東日本大震災から5ヶ月が経ったある日のこと。
2回ボランティアに訪問した南相馬市から僕らのもとに、1通の手紙が届いた。
僕らはその便りをもとに、南相馬市を再訪することとなる。
今回はそのときの思い出をつづりたい。
この写真は、震災から10年となる2021年3月、南相馬市にお願いしてご提供いただいたものである。
当時の南相馬市の市長である、桜井市長を囲み、みんなで記念撮影をしたときのものだ。
※ 「桜井市長以外の方にはマスキングして使います」と宣言したので、該当部分を加工しています。
10年前に執筆した上記の3本のレポートのうちの、第3弾の再公開だ。
尚、新規書下ろしを含めて計4本の連載となる。
もしあなたのお時間が許すのであれば、上記2リンクをお読みいただいてからのほうがわかりやすいかもしれないが、本エピソード単体でもおわかりいただけるよう執筆しているので、ご安心いただきたい。
…僕らが南相馬を訪問する9日前から、物語はスタートする…。
思い出の地から届いた手紙
2011年8月11日の夜。
僕宛てに南相馬市から手紙が届いた。
この度は大地震に大津波が発生し1000年に一度といわれる大きな災害を福島県、宮城県、岩手県の海岸部に甚大な被害をもたらし、重ねて、当南相馬市鹿島区は東電第一原子力発電所の事故に伴い未含有の苦難を受けることになりましたが、そのようなことにもかかわらずボランティアの皆様には、早速、鹿島区にかけつけていただき、連日続く猛暑の中、瓦礫の撤去、生活排水路の泥だし等にご甚力を賜り感謝にたえません。
おかげをもちまして、鹿島区においては、復興の兆しが見えてまいりました。皆様には、多方面にわたる支援活動をいただきましたが復興への祈願ともいうべき、ひまわりの様子を植栽いただいたものが開花する時季を迎えることと思われます。
放射能物質による風評被害も拡大する中にあり、鹿島区民が前向きに生きる姿は、皆様が勇気をもって当地に入り率先して綺麗な地域に戻して下さった賜ものと思います。
一応、8月をもって災害ボランティアセンターを生活復興ボランティアセンターに改称し、本格的な復興に向けて活動を続ける所存でございます。今後ともご支援、ご協力をいただきたくお願いを申し上げ書面を持ちましてお礼といたします。ありがとうございました。
手紙は2枚組であり、2枚目には『ひまわりの開花と復興を祝って、ボランティアの人たちとひまわりを見たりちょっとした復興イベントをやりたいと思います。よかったら8月20日の10:30に南相馬市の鹿島地区まで来てください。』…という主旨の内容が書かれていた。
えっ!!イベントは9日後じゃないの!めっちゃ急だね!
そして参加可否の返信期限を見てさらにびっくり。
明日中に投函だよ!
めっちゃ急だね!
考えている時間がほとんどないわ。
そして僕、南相馬からは「どうせ8月の週末なんて夏休みをエンジョイするわけでもなく、ヒマを持てあましているんでしょ」とか思われているのかな?
…正解だよ、コンチクショウ!!
しかし、さすがにこういうイベントに1人で行くのも浮いちゃうので、仲間を招集しなければ。
手紙の送付元を見ると、鹿島ボランティアセンターと書いてある。
僕らは南相馬の原町地区と鹿島地区を拠点としてボランティアしていた。
しかし鹿島地区で活動したのは「南相馬・リバイバル」のときのみだ。
僕が「第2次世界大戦に竹槍で挑む人の気持ちが今ならわかるよ」と言ったところだ。
「南相馬・リバイバル」のメンバーにすぐに連絡を取り、翌日1名が参加の調整をしてくれた。
僕もギリギリのタイミングで参加の旨を投函。
3度目の南相馬へ
夜明けの「東京タワー」だ。
今日さ、深夜の3時に起きて、家を出発したんだよ。
こんな時間に起きるのなんて、漁師さんかパン屋さんくらいだよ、まったく。
しかし10時くらいには南相馬に着いていないといけないんだもん、ツラい。
東日本大震災で頭頂部が曲がった頭頂部。
一時期はかなりゆがんでいたけど、その後に人力で一生懸命直したみたい。
ずいぶんとマシになってきたね。
8:30ごろ、おなじみの東北道の福島松川ICで高速道路を降りた。
いずれ福島県の浜通りを走る常磐道が開通すれば、南相馬までスムーズに行けるんだろうが、第一原発の事故の影響は、それはまだまだ先の話になりそうだな…。
ボランティア活動をしていたときの行きかえりで気になっていた、ポニョだ。
全村民が避難しているという、飯館村の畑の中にいる。
農道を100mほど車で突っ切り、今回初めて横まで到達できた。
なんだかちょっと心がザワつくレベルの違和感がある。
10時ちょっとすぎ、今回のイベント会場である、南相馬市鹿島地区の「真野小学校」に到着した。
うわ、車が既にいっぱいだ。
ここも震災時は大変な状態になっていたようだ。
今回特別に10年後の2021年を生きるYAMAが、つい先日現地で掲示していた震災当時の写真を撮影してきたのでご紹介する。
ところで駐車場に誘導してくれたボランティアの人に見覚えがある。
あーー!!
「南相馬・リターンズ」のときに「北泉公会堂」のガレキ撤去で一緒に大暴れしたリーダー!!
久しぶり!!
思いがけない再会が嬉しい。
あのときはお互いいっぱいいっぱいで笑う余裕などもなかったが、今回は精一杯笑顔でいこう。
震災5ヶ月後の世界
真野小学校の体育館の受付を済ませた。
今回のプログラムと記念バッジ、そして希望者にボランティア用の帽子がもらえた。
これがその帽子だ。
僕は「南相馬・リバイバル」のときにもらったものを持ってきている。
しかし同行メンバーは忘れてきやがって、受付でもらっていた。
なんてヤツだ。少々強めにディスっておいた。
ところで帽子の色は、僕のよりずいぶんと濃くなっていた。
南相馬に来るのはこれで3回目だが、来るたびに配布される帽子の色素が濃くなっている。
さて、もらったチラシでも見るか、と思った矢先にスタッフさんから「すぐにバスに乗ってくだーい!」と言われる。
見ると小学校脇には大型観光バスが3台。
とりあえず乗る。
だけども僕らは集合時間以外のプログラムを何も聞いていなかったので、焦る。
どこに連れて行かれるの?
戻って来れるの?
何をするの?
バスの中で、慌ててさっき受け取ったチラシを見る。
そしてようやくプログラムを把握できた。
- 被災地の復旧状況視察
- ミニコンサート in ひまわり畑
- ボランティアの集い in 真野小学校
この3つが今回の趣旨なのだな。
あと、鹿島地区での7月末までのボランティア活動人数・件数も掲載されていた。
- 活動人数:延べ7,304名(県内2329名、圏外4,975名)
- 活動件数(ニーズ件数)460件
そう書いてあった。
僕らを乗せた大型バス3台が発車。
東日本大震災から5ヶ月半。
しかし小学校を出発直後、その裏手には津波で運ばれてきた漁船がいまだにゴロゴロと転がっているのが目に入る。
生い茂った夏の草に覆われつつ転がるその様は、さながらサルガッソーであった。
国道6号を目指してバスはゆっくり進む。
あぁ、僕はこの船を知っている。
以前の写真と対比しよう。
以後、2枚組になっている写真は「左が春・右が現在(8月)」とする。
やはり船のような大きいものはなかなか運べないんだね。
それに、人々の生活に支障が出ている物事から先に着手するから、船の撤去などは後回しなのだろうね。
船たち、あのころと比べて減っているようには全く思えない。
国道6号から海岸に向かってバスは進んでいく。
津波をダイレクトに被った地区は、一面の草むらになっていた。
夏の間に草が生い茂ったのだ。
もう、以前が畑だったところと住居だったところの区別がつかないよ。
全部広大な草原になっちゃってるよ…。
車の残骸だ。
生い茂る草の間に、まだまだこういったものが転がっている。
バスにて付近のガイドをしてくれているのは、地元のおばちゃんであった。
津波を被った直後のこの地がどんなに酷いあり様だったのか、そしてボランティア活動によってちょっとずつ土地が綺麗になった様子をマイクを通して説明してくれた。
最初はもうこの地に住むことを諦めていた人々が、「やっぱりここで暮らそう」と思い直し、ボランティアと共に活動を始めた。
それを受けて他県などに避難していた人々も戻ってくれるきかっけになったのだそうだ。
ここは烏崎地区というらしい。
70軒あった住居が津波で流されて2軒しか残らなかったそうだ。
このあたりは地元の人が慣れ親しんだ海水浴施設もあったらしいけど、津波で完全に消滅しちゃったんだって。
写真には撮っていないけど、車窓から見ると歪んだり1階部分が空洞になった家の修復をしている人がそこかしこにいる。
頑張って、復旧への道のりを歩んでいる。
少しずつ、少しずつ…。
ガイドしてくれているおばちゃんは、「みんなの活動でこんなにも綺麗になって…」と涙ながらに説明してくれている。
しかしだ、「そうですか、良かったですね」とは口が裂けても言えない状況だ。
ガレキが少々片付いただけで、そこにあった町が復活したわけではないのだから。
ただ、重要なのはそこではないんだよね、きっと。
絶望に沈んでいたところから、復興していこうと思い立つ、そのベクトルの変化が何よりも大きく、重要なんだよね。
もしボランティア活動によってその一端を担えたとしたならば、それは少しだけ嬉しい。
だけども、誇らしさなどは感じない。
まだそんなことを感じれる状況ではないな、と思った。
ところどころ路肩がガタガタに崩れた道を走っていると、前方にひまわり畑が見えてきた。
ひまわりの咲く草原で
ここは「南海老ひまわり畑」というらしい。
グルグル回りながら来たので真野小学校から20分かかったけど、鹿島ボランティアセンターの活動エリア内とのことなので、ボラセンからはそんなに遠くないと思われる。
ここでこのあとミニコンサートが行われるのだが、それまで自由にひまわりを見てほしいと言われた。
では、ひまわり畑に入ろうか。
ちょっと小さいし、ちょっと不揃いなひまわり。
だけども、これが復興への第一歩。
ここも当初は津波を被って何もなかったというから、随分頑張ったのだろう。
人もひまわりも。
海水を被った土地で成長したひまわりも、すごいのだ。
これまで、ひまわりは除染作用があるとウワサが流れたり、だけども枯れた後の処分方法を考えきれていなかったり、推進派と反対派でバトルになったり…。
僕、春のボランティア後も頻繁に南相馬の情報を入手していたので、ここいらの経緯は大体全部知っている。
何が良くて何が悪いのか、よくわかんないし判断もできない。
だけども、みんないろいろ悩み考え、遠回りや寄り道をしながらも少しずつ前進している。
それでいい気がする。
今日はちょっと曇っている。
しかし、曇っていてよかった。
これがいつものような炎天下だったら、きっと耐えられなかっただろう。
僕、今回の内容何も知らなかったからドリンクすらここに持ってきていないし。
イベントが始まった。
この辺の説明はちょっと端折るけど、実行委員長の人からの挨拶だったり、ひまわり畑発案者のボランティアの人からの挨拶だったりだ。
それから、地元出身のミュージシャンやゲストのミュージシャンの方々によるライブが行われた。
ひまわり畑の中でのライブはなかなか風情がある。
そのさらに後ろには、まだ残っているガレキや稼働しているショベルカーとかがいる。
そんな中でのライブだが、これが南相馬が再び歩み出す、最初の一歩なのだろう。
おせじにも、充実しているとは言えないコンサートだ。
だけども、見ている人々の顔は皆あたたかい。
お年寄りなどは、涙ぐんでいる人も多数いる。
5年後だろうか、10年後だろうか、それとももっと先の話だろうか…。
いつの日か、南相馬の人たちや僕らが、「あの日、ひまわり畑で小さなコンサートをやったよね。あの日から、少しずつ活気が生まれたよね。」と話せる日が来たら嬉しい。
ステージの合間で、こんな説明がなされた。
「このひまわり畑は、6月くらいに作り始めた。
そのころは周囲はガレキの山で、しかもすごい異臭がしていた。
作業者たちは半日でダウンしたりして大変だったが、なんとかこうして畑にできた。」
…途端に、僕の脳裏にある記憶がフラッシュバックされた。
鹿島地区から海方面に来たときの光景だ。
ガレキしかない。
窓を開けると、ムワーっと変な臭いが車の中に入ってきた。
磯の臭いをもっともっと濃く煮詰めたような感じ。
きっと雨上がりだからなのかな。
かなり強烈だ。
この臭いは、忘れることができない。
…あのときの…!?
なんだか以前走った場所と、今のここの場所が頭の中でリンクしかけた。
「おい、行くぞ!」
仲間に声をかけ、ミュージシャンの交代の合間を縫って少し海側に出てみた。
僕は!僕らは!!
この場所を知っている!!!
周囲を見渡した。
草に覆われているが、僕らは春にここで車を停めた。
左隅に写っているのが、「原町火力発電所」の煙突だ。
大体同じアングルで写真を撮ってみた。
「南相馬・リスタート」のときには霧が濃くって良く見えないものの、あの火力発電所のすぐ脇でガレキ撤去作業をし、そしてひび割れた防波堤の上で昼ご飯を食べたのだ。
そうか…。
あそこがこのひまわり畑になったのだな…。
南相馬の復興の象徴となるであろう、ひまわり畑。
奇しくも、僕の記憶に強く残っていたスポットと合致した。
その後もイベントは順調に進み、1時間強のひまわり畑滞在時間が終了となった。
ありがとう、みんな。
そうそう、同行の仲間と話し合ったんだけど、今回のイベントへの紹介の手紙が直前かつ締切がタイトだったのは、意図的に人数を絞る意味もあったんじゃないかと思うのだが、どうだろう?
鹿島地区でボランティアに参加したのは、7304名。
これが全員来ちゃったら今回のイベント回らなくなるもんね。
だけどもすっごい直前で招集をかければ、来れるのは近場の人か、僕らのようなヒマ人だけ。
その結果が、この観光バス3台に乗れた、この150人なんじゃないかと。
まぁ真相はわからないし、特に知りたくもないけど、一握りの選ばれし者に入れて光栄だ。
復興イベントにて
このあとは最初に受付をした真野小学校でイベントがあるそうだ。
軽食も出るそうだ。
時刻は12:30だし朝から何も食べていないので、それは楽しみだ。
小学校の体育館。
前述の通り、一時期は津波のヘドロで覆われていた。
ボランティアにて泥かきをし、ようやく延期されていた卒業式がここで実施出来たの
は、ほんの1ヶ月前の7月30日だったんだとか。
まずは、ぞれぞれにおこわのおにぎりを2つずつ振る舞われた。
そこそこの大きさだったが、マッハで食べたわ。
空腹の男子に刮目せよ。
そしてうまい。
近くにいた地元のおばちゃん集団が、「畑で採れたキュウリよ」とか言ってキュウリを差し出してくれた。
これもボリボリと悪い顔してワイルドに食べた。
福島のキュウリ、実にうまし。
体育館裏は模擬店群になっていて、好きなものを好きなだけ食べれるのだそうだ。
おぉ、桃源郷か。行ってやる、食ってやる。
ここにもキュウリが並んでいた。
いや、キュウリはもう結構だ。
模擬店のやきそばを食った。
僕はもう腹いっぱいだ。
ガタイのいい同行者はひたすら食ってる。
あと、生ビールもあって心底そそられるけど、これは当然ガマン。
僕はドライバーなのだ。
イベントではいろんな人たちの挨拶が続く。
桜井市長の登場だ。
うおぉ!
アメリカのタイム誌で「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた市長!!
スピーチ聞けてうれしい!!
尚、世界中から注目され「世界で最も影響力のある100人」へのエントリーのきっかけとなった動画は、以下からご覧いただきたい。
次に市長を含めて全員集合写真を撮影するという。
この写真はきっと南相馬のリスタートの象徴となる写真として、各所に掲載されるか
もしれないし、今後も南相馬の歴史に残り続ける重要な写真となるに違いない。
うむ、ではちゃっかり市長の近くで写ってみようか。
そう思って桜井市長に接近する。
だが、さすがに市長の真後ろは人気過ぎたし、僕ごとき矮小な人間が写るのもはばかられた。
だから市長の3つ後ろを陣取ることにしました。
ある意味センターだ。これで良いであろう。
そして、このときの一連の写真はしばらく南相馬市のオフィシャルサイトに掲載されていた。
その後も偉い人たちのご挨拶が続く。
その後も同行の仲間はムシャムシャとポテトとか食べている。
ボランティアへの感謝の言葉などが述べられるが、正直大した活躍をできたなんて思ていないし、まだまだ復興は始まったばかりだし、気恥ずかしい。
なので僕もこの思いを食べてごまかそう。
そうだ、デザートにカキ氷だ。
地元学校のマーチングバンドや万葉太鼓の演奏がステージで始まる。
カキ氷をシャクシャク食べながらそれを見学する。
がんばれ、南相馬市の子供たちよ。
この町の未来を創るのは、きっと5年後・10年後のキミらだ。
思うにね、オトナっていうのは守るのは得意なのよ。
だけどもそれを一度壊されてしまうと、とてもションボリしてしまうのよ。
だが子供は、新しく何かを作り出すチカラがあるんだ。
どこに住む、どんな子供であっても、等しく希望は持っていないといけない。
僕らオトナは、そうであるように子供に希望を与えなければいけない。
そう思うのだ。
南相馬の地に轟けよ、万葉太鼓。
開始から2時間。
立食パーティー形式の会だったのだが、もうお年寄りを中心に地べたに座り込む宴会になってきた。
そろそろお疲れなのだろう。花見みたいなスタイルでいいぞ。
イベントも終盤だな。
僕は同行メンバーを誘い、会場を後にした。
最後にやることがある。
僕らは僕らで、思い出の地を少し巡りたいのだ。
10年後に馳せる思い
仲間と2人でのドライブ。
まずは「北泉公会堂」だ。
「南相馬・リスタート」でハデにガレキ撤去作業をしたスポットだ。
随分スッキリし、コンクリートの外枠以外は全てなくなっている。
僕らの作業の後も、きっとボランティアの人たちが頑張って作業を続けたのだろう。
前回参加しなかった同行の仲間には、ここでの思い出を語っておいた。
この建物、今後どうなるのだろう…?
続いて、さらに海方面に向かう。
僕は前回、ここでヘドロまみれのミッフィーちゃんを拾ったのだ。
前回は濃霧で全く見えなかった、原町火力発電所の建物が、今回はしっかり見える。
そして、茶色だった世界は緑へと変わったことがわかる。
あの日、お弁当を食べた防波堤だ。
ガレキは撤去され、沖合には大きな作業クレーンが設置されていた。
ちょっと縮尺が違うが、左の写真の特徴的な建物とその上の木。
それが、右の写真にも写っているのがおわかりいただけるだろうか?
この先、発電所まで行く道は存在しない。
なのでUターンをし、発電所を回り込みながらさらに北へと向かう。
その地は、今回の同行メンバーと共に「南相馬・リバイバル」で泥かきをしたり沿岸部を見て回ったりした場所だ。
超・沿岸部だ。
もちろんかなり綺麗になっているが、文明が何もないことには代わりはない。
まだ土台を基に戻している段階であり、生活の場ができるのはまだまだ先の話になるだろう。
まだガレキもあるし、サイドミラーに写っている通り、かろうじて残った家屋ももはや人が住める状態ではない。
徐々に取り壊されていくのだろう。
あのとき泥かきをしたOさんは今、何をしているだろうか?
しかし、今回は家を見には行かないし、当然ご挨拶もしない。
ボランティアとしてあの日に派遣されただけなので、それ以上の接触や詮索はもうしないつもりだ。
あの日にみかけた、印象的な道。
ここはほとんど手つかずだ。崩壊した路面もそのまま残っている。
沿岸部はやはりまだまだ復旧までに時間がかかりそうだ。
ちょっと間ここに佇んでいる間に、ガレキを積んだ数台のトラックが通っていった。
だけども、残っているガレキの量が果てしない。
さっきのイベントでは、「ボランティアさんありがとう!」とか笑顔で言われ、ヘラヘラしながらおにぎりや焼きそばを食べた。
しかし、そんなことをしていて良かったのだろうか?
山積みとなっているこの課題を前に、とても「どういたしまして」とか言えないし、笑顔も出て来ない。
うん、そんなことはここ南相馬の方々が一番わかっているのだろう。
その上で、ときには笑顔も必要だし、祭りも必要だ。
こうやって少しずつ少しずつ、次の時代を作り上げていくのだろう。
この大地に新しい夢を描くのは、次の時代を担う先ほどのような子供たちかな?
僕らにできることは、それを応援すること。
可能な範囲でお手伝いもすること。
東日本大震災を忘れずに、伝えていくこと。
このあと、僕らは「南相馬・リバイバル」でも訪問した相馬市の景勝地、「松川浦」を見て回ったのだが、その話はまた機会があったら別項目で取り上げたい。
こうして、宮城県南部のICから高速道路に乗り、関東へと帰ることとなる。
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帰路、仲間と話した。
またいつか、南相馬を再訪しよう。
本当に笑顔で訪問できる日を夢見よう。
その日まで、被災地のことを忘れてはならない。
帰宅した僕は、「がんばろう!みなみそうま」の帽子を家に持ち込もうとしたが、ふとその手を止めた。
この帽子は車の中にこのまま置いておこう。
南相馬を忘れないために。
東日本大震災を忘れないために。
この先、僕はきっと日本中を走るだろう。
途中で車を交換することもあるだろう。
でも、ずっと一緒だ。
これは、僕と被災地を繋ぐ絆だ。
また、笑顔で会おう。
約束だ。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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