いやー、どうしたもんだろう、これは…。
薩摩半島のほぼ突端に近い場所の、 とあるジャングルの中。
僕はそこを彷徨っていた。
360度、緑ばかりのその世界観に酔う。
あなたは、「なぜYAMAのヤツはそんなジャングルの中にいるのだろう?」と考えているに違いない。
うん、同じことを僕も考えている。そして困っている。
ほんの20分前までこんなつもりじゃなかったのに、僕は何をやっているんだろう。
こんなところで、サンダルで。
物語を20数分さかのぼろう。
骨粉水車にいざなわれ
薩摩半島の南端を、指宿市から枕崎市に向かって国道226号で走る。
すると以下のような光景に遭遇するはずだ。
左側の案内看板に着目してほしい。
『骨粉水車跡 ⇒ 0.7km』
車での0.7㎞とは、スイスイ走れば1分にも満たない距離である。
これといったプランもない、車中泊の1人旅であれば、フラリと立ち寄ってみてもいいかなって思う気持ちを、ご理解いただきたい。
僕は、こんな光景を思い浮かべた。
のどかな田園に回る水車。旅先でこんな風景を見られたら、素敵だなーと。
※上記は、僕が茨城県の「霞ヶ浦」で撮影した、三連水車である。
しかし、この時点で大きな過ちをしていることに、僕はまだ気付いていない。
運転中の一瞬の判断だったので「骨粉水車跡」の"跡"の文字を見落としていたのだ。
"跡"ってことは、現存していないという可能性を、全く考えていなかったのだ…。
さぁ、物語は奈落へとまっしぐらだ。
さっきお見せした、Googleストリートビューからわずか700m足らずでこれだよ。
なんだかワイルドになっちまったよ。
しかし、前方に鳥居と変なオブジェが見えてきた。
目的地は近いと判断した。
…だが、こんなミステリアスで鬱蒼としたところに、水車なんてあるのか?
関係ないが、写真の左下に見切れている、カーナビの画面に気付いたあなたは鋭い。
鹿児島を走行しているはずなのに、ナビ画面は東京日本橋だ。
これ、ネタバラシしてしまうと西日本のデータが一切ないカーナビで旅をしている。
日本4周目は、そういう旅であった。
ま、日本2周目や3周目もカーナビなかったから、そのくらいはどうってことない。
旅の行程に間違いなんてないさ。僕が進む方向が正解だ。
鳥居近辺の空き地に車を停めた。
そしてオブジェを見てみると、その台座部分に骨粉水車の説明が記載されている。
これは結構重要な情報なので、以下にその内容を書き出そう。
安永5、6年(1776.77)に仲覚兵衛が獣骨による骨粉肥料を発見以来、知覧町内にはここ中渡瀬・松ヶ浦・東塩屋・飯野などに骨粉を作る建しっ小屋が造られました。
関西・中国方面からイサバ船で運んできた獣骨・鯨骨を水車の動力を利用して砕きました。
江戸時代(弘化4年・1844)には薩摩藩直営の骨粉配給所である山建会所(豊民館)が西塩屋に造られ、菜種・水稲などの増産に大いに貢献しました。
また知覧における水車動力の利用は、製鉄・金銀の精錬・豊玉姫神社の水車からくり・精米用と江戸時代から幅広く、興味深いものがあります。
中渡瀬の水車は、加治佐川の知覧町側川岸に造られ、上流の堰(せき)から水を引き、水車の後方に水路がめぐる下掛け式でした。
昭和10年頃まで骨粉用として使われ、その後砂糖黍(きび)にも使用されましたが、いつごろ造られたかははっきりしません。
一番川下の水車のすぐ下にももう一基堰があり、そこに船をつけていました。
この情報は、あとあと非常に重要にはなるが、今すぐは不要。
まずは骨粉水車を見に行こう!
画質が粗いが、オブジェの台座の側面をよーく見てほしい。
『⇒ 中渡瀬骨粉水車跡』と書かれている。
ここまでは「骨粉水車跡」としか表記されていなかったが、正式名称は「中渡瀬骨粉水車跡」というのだな、了解!
…てゆーか、「⇒」って何さ。
見たところ、ただ木々が生い茂っているようにしか見えないが…。
おぉ、よく見たら「トトロのトンネル」みたいのがある!
かろうじて歩道みたいなものがある!
行こう、中渡瀬骨粉水車!!
ジャングル攻略
獣道みたいな踏み跡を順調に歩けていたのは、ほんのわずかな時間であった。
もうね、前方に不穏しか感じない。
縦横無尽に行く手を防ぐ竹、えげつなくない??
僕を阻む気、100%だ。
敵の本拠地のレーザートラップか。いや、バンブートラップか。
そして僕はスパイか。
とりあえず、映画「マトリックス」の弾丸を避けるシーンのような、懐かしい動きでこのセキュリティフロアを突破した。
竹が無数の流星のような軌道で降り注いできている。
それに、足元にもう土が見えない。草が生い茂っている。道はどこだ。
失敗したな。僕はサンダルでここに来てしまった。
冒頭の通り、国道からほんの700mのところに水車があると判断してきただけなのだ。
だが、浅はかだった。
なんたる誤算。
とはいえ、ここで諦めるわけにはいかない。
このあたりで、目的地は中渡瀬骨粉水車跡だから、水車は無いであろうことにも気付いた。
それでも、諦めるわけにはいかない。
ハァハァハァ…。
なんだこれ?
行けども行けども、襲い掛かってくる敵の軍勢…。
これさ、写真で見ているよりも実際は数倍ツラいのだよ。
木々を避けたところで、そこにはクモの巣が広がっている。
クモも人間の顔面なんて捕獲するつもりはなかっただろうけど、僕は盛大に頭突きをしてしまい、気分最悪よ。
それに、足の踏み場がない。
止むを得ず、木を踏みつけながら進むんだけど、思った以上に朽ちていて、バキッと折れるんだ。
そしてバランスを崩してコケること、2回。
腕をすりむいて痛い。
足も痛い。
サンダルで来るところではない。
あー、もう最悪だ。
緑の海原で溺れてている、僕。
草は朝露なのかなんなのかでビショビショだし、この熱気と運動量で僕も汗だくだし。
朝一からドロドロだわ。
てゆーか道、どっちだーー!!
「中渡瀬骨粉水車 →」と書かれた看板が出てきた。
一応、ここまでの道のりは正解らしい。
こんな正解、あってたまるか。
行く先をよくよく確認すると、この立て札のところで道はカーブしているのだな。
立て札を見逃さなくってよかった。
まだ水車は先のような気配だ。試練は終わらない。
…急にちょっとだけ開けた。不思議空間。
緑の陽だまりだ。
一面、膝よりも高い草で埋まっており、朝露グッチョリであり、写真以上に迷惑なタイプの陽だまり。
それで、どっちに行けと??
とりあえず、不思議空間の対角線上に向かってみるか。
僕の中で、何かがキレた。
ジャマだーーー!!!
監獄の鉄格子のような、その太い竹の隙間を、身をよじりながら抜ける。
両腕で力いっぱい空間を作り、牢を脱走する怪物のように突き進む。
既に倒れている茶色くなった竹は、押しのけたりもできるが、手刀で粉砕したりもした。
ウオォォーー!!
僕の中で、殺意の波動が目覚めようとしている。
待て。
さすがにちょっとオマエ、落ち着け。
目前に現れた尋常じゃない密林が、僕の理性を再び呼び戻した。
僕はたぶんだけど、ここまで白目を剥いて口から泡を飛ばし、破壊衝動のままに突き進んでいた。
しかしここで目に色が戻った。ダークサイドに堕ちずに済んだ。
呼吸を落ち着ける。
ズレていた眼鏡を、クイッと元に戻す。
…この密度の森は、さすがに突破ムリ。シャレにならない。
振り返って考えると、さっきの陽だまりの不思議空間から道は完全に消失しているのだ。
方向を間違っている可能性も否めない。
一度戻ろう。
陽だまりの不思議空間の直前に立て札があったのだから、あのあたりまではきっと道は合っていたのだ。
不思議空間まで戻ってきた。
ここで頭を冷やして考える。
『骨粉水車跡 ⇒ 0.7km』
国道にあったあの標識が懐かしい。
あそこからオブジェまでおよそ700mだったと考える。
にもかかわらず、僕はこの道なき道を400mは歩いていると考える。
…どういうこった。
少なくとも、そもそもあの標識の『0.7㎞』は間違いだ。
オブジェまでの距離を示しているのだろう。
では、本当の骨粉水車跡までの距離は…?
まぁでもここからさほどは遠くないと推測する。
道がないのであれば、道は自分で考えて作り出さなければならない。
オブジェの説明板。
あの写真を再び確認してみた。
中渡瀬の水車は、加治佐川の知覧町側川岸に造られ…
やっぱ、水車があるのは川や水路だよな。
じゃあ、水車を回せるような動力を確保できる、川があるのはどこなのか?
少なくとも、ここよりも標高が低い部分だろうな。
谷側を意識しつつ、周辺調査をしよう。
ガサゴソ…
ガサゴソ…
ん…??
加治佐川と遺構
下へ下へと探りを入れていたら、人工的なものが目に入った。
あれはなんだ??
もしかして、あれは水車小屋の跡だったり?
よくわからないが、建物があるということは、道があるということ。
僕から見て谷側にあるので、川に関係のあるなんらかの施設跡かもしれない。
とりあえず、あそこに行こう。
おぉ、茂みの中に階段を発見!
階段とお呼びして良いのか、わからないくらいに朽ちていらっしゃるが。
「あの建物まで行く道があるはず」という視点で探したからこそ、見つけられた階段。
そのくらい、茂みに埋没していたよ。
階段を慎重に下りていく…。
すると、川が見えた!!ついにチラリと見えた!!
しかし、ちょっとそっちは後回しだ。
まずはナゾの建物を確認するぞ。
あー…。
何もないよりかはマシだけど、これは水車小屋ではない。
まずは立地がおかしい。
川に近いとはいえ、やや離れた斜面に建っている。
次に、コンクリ素材だ。
さっきの案内板によると水車は昭和10年(1935年)くらいまで使用されたようだが、そうなると最低でも水車小屋は80年ほどは経過しているはず。
それでこれは、ありえないな…。
たぶん、これは30年ものくらいの廃墟だ。
昭和初期の水車小屋なんて、基本は木造のはずだよな?
当時のコンクリ造りなんて、国家レベルの要塞とかでしょ?
民間でコンクリートライフをエンジョイできるのは、栄華を極めた長崎の「軍艦島」とかくらいでは?
明後日に行く予定なのだが、軍艦島にある日本最古の鉄筋コンクリートマンションの「30号棟」が、大正5年の1916年製だ。
あのボロさと比べても、ここのコンクリは綺麗すぎる。
水車小屋ごときにコンクリなんて高セキュリティなものを使っていたら、中で作っているのは国家機密の軍事兵器とかになっちゃうよね?
カニに導かれ、川岸に降りた。
うわっ、すごい量のカニ。
カニ天国。
ウジャウジャと気持ち悪いくらいにいるわ。
そして…。
川ーーー!!
メチャクチャ綺麗!!
まさに秘境っていう感じ!!
その川の左右の岸が、コンクリで固められている。
さらにそのちょっと先には、コンクリの擁壁がある。
うーむ。これは前述の通り、水車時代のものではないような気がするが…。
さらに周囲を探索してみる。
石垣発見!!!
これは、 確実に江戸時代のものだろう。
水車となんらかの関係がある遺構だと判断した。
しかし、何の知識も持たない僕が見つけられたのはここまでだ。
なによりね、もうドロドロのヘロヘロだし、「歩いて一瞬だろう」と思っていたから手ぶらで水すら持ってきていない。
喉が乾いた。生命維持のためにも帰る。
こうして、僕はまたズッコケたりクモの巣に絡まったりしながら愛車のもとへと戻った。
そして、どん詰まりに停めた愛車をヒーヒー死にそうになりながら4回切り返してターンさせ、中渡瀬集落を後にする。
さらば、謎多き骨粉水車跡よ!!
※ ここで酷使した愛用のサンダルは、この4時間後にちぎれて崩壊した。水車探索時ではなくて良かったと共に、サンダルのご冥福をお祈り申し上げる。
わずかな情報を追い求め
さて、中渡瀬骨粉水車跡には行ったものの、いまいちイメージは掴めなかった。
- 骨粉水車とは、どのような水車なのだろうか?
- あのコンクリートの建物はなんだったのだろうか?
- なんであんな凶悪なアプローチルートなのだろうか?
せっかく苦労してアプローチしたのだ。
謎を解決させたい。…例え何年かかっても。
まずは、実際にあそこを訪れた観光客の情報を得ようとした。
あー、なるほどなるほど。
これだけWebに情報が溢れかえり、誰もがTwitterで気軽に呟くこの令和時代において、「約9件」ね。
幼稚園児でも数えられる数量に「約」をつけて、ふんわりとした表現にしてらっしゃる。
ちょっとだけ時間をさかのぼり、2年前現在くらいな情報にてご紹介をすると…。
僕の調べた限り、一般人で現地訪問し、それをWebで公開したのは3名。
- 現地を訪問したが、途中のヤブでリタイア(Webサイト現存)
- 現地を訪問し、コンクリートの建物に到達(Yahooブログ使用であったため、2019年12月のサービス終了と共にWebサイト消滅)
- 同上(Yahooジオシティーズ使用であったため、2019年3月のサービス終了と共にWebサイト消滅)
なんという貧弱な品揃えなのだよ…。
ちなみに上記「3」は、こんな感じだったのだがね。
※知る人ぞ知る、「日本走覇」だ。
とりあえず、どれも共通しているのは前述の僕の謎を解決できるような情報は掲載されていないということ。残念。
ところで、検索結果は「9件」であった。
残りはというと、学会で調査記録を発表したという事実が紹介されているだけだったり。
もしくは、「国立国会図書館」内にその調査記録が保管されているという情報だったり。
うーん、国会図書館から情報をもらうのも、いろいろ面倒だしなぁー…。
どうしようかな…。
まぁこのあとなんやかんやあるのだが、現地の発掘調査をし、考古学会での発表や国会図書館登録書籍に携わった、知覧町の学芸員の方へ取材させていただくことができた。
イェイ!!
ガチで第一人者の専門家の方から情報いただけて、感謝です!!
紐解かれる中渡瀬骨粉水車
…というわけで2020年8月初旬、僕の中で長年の謎であった事象が、ようやく紐解かれることになった。
ご担当いただいた学芸員の方、あえてお名前はここには記載しないが、Web上で調べてみたところ、様々なご活躍されている方。
そんなお忙しい中、素人の旅人にいろいろご丁寧にご教示いただき、恐悦至極。
コンクリ小屋の謎
僕が見つけた、あのコンクリートの廃墟。
まずはサクッとその正体をご説明する。
あれは、やはり極めて近代のもので、考古学の対象とはならないものだそうだ。
学芸員の方によると、「川から水路に引いたポンプ機械が設置されていた建物のようだ」とのことで、明確な用途は不明。
しかし少なくとも、学芸員の方の食指が動かなかった時点で、当時の中渡瀬骨粉水車と関係が深いものではなさそうだ。
骨粉水車の成り立ち
「骨粉水車」という言葉を聞いたことがある人は稀だと思う。
調べてみると、鹿児島県の中でも南九州市、さらにその中でも知覧町を中心とした数箇所のみに存在していたようなのだ。
2016年の九州大学による研究文書内には、「国内唯一の獣骨生産遺跡」と表記してあった。
調査研究にあたっては、今回僕にご教示いただいた学芸員の方の所属団体が協力しているそうなので、この表記は事実なのであろう。
そのくらいレアってことね。
では、いつどうやって骨粉水車が生まれたのか、僕のつたない文章と知識でお伝えしたい。
冒頭に戻り、国道226号走行中に僕が見かけた標識。
「⇐ 仲覚兵衛誕生の地」という表記が見える。
「仲 覚兵衛(なか かくべえ)」。彼こそが、骨粉水車を語る上でのキーパーソンだ。
彼は、海運業を営む家に生まれ、自らも海運業に携わった。
日本各地、いろんなところを船で回っていたのだが、西暦1772年からしばらく大阪に滞在しているとき、すごいことを発見してしまうのだ。
「馬や牛の骨が捨ててある場所って、なんかやたらと草が伸びてね??」
ここから、彼による一大ビジネスがスタートする。
西日本全域から船で牛や馬の骨を集め、そんでわずかだけどもクジラの骨とかも集め、砕いて肥料にする。
これが、彼の屋敷跡から出土した獣骨だ。
ほとんど馬や牛。人骨ではないぞ。仲覚兵衛さんは、そういう法的にバイオレンスな人じゃないから。
「大島てる」とかにエントリーされたりしないから。
もともと九州って火山灰が多く堆積する「シラス台地」っていう、やせた土壌だった。
しかしこの仲覚兵衛さんの獣骨の肥料のおかげで、「となりのトトロ」のワンシーンみたいに作物がギュンギュン成長し、特に菜種(菜種油の原料ね)が特産物となるくらいに発展しだそうだ。
そんでこれがオブジェの説明版にも登場していた、「イサバ船」。
当時、覚兵衛さんは牛馬の死骸ばっか運んでいたので、「あの人の船、マジくっせぇんですけど?一緒の場所に船とか停めてほしくないんですけど?」とか、思春期の娘を持つ父親のような扱いもされたそうだ。
そんなふうに後ろ指を指されつつも、他者が見向きもしないものをビジネス化して大成功を収めた覚兵衛さん。きわめて有能な実業家である。
さぁ、ここで登場するのが骨粉水車だ。
西日本から集めた獣骨。肥料にするには細かく粉砕する必要がある。
川に水車を設置すれば、水車の動力で粉砕できる。
しかも、西日本からの旅を終えた船がそのまま川に横付けできて、輸送もスムーズ。
そんなわけで、ここ知覧の数箇所に骨粉水車が造られた。
骨粉水車を想像する
僕はもどかしい。
現地を訪問し、そして今回もこれだけの情報をいただきながら、かんじんの骨粉水車がどのようなものなのか、イメージ画像がないのだ。
当時の文献にもないようだし、発掘チームや研究者による想像図も見た限りは、ほぼ皆無。
冒頭で記載の通り、僕は水車自体に興味があったのだ。
手掛かりは、おそらく上の写真の範囲から想像するのみ。
石垣の横にある溝。
これが水車の水輪が描く回転の軌跡だ。
つまり…
この赤い溝の部分が…
水輪と岸壁の接触面。
この軌跡から、水輪の直径を割り出すことができる。
そのサイズ、実に5.1mと推定されている。
なかなかにビッグ・スケールじゃないか。
2階の屋根を越えるくらいの高さじゃなかろうか。
さらに、水車立地の周辺も見てみよう。
あぁ、これを見てようやくオブジェの台座の説明版の意味がわかってきた。
上流の堰(せき)から水を引き、水車の後方に水路がめぐる下掛け式でした。
(中略 )
一番川下の水車のすぐ下にももう一基堰があり、そこに船をつけていました。
上の遺構の配置図を、自分自身わかりやすいように、少し手を加えてみた。
作成にあたっての留意点は、以下の通りだ。
- 「水車③」の痕跡は発見されていないが、水路跡はあるため、水車もあったのではないかと推測。
- 「堰C」はいただいた資料には明確に堰である旨の記載はない。しかし、なんらか川を横断する遺構が描かれていたことと、オブジェ台座の説明版に『一番川下の水車のすぐ下にももう一基堰があり』と書かれていたことから、これは堰であると判断。
- いただいた資料には『4×4mの建物が二棟あった』と書かれているが、場所が明示されていないので割愛。
よりイメージしやすいよう、デフォルメを加えつつ、立体的に描いてみよう。
はい、僕の画力では、これが限界。
堰も1つ少なくしちゃったけど、これでイメージがついたら嬉しく思う。
こうやって、水路からの水流で、水車を回して骨粉を砕いていたんだなぁ。
アプローチルート崩壊
最後の謎に迫ろう。
なんで水車跡への道が、あんなに荒れ果てていたのか。
- 1935年ごろ… 水車の歴史が幕を閉じる(産業の近代化など?)
- その後、獣骨肥料や骨粉水車が、人々の記憶からも消える
- 2004年… 今回担当してくれた学芸員の方や、文化財研究所の教授、奈良教育大学の人々にて、骨粉水車跡を発掘調査する
- 2006年… 調査の成果を「第72回日本考古学協会」で発表する
- 2009年… 日本財団の助成にて、「ミュージアム知覧」で「獣骨を運んだ仲覚兵衛と薩南の浦々」の企画展を開催する。
たぶんだけど、あのアプローチルートが正常に機能していたのは、2005年ごろから2010年ごろまでじゃないかな、と推測する。
国道に『骨粉水車跡 ⇒ 0.7km』の標識が設置されたときが黄金期だったんじゃないかな、と思う。
Googleマップの過去のストリートビューで設置タイミングを調べようとしたのだが、残念ながら一番古い映像が2012年だったので、これは調べられなかった。
ここは中渡瀬集落の所有地&個人所有地なんだって。
以前は地元で定期的な整備もしていたんだけど、地元の人々が高齢化し、そして市も整備の手を止めてしまい、荒れてしまったのだそうだ。
学芸員の方は、最後に僕にこう語る。
「中渡瀬骨粉水車や、この近所にある「仲覚兵衛の住居跡」は、県内でも貴重な近世~近代にかけての産業遺跡。
せめて現地を見学できるように整備をしたい。
役場や地元に動いてもらうべく努力をしたいと考えている。」
中渡瀬骨粉水車…。
もし道が整備されていたら、もし現地に水車が復元されていたら。
僕はここまで興味を持ち、ここまで調査をしただろうか…?
答えは、否。
おそらくは写真を1・2枚撮り、すぐに立ち去っていただろう。
記録には残っても、記憶に残らないスポットであったろう。
泥とクモの巣にまみれながら、苦労して現地にたどり着いた。
ほとんどない情報を自分から積極的に取りに奔走した。
そんな経験をさせてくれた中渡瀬骨粉水車は、僕にとっては忘れられないスポットとなった。
そしていつの日か、ちゃんと市が整備をしてくれるかもしれない。
水車を復元してくれる日が、来るのかもしれない。
そう考えるだけで、鹿児島に行く楽しみがまた増えるじゃないか。
ありがとう、中渡瀬骨粉水車。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報