2021年現在で日本一高い建造物は、「東京スカイツリー」である。
では、時を100年遡ろう。
1921年で日本一高い建造物は何だろう?
南相馬市にある「原町無線塔」だ。高さ201mだ。
1921年、ちょうど今から100年前に完成した。
なので節目となる2021年のうちにこの記事を執筆できてよかった。
ところで、原町無線塔って現存しているのだろうか?
結論から言うと無い。1982年に解体されてしまった。
だけども10分の1サイズのミニチュアが残っているし、今も人々の記憶にも歴史にもしっかりと刻まれている。
さぁ語ろう、この白い巨塔のことを。
南相馬市に縁もなく、この塔のことを知ったのはほんの11年前くらいの僕が執筆するのは恐縮だが、それでも語ってみよう。
また、本記事のために上記写真をご提供いただいた南相馬市役所様および南相馬市博物館様には、心から感謝申し上げます。
大好きだぜ、南相馬。
震災直後の出会い
2011年4月…。
南相馬の町は騒然としていた。
前月の東日本大震災の影響で沿岸部は壊滅状態。
市街地も多くの自衛隊車両や物資運搬トラックが走り回り、放射能対策の防護服を着ている作業員も多くいる。
そんな渦中に僕らは来ていた。
6・7時間ほど車を飛ばし、震災復興ボランティアに複数回訪れていたのだ。
そのあたりの詳細は以下などからご覧いただくことも可能だ。
それはある日のボランティア活動の終わった夕方であった。
一緒に来たボランティア仲間と共に「道の駅 南相馬」に車を停めた。
どうしても見ておきたいものがあったのだ。
ただ、それは正確に言うと道の駅の敷地内にあるものではない。
そこから信号を渡った1つ隣の区画にあるものだ。
「憶・原町無線塔」。
それがこの建造物の名前である。
高さは約20mの、白くてのっぺりした煙突のような塔である。
原町無線塔の10分の1サイズのミニチュアだ。
1年前、つまり震災前にもこの道の駅には来ているんだけどね。
大寒波の到来した夜、寒さに凍えながら「この近辺に入浴施設はないだろうか…?」とか言いながらパンフ類を漁っていたりしたんだけどね。
この無線塔の存在にも気付いたが、真っ暗だったしそんなに興味もなかったので、スルーしてしまったのだ。
じゃあなぜそこから1年経った2011年の僕が、この塔に興味を持ったのか。
ヘドロと粉塵にまみれた僕が、この塔を見上げて何を感じたのか。
…まぁそのあたりはゆっくり書いていきたいと思う。
参考までに、ここで"憶"の意味を記載しておこう。
憶(読み)オク
1 いろいろなことを思いやる。「憶念/回憶・追憶」
2 心にとどめて忘れない。「記憶」
3 おしはかる。「憶説・憶測」
(引用元:「コトバンク」)
大正時代~昭和時代の物語
時代を遡ろう。
原町無線塔は1921年(大正10年)、ちょうど今から100年前に完成した。
その高さは約201mだ。
この時点では、日本一高い建造物であると共に、東洋で一番高い建造物でもあった。
すげぇ。
用途はその名前の通り、無線塔としてだ。
特にアメリカと無線通信をする用途で開局したらしい。
開局パーティーなんて、すごかったらしいぞ。
世界最先端の技術、そして世界最大規模の建造物。
記念式典は洋風のパーティー形式にしたので、不慣れな参加者はみんなプチパニックだと聞いている。
そんな最新鋭の無線塔が早速大活躍をしたのは、それから2年後の1923年のことだ。
1923年9月1日、東京大震災発生。
これに伴うSOSを発信したのが、この原町無線塔だ。
Conflagration subsequent to severe earthquak at Yokohama at noon today.
Whole city practically ablaze with namerous casualties.All traffic stopped.
本日正午横浜において大地震に次いで大火災起こり、全市ほとんど猛火の中にあり、死傷算なく、すべての交通通信機関途絶した。
これを受けたアメリカが、世界中に関東大震災発生をさらに展開。
世界中が「日本を助けろ!日本の首都がヤバい!」と一致団結したのだ。
もしこの原町無線塔の完成が数年遅かったら、どうなっただろう?
無線塔が首都圏にあったら、どうなっただろう?
100年近くが経った今ではほとんど話題にもならないし、僕も知ったのは東日本大震災前後だったのだが、原町無線塔は日本の危機を救うために真っ先に動いたのだ。
ぶっちゃけ言うと、それ以降の活躍はそこまでではなかった。
無線の短波や長波の話になっちゃうと複雑すぎて僕もダウンしてしまうので辞めておくが、とりあえず無線技術が進んだのだ。
そして、わざわざ通信をするのに原町無線塔みたいな大げさな施設は不要となったのだ。
完成からわずか10年で、原町無線塔はその役目を終える。
でも、確かに最初の10年は世界最新だったし、関東大震災でも活躍した。
なにより南相馬の人々にとっての誇りだしシンボルだ。
無線塔はそのまま残されることになった。
漁師さんなんかは、沖合から見えるこの無線塔が重要なランドマークになったそうだよ。
だが、どんな建造物の命も永遠ではない。
1982年のことだ。老朽化により原町無線塔は解体されることとなる。
もうコンクリート片がボロボロと崩れてきていて、大変にキケンだったそうなのだ。
南相馬の人はかなり残念がったそうだが、これ以上はマジにヤバい。
惜しまれつつも解体された。
だがしかし、やっぱみんなあの勇姿を忘れられないのだ。
解体からわずか5ヶ月後、アイツが誕生する。
憶・原町無線塔だ。
10分の1スケールで、高さは約20mだ。
まぁちょっと小さいけどさ、南相馬の人たちにとっての大事な存在であることは、ここまでの経緯で充分すぎるほどに理解できる。
そのミニチュア無線塔を、東日本大震災の復興ボランティア時に僕は見に行ったのだ。
その後も数回見に行っている。
せっかく縁があって南相馬でボランティアをしたのだ。
もっと南相馬のことを知ろうとした。
そのとき、関東大震災・東日本大震災と巨大な2つの震災と密接に繋がったというこの町の歴史は無視できなかったのだ。
なので、冒頭に示した通り当時の写真を入手した。
南相馬市博物館さん、震災10年目のあれやこれやで忙しい中、資料ご提供いただきありがとうございます。
そして、3月に写真いただいたのに記事の執筆が12月になってしまって申し訳ないです。
無線塔の痕跡を探せ
東日本大震災から10年目となる2021年3月上旬。
僕は再び南相馬市を訪れていた。
ゆっくりと街中を見るのは本当に久しぶりだ。
あの頃にボランティアした地域が10年経ってどのようになったのか、見に来たのだ。
その詳細は、興味がある方は以下からご覧いただきたい。
さて、今回の目的はもう1つある。
それは原町無線塔の名残を見ることだ。
憶・原町無線塔だけではなく、市内にはもう2箇所、かつての無線塔の名残を確認できるスポットがある。
今まで何度も南相馬に来ていながら、それらを未訪問だったのだ。この機会にアプローチせねば。
無線塔跡花時計
道の駅南相馬だ。
今までスルーしていて恐縮だが、実はこの道の駅の裏手の公園に、原町無線塔の跡地がある。
うん、原町無線塔が立っていたのは憶・原町無線塔の場所とは違うのだ。
200mくらい離れているのだ。
上の写真、左が愛車で右端が憶・原町無線塔だ。
愛車はここに置いておく。裏の公園までは徒歩3分ほどだし。
いやぁ、うかつだった。
跡地があり、そしてこんなに近くだったとは。何度も南相馬に来ていながら、跡地の存在自体をを知らなかったぜ。
子供がチラホラ遊んでいる、夕暮れの公園だ。
西日がとても眩しい。
この公園内に花時計がある。そこが無線塔の跡地だ。
はい、発見した。
文字通りの、花壇を使った巨大な時計。そして時計は正確に時を刻んでいた。
かつてここに、アジア最大の建造物があったのだ。
そう思うと感慨深い。
ちなみに上の写真、右寄りの枯れ木の背後にちょこっとだけ憶・原町無線塔が見えている。
もうちょっと工夫して、しっかり映り込むように撮影すればよかったな、後悔。
時計の文字盤の背後に回り込むと、『無線塔跡地花時計』っていうプレートが見えた。
あと、近くには原町無線塔について書かれた説明板がある。
内容は大体ここまでの項目で説明してしまったので、記念に説明板の写真だけ掲載しておこうか。
在りし日の原町無線塔の写真が2枚も掲載されているのが大変貴重だな。
あと、無線塔の基底跡は花時計の外周道路だと記載してある。
60mの外周道路、それがかつての無線塔の立地と太さにピッタリ合致するのだ。
そして申し訳ないが、僕はその外周道路を歩いておきながら写真撮影をしなかった。
花時計をもう少し引きで撮影すれば、あなたにも規模感をわかっていただけたのに。
ま、でも現代にはGoogleマップの衛星写真あるからいいよね。
それを見ていただこう。
はい、これでバッチリだね。
これが原町無線塔の痕跡だ。
南相馬市博物館
まだ僕には明るいうちに行きたい場所がある。
道の駅から車で10数分の、南相馬市博物館にやってきた。
博物館なのにメッチャ森の中でビビった。
なんか大きな森林公園の中に博物館があるらしい。
既に太陽は山の陰に隠れ、すごく寒い林の中を1人でトボトボ歩いた。
ほとんど人もおらず、2人の犬の散歩の人とすれ違っただけだ。心が折れそうになった。
そんな中で、僕を元気づけてくれたのはこのSLだ。
かっこいいー!って思った。
まぁこのSLが出てくる頃には、もう目的地は近いんだけどな。ここまでが大変だった。
さて、僕が何を目指しているのか。
それは博物館の正面玄関に展示してある、かつての原町無線塔の一部だ。
40年前に解体された無線塔のパーツ、まだあるのだ。
博物館前にやって来た。
僕、博物館のすっごい裏手から歩いてきたようだ。
正面アプローチであれば、もっと近くに駐車場があったり、あまり歩かずにここまで来れたんじゃないかな?まぁいいけど。
そして博物館はもう営業時間終了している。
これも知っていた。
ちなみに以前は原町無線塔特集みたいな展示をしていたこともあったそうだ。その頃に訪問してみたかったものだな。
…で、これが原町無線塔のパーツだ。
パッと見、なにがなんだかわからない。じっくり見てもわからない。
これは無線塔の頭頂部に設置されていた滑車なのだそうだ。
何のための滑車かというと、無線塔の周囲に設置されていた副柱といわれるたくさんの柱とワイヤーで結ぶための滑車だ。
…といってもわかりづらいだろうから、絵を描いてみよう。
無線塔の周囲に18本、高さ60mの副柱。
そして中央の無線塔とワイヤーで蜘蛛の巣のように繋ぐ。これが無線通信を行う真の姿だ。
ヤバいレベルのスケールだな、これ。
これらが全て揃った状態を見たことがある人は、今はもう90歳過ぎであろう。
「かつての無線塔を見たことがある」という方も、副柱がなくなり支えるべき対象の無い主塔の姿なのだ。
そんな90年以上も前のワイヤーを支えていた、主塔の頭頂部の滑車がこれなのだ。
まさに心臓部だったのではないかな。
これを見れて感無量だよ。
そっと触れてみた。
「かつての栄華を少し感じ取れた」とか言えればカッコいいが、普通に冷たくてザリザリに錆びた鉄塊だった。
でも、嬉しかった。
光の中に蘇る無線塔
最後にもう1箇所行きたい場所がある。
愛車の日産パオに乗り、夕闇の中を走らせて沿岸部に向かった。
上記は道の駅で撮影したポスターだ。
概要をご説明しよう。
前述の通り、原町無線塔が出来てから今年(2021年)はちょうど100年だ。
町のシンボルであったあの無線塔を、光で再現しようじゃないか。
そして震災から10年目の3月。
鎮魂と再生への願いも込めて、空を照らすのだ。
…って感じのエピソード。
これ、行くしかないだろ。
場所を変えつつ3月は5回行われる。そのうち1回が、今日これから始まるのだ。
本日の"のモニュメント"の会場、「泉十一面観音」ってところにやってきた。
「ホントにこんなところでやるのか?」ってくらいに郊外で真っ暗で、そして誰もいなかった。
境内を正面から覗いても真っ暗なので、絶対に場所を間違えたって思った。
念のため敷地の脇からも覗いて見たら、なんか境内に続く階段が明るかった。
こっちか?
光の灯る階段に導かれるように、僕は登って行った。
すると、ちょうど作業員の人が上空を照らす巨大なライトにスイッチを入れたところであった。
ポスターには18:30開始と書かれていたが、実際は18:00だった。
よかった。実はこの後も行くべき場所があり、あまり長居ができないのだ。
早めに点灯してくれて感謝だ。
徐々に暗くなりゆく空を、青い光が照らしている。
作業員の人は1人で寂しそうに作業をしていたんだけど、2つのライトを点灯させると「完了」みたいな連絡をして去って行った。
…あれ?
そうなの?これが完成形なの??
2本?ライトは2本!?
なんかもうちょっとほしい欲望に駆られた。
震災10年目の節目のイベントだし、原町無線塔完成から100年目のイベントだから、もっとダイナミックで荘厳で、人々が集まるようなのを想像していた。
歓声とかも上がるかと思っていた。
実際は、暗い境内に作業員さん1人と僕だけだ。
歓声上げようがない。
むしろなんかお互い気を使って軽く会釈をするとかその程度であった。
さっきのポスターからの抜粋だ。
空を照らすイベント自体は2017年からやっているそうだ。
上の写真では、何本もの強い光が遥か上空を照らしている。
まさに原町無線塔のようだ。
しかし僕の目の前のこれは…。
短いな。20m行くか行かないか、かな?
規模的には憶・原町無線塔だ。
そして写真はうまく撮ったけど、なかなかに光量が控えめだ。
100m離れたら存在に気付かないかもしれない。
周囲には誰もいないので、興味本位で光源に近づいてみた。
SF感満載のサイバーな感じの光を静かに放出していた。
なんかカッコイイ…!って思った。
*-*-*-*-*-
…ま、いっか。
思ったほどの規模ではなかった。
複数回行う光のモニュメントの中では、小規模な部類だったのかもしれない。
しかし、僕の中には物語がある。
今日こうして南相馬に戻って来れたこと。原町無線塔ゆかりの場所を巡れたこと。
そしてその締めくくりにこんなイベントを見れたこと。
…そう考えれば最高じゃないか。
ありがとう。
僕にはちゃんと、光の先に原町無線塔が見えている。
そしてまだまだ道のりは途中だけど、復興が進む南相馬も見ることができた。
憶(読み)オク
心にとどめて忘れない。「記憶」
南相馬よ、またいつか!
この10年のことを、僕はいつまでも忘れない。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報