女将さんが亡くなり2022年廃業となった。
現在は外観は見ることができるものの、中に入ることはできない。あの激渋な建物内部、特徴的なY字階段、吹き抜け部分の空中回廊…。
あのドキドキワクワクする空間に、僕らはまたいつか足を踏み入れることができるのだろうか…。
これは世の中にコロナが蔓延するほんの少し前の年始、僕が新むつ旅館に宿泊した物語である。
手を伸ばしてももう届かない思い出、この折に聞いてはくれまいか。
美しきY字階段と空中回廊
日本6周目、刺すような寒さに凍えながら、僕は新むつ旅館に到着した。
ちょうど日が暮れ、あたりが暗くなってきた時間帯であった。
泊まれる元遊郭。僕はこの日を楽しみにしてきた。
明治時代に建てられたというこの激渋な建物は、(訪問当時)80歳になる女将さんが営んでいる旅館である。
歴史的建造物に泊まれることに僕は興奮を隠しきれない。
暗い街の中、旅館の中からふんわりと温かい光が漏れている。ガラリと引き戸を開けると女将さんが「寒かったでしょう」と迎え入れてくれた。
これは翌朝撮影したものだが、玄関に足を踏み入れたときの光景がこれだ。
奥のメインホール右手にY字階段の最下部が見えている。あぁなるほど、あのY字階段は横向きで設置されているのね。
そしてホールに石油ストーブが最低2つ設置されているのも目に入った。1月の青森、しかも断熱材などない明治時代の建物はとても寒いのだ。
しかし夢にまで見たこの光景に興奮し、カバンを握る手に汗がにじんだわ。
少しだけ足を踏み入れた。2階の吹き抜けがよくわかる位置だ。
右手頭上には空中に渡り廊下が設置されている。Y字階段とこの空中回廊がこの旅館の何よりの特徴であり、洋風のデザインも意識つつ造られたというこれらのセンスが最高だ。
実際は女将の案内で一度お部屋に入って荷物を置き、そのあと許可をいただいて各所を見学したのだが、そういうのは割愛してすぐにY字階段の正面に回った写真をお見せしようぞ。
Y 字 階 段 !!
すごくいい!この良さを言葉で表現できないことが悔しい。なんて美しい造形なのだろう。
ちなみに僕が想像していたよりも規模は小さめで、身長のある人は階段を降りる際に頭を下げないと空中回廊にぶつかる。
そしてこの記事で写真は掲載しないけど、チェックアウト前に同行者と一緒に階段に座って写真を撮ったら、かなりぎゅうぎゅうになるほどの幅だった。かなり小柄な人間2人がなんとか座れるくらいの幅なのだ。当然だが100年前の日本人基準で造られたものだからなのだろう。
このY字階段の正面に当たる吹き抜けホールは、天井も高い。その最上部の屋根には天窓が開いている。
今でこそ蛍光灯が昼も夜も明るく照らしてくれるが、明治・大正時代はきっと昼間はこの天窓が活躍したのだろう。周囲をグルリと壁に囲まれてはいるが、頭上からほのかな光がこのY字階段を照らしてくれたに違いない。
Y字階段を登り、空中回廊を眺めてみた。この歴史の重みを感じさせる色合いの廊下と手すりがたまらんじゃないか。何10年と磨かれて、黒光りしているよ。
こんなところに実際に宿泊できるんだぜ。うれしくって回廊を何往復もした。
回廊を回り込んでみた図がこれだ。真下にY字階段正面の玄関ホールを見下ろしている。写真の1階部分右奥に見えているのが玄関だ。
ところでここだけ手すりが竹製なんだね。もしかしたら途中でリノベーションしたのかもしれない。
では、この回廊から客室に入るぞ。
和の魅力が散りばめられた客室
僕の泊まる部屋は七番だと言われた。
部屋の扉の上に将棋の駒のような造形の部屋番号札があり、そこで確認する。これも明治時代当時のものだそうだ。
その下の梁にくっついている黒いものは釘隠しだ。これはどうやら梅を象ったものらしい。遊郭はこういう1つ1つの装飾にいたるまでオシャレだな。
客室に一歩足を踏み入れて、うれしさのあまり「わぁ…↑」という声が漏れた。
二間続きだ。キュンキュン来る空間だ。充分に広い和室はしっかりとストーブで暖められており、ちゃぶ台の下には電気カーペットもありぬくぬくと温かい。
そして布団もさすが北国、重厚だ。あとの話になってしまうが、すっごく温かくって快適に幸せに、に朝を迎えることができたのだよ。
そりゃ僕も一時期は「和室は古臭くてダサい。洋室がいい。」って思っていた時期があったさ。
自宅であればそうかもしれないけど、せっかく旅立ったら日本の文化を深く知りたいと思うんだ。普段できない体験をしてみたいんだ。だから和室の宿、すごくいい…!
それに見てくれ、この床の間を。鶴が咲いている木があるぞ。
女将さんが一羽一羽丁寧に折ったのだそうだ。その他の小物も含め、この空間すべてが芸術品だ。客室にこんなチャーミングで渋い装飾があるなんて、感動の嵐だ。
もう片隅には歴史ある陶器と、あとは何やら書かれた木材がゴチーンと置かれていた。
これは、かつてこの旅館の横に蔵があったんだけど、それを解体した時に出てきたものらしい。ちなみに達筆すぎて僕には解読できない。
ただ、新むつ旅館の公式Webを拝見したところ、明治や大正時代当時の遊郭料や米や酒の値段なども書かれており、当時の情報を知る上で大変貴重なものなのだそうだ。
そんなものが客室に…。これ、本来は資料館とかに置いておくべきレベルの一品なのでは??
右は年季の入った鏡台だ。左は…、何かな?小物入れ?
鏡台も明治時代のものが残っているとのウワサを耳にしている。この写真のものはいつのものなのだろうか?少なくとも僕よりも先輩であろう。骨董品級に違いない。
部屋の中の釘隠しのデザインは折り鶴だ。なんてかわいいデザイン。
たくさんあったものの、長い歴史の中で次々と盗まれて、ただ1つを除き後からレプリカ作成したものなんだって。これは本物かな?レプリカかな?もうどちらも同じようにこの旅館に馴染みきっているのだろう。
部屋の入口とは反対側、つまりは外側は窓になっているわけではない。
障子を開けるとごらんのとおり、窓との間に細い縁側のようなスペースがある。ここを辿っていくと1階に降りるメッチャ急な隠し階段があったりしたのだが、転げ落ちそうなので使用しなかった。
冷気を遮断するためにこうやって2重構造になっているのかな?
客室だけで情報量が多すぎ。僕にとって未知のワクワクがいっぱいだ。
楽しいなぁ。
小物であふれる賑やかな帳場
Y字階段の正面の部屋は帳場だという。
…ん??帳場ってなんだ?聞いたことはあるが自主的に使用したのは生まれて初めてだ。
どうやらホテルのフロント、お店のレジのような役割をするブースのことだそうだ。なるほどなるほど。
ここには家庭的かつ庶民的なテイストも同居していたよ。
ちなみに帳場から眺めるY字階段はこんな感じ。
女将さんが作っている折り紙の細工が華やかだ。そうか、ここは折り紙細工が次々生まれる工場でもあったか。
何がどう魅力的なのか、うまく説明できない。
だけどもちょっとオシャレな親戚のおばあちゃんの家を垣間見ているような気分になり、ほっこりするのだ。忘れていた日本人のDNA。体験すらしたことないけど先祖の代から刻まれてDNAが喜んでいるのかもしれない。
これはなんだろう?たぶん衣桁。着物を掛ける専用のハンガーを衣桁というということを、初めて知った。
それのミニチュア版だろう。人形用とかで制作しているのかな?ゴージャスさが遊郭って感じだ。よく知らないけど。
酸いも甘いも味わってきたような顔をしているタンスたち。
古民家などで飾ってあるのは見たことあるが、普段使いされている様はなかなか目にする機会もないよな。
着物の切れ端をリメイクしたような布で彩られていて綺麗だな。
使われている限り、道具はいきいきする。このタンスたち、まだまだ引退せずに頑張り続けるのだろう。
一番背面の壺のようにくびれたオシャレな棚は何?デザインからして割と最近のものかなって思ったけど、足元を見てなかなかの年代物かもしれないと思い直したけども。
これまたセンスのいい小物でコーディネイトされているのだ。
足元の円形の棚もハイカラだ。埴輪もチョコンと鎮座している。
トトロ?これは和風なミニトトロ??
こんな光景を愛でながら夕食の時間を待った。楽しいひとときであった。
豪勢な食事とブラタモリ
19:00ちょっと前、夕食が出来上がったそうなので食事部屋に向かった。
ちなみに食事前にお風呂は済ませてある。お風呂はリノベーションされていて使いやすく快適だったぞ。
刺身に煮魚に肉野菜炒め、それから小鉢がいくつか。うんうん、それなりに豪華ですな。
女将さんに瓶ビールを頼んだ。飲まねばと。同行者とカンパイとかしていると、女将さんが追加でサンマを滑り込ませてきた。
1人1匹か。急に完食の難易度がUPしたぞ。酒飲みながらこれらを食べきれるのか…!?
僕らの様子をイスに座って眺めている女将さんに「量多いですね…!」って感想を述べると、「せっかくの旅行なんだから足りないって言われないように多めにしているのよ」との回答が返ってきた。
僕も出していただいた食事は残したくないしな。長期戦覚悟で挑もう。
見てくれ、この刺身のツヤツヤ感を。冬の東北の海の幸って、レベル違うからな。
東京でも銀座とか一級のところで食べればこういうのに出会えるだろうけど、近所のスーパーではどう頑張ってもこのレベルのものは食べられないからな。マジで魚の概念変わるぞ。
ゆっくり食べているとTV番組「ブラタモリ」が始まった。番組史上初めての海外ロケであり、女将さんも「すごいねぇ、珍しいねぇ」と言って見入っていた。
女将さんと一緒に感想を述べ合いながら見たブラタモリ、楽しかったなぁ…。
この写真に、女将さんが腰かけていたイスの写真が写り込んでいる。
足腰が弱くなっていた女将さんは、ビール瓶の向こうのあのイスから穏やかな顔で僕らを眺め、そして語らい合ったのだ。
しきりに寒さのことを気にしていたが、大丈夫、部屋もここもすごく暖かかったよ。
でも正直、そこ以外は死ぬほど寒かったけどな。夜のY字階段の間もトイレも、点在するストーブが稼働していたにも関わらず、キンキンに冷え込んでいたな…。
しかしそれも真冬の日本家屋の醍醐味だと思っているよ。
終盤、ドカンと具が盛りだくさんなお味噌汁とモリモリなご飯が出てきた。
ギリッギリで完食できた。食べ終わったらもう20:30だったよ。そのあとは部屋でゆっくりとお茶を飲んですごした。
…ちなみに翌朝なのだが、ちゃんとここでご飯を食べたのだが写真を撮らなかった。それが今では悔やまれる。
"正しい日本の朝ごはん"みたいな感じの、みんなが思い描く旅館の朝食そのものだったのだが、もうその写真は二度と撮れないのだ。
なので代わりに洗面台の写真でもご紹介しておきますね。
昭和感のあふれる洗面台。昔の民宿だとか、こんな感じだったよね、確か。角の部分がガムテープで補強されているのもよい。国の登録有形文化財ではあるが、まぁ細かいところはガムテープでいいんだよ。人間だもの。
とりあえず最高の食事時間だったのだ。
女将さんはユニークでお話し好きで、ニコニコしながら僕らとずっと話してくれた。あの時間が今となっては愛おしい。
貴重な歴史的資料を垣間見る
1日目の夜と2日目の朝の2回に分けて、Y字階段の間などの共用部分に展示されている貴重な資料類を拝見した。
明治時代にここにいた女性たちの写真などが置かれていた。
…ん?右側の明治の写真に写っている人は女将さんと同じ姓だ。確認すると女将さんは4代目のご主人に嫁いできた人だったらしい。ってことはご主人側の祖先の方なのだろう。
八戸エリアは国内の各所との船便で繋がっているために繁栄しており、その影響もあって最盛期はこの地区には30件以上の遊郭が立ち並び、120人ほどの女性が働いていたのだそうだ。
遊郭の歴史は表舞台にはあまり出てこないだろうし、僕には安易にいいとも悪いとも発言はできかねる。
変わらない建物、少しずつ変わっていく時代。そういうのを旅先で見たり聞いたり感じたりし、結論は出ないけれどもそれを糧に自分の人生を模索していっているよ。
120年。長いようではあるが、思いっきり長生きした人の人生と同じくらいだ。
僕が小さいころに出会った高齢の方は、120年前の光景を見てきた人もいるであろう。そう考えるとすごく昔のこととも思えない。
アルバムに写る女性の顔も、少し親近感を感じてしまう。
明治時代の遊郭帳。つまりはお客さんがどこの誰でどんな特徴がある人で、いついくら支払ったかなど、すべての訪問記録が記載されているすごいノートだ。
これは確かレプリカだよね?数年前までは本物が置かれていて誰でも触れたんだけど、こんな貴重すぎる資料をポンと置いておくのはちょっとヤバいという助言を受けて、れプリカを作成したとのウワサを聞いている。
ふむふむ。中身を見てみた。レプリカであっても記載内容は事実だ。
なので念のため全体にモザイクをかけてみた。どこかの誰かにとってのデスノートになりかねないからな、これ。
明治34年に制作された九谷焼の皿もある。もはや歴史資料館なのだここは。建物も含めてな。
ちなみに僕が普通にムシャムシャとご飯を食べていた食器類も骨董品級のものが多く使われているそうだ。恐ろしい話よ。
『遊郭に泊まる』という書籍。女将さんが得意げに「表紙がウチなのよ。そしてY字階段も見開きで載っているのよ」と教えてくれた。
うん、確か知っている。どこかでこれ、読んだことあったよな…。そして新むつ旅館のことは僕、昔から知っていたのだ。
はぁ…。やっぱスゲーな、プロのカメラマンが撮ると。ため息が出るほどに美しいわ、Y字階段。
いやしかしな、これ重要なんだけど、どんな写真よりもやはり実物がいいんだからな。木のにおい、手すりの冷たい手触り、歩くとかすかにキーキー言う板張り。五感で味わったこの思い出は、ずっと忘れたくないものだよ。
そんな貴重な120年前の建物がこの時代に現存することに感謝。
昭和中期に遊郭から旅館に代わっても、ここを守り続ける女将さんがいることに感謝。
こんな宿に1泊2色で7000円ほどで泊まれるのだ。僕の人生史に残る貴重な体験だ。
資料を見続けていた僕がふと上を仰ぐと、おかめ面が優しく微笑んでいた。
さよなら、泊まれる遊郭「新むつ旅館」
2日目、朝ご飯を食べているとイスに座ってそれを眺めていた女将さんが申し訳なさそうに口を開いた。
「あの…。あなたたちチェックアウトは何時ごろかしら…。実は私は9時ごろにここを出てどんと焼きに行こうと思っていて…。」とのことだった。
「あい、大丈夫です。僕らもそのくらいの時間にはチェックアウトしようと思っているんで。」って答えた。
旅の途中だものな、まだまだ行く場所はたくさんあるし、まだまだたくさん走らねばならないのだ。
「あらそうなのね、安心したわ。まぁ普通にギリギリまでここでくつろいでいってもいいんだけどね。」と女将さんは笑った。しかしちゃんとお礼を言ってチェックアウトしたいのだ。僕らは荷造りを開始する。
新むつ旅館の玄関から通りの奥の方を見る。袋小路だ。そしてここがかつては花街だった名残は見受けられない。
かつて16軒ほどあったという遊郭、不夜城のごとく明かりがつき、人が行き来し、料亭から仕出しが届けられ、人力車が行き交う…。そんな光景はちょっと見受けられないかな…。
違和感のようにたった1軒だけ残った新むつ旅館。しかし残っていること自体が奇跡なのだろう。
一見すると不便なこの袋小路も、表に出しづらい街を隠すのに一役買っていたという…。
最後の荷物の運び出しと、女将さんの外出とが一緒のタイミングだった。
僕は「もうちょっとだけ建物の外観を撮ったら出発しますね」と言った。女将さんは「ごゆっくり、また来てね」とニッコリ笑うと、パタパタと速足でどんと焼きに向かっていった。
さて、僕らももうちょっとしたら車に乗り込んで初詣に行くか…。小さくなっていく女将さんの背中を見ながら、そんなことをつぶやいた。
その後ろ姿が、女将さんを見た最後だったな。
2021年の暮れに女将さんが82歳で亡くなった情報は、僕もすぐにキャッチアップした。
悲しかった。またいつか訪問し、おなかいっぱいご飯を食べながら女将さんとブラタモリを見たかった。
後をを継いでくれる人がいるなら、せめて旅館業でなくっても内部を保存し、時折公開とかしてくれると嬉しい。…が、2024年現在そういう話も聞こえてこない。
国の登録有形文化財だからそのまま手つかずで朽ちていくってことはないだろうが、心配である。
保存してくれればうれしいが、ホントのところ僕がここに価値を見出したのは「保存されているから」ではない。建物が活用され「生きている」から魅力を感じたのだ。
そう考えると、僕がこの先また新むつ旅館を訪問することはあるのだろうか…。
二度と来ないかもしれないけど、絶対忘れない思い出をありがとう。
女将、川上紅美子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
以上、日本7周目を走る旅人YAMAでした。
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