の遠い道のりに、めまいがする。
さらに進むとわずかに残っていたアスファルトさえも完全になくなり、ガードレール替
わりにトラロープが張ってあるだけの区域に入る。
本当に被害が大きかったのだろう。
地震の影響なのか、道も歪んでいてありえないような小さな起伏が連続する。
もう、こっちも四駆に切り替えてグイグイ進んだ。
とてつもなく狭い道とかにも入り込んじゃって焦った。
当然狭い道ほど利用のニーズが少ないので、整備も遅れているのだ。
海岸線を南へと進み、原発20km圏内の1kmくらい手前で内陸部に進路を変えた。
そうすると、アイツが見えてきた。
前回最初に津波の被害を目の当たりにしてショックを受けた、曲がった送電線の鉄
塔であった。
小道を使って鉄塔の横を通り過ぎ、内陸部に帰って行く。
前回の訪問時にも撮影した、大型トレーラー前までやって来た。
…ここは何も変わっていないな…。
唯一変わったのは、手前に立札が新設された点だ。
ここは原発から20.8km地点なのか。それが判明した。
その後ろの畑には、おびただしい数の津波に飲み込まれた車が放置されて
いた。その数、ザッと数えただけでも10台。恐ろしかった。
ちょっとずつちょっとずつ、僕らは前進しなければならない。
つらいけど、前進さえしていればいつか「復興した」と言える日がくるのだろう。
いつかの未来にまた会おう
今回はホテルに宿泊していた。
「ビジネスホテル 高見」という、南相馬の道の駅のほぼ向かいにあるホテルで、立地がすごく便利であった。
宿泊者にはボランティアの人も多かった。
お世話になりました。
安くて奇麗でいい部屋だった。
ベッドもフカフカで、ガレキ撤去でパンパンになった腕や足も、1日で全快した。
仲間と3人、南相馬を出発する。
少し先になるかもしれないけど、いつか南相馬の本来のいいところを見てみたい。
「野馬追まつり」とか、有名だしね。
前回のエピソードで参加した2人も含めみんなで、元気になった南相馬を再訪する。
そんなことが出来たら嬉しいね。
…そう話した。
その日まで、僕も頑張ろう。
仕事とかはもちろん、もっともっと日本を見て回るのだ。
僕には僕の、やるべきことがあるし、やりたいことがある。
それを磨くのだ。
地元のおじさんと話したことを、僕は思い出す。
夕方のボラセン前、ガレキ撤去で泥だらけになった衣服をはたいていると、「ボランティアで来ているのかい?」と声をかけられた。
おじさんは地元南相馬の市会議員だそうだ。
横浜ナンバーの車がボランティアに来ているのを見て嬉しくなって声をかけたとのことだ。
地震当時の惨劇をいろいろ話してくれた。
松の木の上を超えて迫ってきた津波の話。
そのとき一緒に逃げた仲間が助からなかった話。
その後も原発だとかで地獄の生活が続いている話。
こんな僕らに身の上話をしてくれてありがとう。
誰かに聞いてもらいたい、という思いだったのだろう。
だから僕らも受け止める。
最後におじさんは、こう尋ねてきた。
「車に書いてある【日本走覇】って、どういう意味?」
僕は答えた。
「日本をくまなく走り、くまなく知り、未来に繋げる僕の人生目標です」と。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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