予約の電話のとき、「ウチの宿、ボロボロですけどいいですか?」って聞かれた。
「はい、問題ありません」と答え、無事に予約は完了した。
ちょっとしてから、「んーっと、よかったのかな…?」って自問自答した。
…「那須湯本温泉」には「雲海閣」という温泉宿がある。
立ち寄り湯もできるが、素泊まりで宿泊もできる。
共同炊事場もあるので、自炊することもできる。
そんな湯治みたいな宿泊スタイルに憧れ、僕は単独でこの宿に宿泊してみることにしたのだ。
日本6周目中盤、暑い夏の日のことだった。
ボロボロだっていい。
いや、ボロボロのほうがいい。
1人旅は、思いっきり"詫び寂び"を感じたいじゃない。
渋い宿に宿泊してこそ、人生の渋さにも磨きがかかるのさ!知らんけど!!
プロローグ:買い出し
那須湯本温泉の近くでスーパーに入った。
雲海閣で1泊するにあたっての自炊用の食材を買うためだ。
大学生くらいの男女グループがキャッキャしながら大量の肉を買っていた。
一大レジャースポット、那須でBBQをする確率1000%だ。
チクショウ、いいじゃないか、爆発しやがれって思った。
かたや男女グループできっとオシャレな宿泊施設でBBQ。
かたや僕は1人でこれからボロボロの宿だ。
両者の差はこれからも開くばかりであろう。
その前にささやかな抵抗をしたい。
僕は彼らに負けないサイズのステーキ肉をササッと取り、買い物かごに入れた。
全然予定になかったが、今夜はステーキにしよう。
あまりの暑さに思わず買ってしまったガリガリ君を食べながら、肉と風呂と酒の織り成す今夜の狂宴のことを想像し、ご満悦で温泉街へと車を走らせた。
セルフ・ウェルカムビール
15:00、雲海閣の前に辿り着いた。
那須湯本温泉の他の宿は大抵県道沿いにあるのに、雲海閣はそこから反れた細い坂道を登った先である。
ちょっと迷った末に到着した。
良い。
飾らないこの雰囲気がとても良い。
なんだか屋根とか歪んでいる感じがするのもとても良い。
でもガラス戸に『雲海閣』って書かれていなければ、僕はあの戸を引く勇気がなかったかもしれない。
ちょっと写真の質感をいじってみた。ほれぼれする。
コーナー部分の屋根、一体何枚重なっているんだよ。ミルフィーユかよ。
この屋根を眺めているだけで酒を3杯飲めそうだ。
館内は仄暗い。
言葉を選ばずに言うとすれば、ちょっとホラーテイストだ。
さっきスーパーで見かけた男女グループは太陽の下でBBQの準備を始めているだろうが、僕は仄暗い建物に1人で入りました。
受付で「すみませーん」と何度か小声で読んでいると、宿の人が出てきた。
愛想の良さそうな人で安心した。
お部屋やトイレ、お風呂の位置などを説明してくれた。
しかし館内はダンジョンのように複雑そうなので、ゆっくりじっくり攻略していこうと思う。
なーに、夜は長いのだ。
宿のご主人は、共同炊事場も案内してくれた。
ここもなかなかに薄暗い空間でちょっとワクワクした。
「まぁ一応共同炊事場もありますんでね、もし使いたい…のであればどうぞ。調味料とかもいろいろ置いてあるヤツを使っていただいていいんで。」と控えめに言っていた。
あんまり自炊する人はいないのだろう。
望むところだ。あとでいっぱい活用しよう。
これが僕の部屋である。
メッチャ広い。なんという贅沢な空間。
それなりに年季は入っているが充分に清潔感がある。こりゃいいぞ。
この、旅館とかにある窓際のちんまりしたスペースが好きなのだ。
名前を"広縁"という。
窓の外には緑が広がっている。
もうこれ、飲んだほうがいいのでは?
「ウェルカムドリンクを飲んでほしいわ」って感じの顔をしているぞ、この広縁。
さっきスーパーで購入したビールとおつまみを取り出した。
チェックインからここまで10分。
こういうときだけテキパキしているのだ、僕は。
えっ、仕事のときはどうなのか、だって?知りません、仕事のことなんて。
蒸し暑い猛暑の中でのビールがうまい。
持参した小説を読み、ときどき外の緑を眺めながらビールを飲む。
1人だが、いや1人だからこその採光の贅沢ではなかろうか。
早くも僕はととのった。
ディナーはステーキ
さて、今回は雲海閣の記事なので省略するが、このあと僕は那須湯本の温泉街をブラリと散歩した。
有名な名勝地である「殺生石」を見たり、ここを代表する温泉である「鹿の湯」に入ったり…。
あとは、廃墟温泉として有名すぎる「老松温泉_喜楽旅館」にも入りに行った。
このときの訪問は、喜楽旅館が閉鎖されるほんの数ヶ月前だったのだ。
そのときの詳しい記事は以下のリンクから参照いただきたい。
そんなこんなで、高原と言えども暑い中、2件の湯めぐりをして逆に汗をかいてフラフラしながら雲海閣に戻ってきた。
時間は17:30を少し回っていた。
それでは、汗が引くまでひとやすみしがてら、雲海閣の館内の様子を少々ご紹介しよう。
館内1Fの廊下だ。
温泉成分のせいか、壁紙はところどころハゲている。
これは先ほどリンクを張った喜楽旅館でも顕著だったな。
喜楽旅館は天井も壁も、壁紙どころか板ごとベロンベロンになっていたし、なんだったら建物が端から徐々に倒壊していくことで有名な温泉だったのだ。
閉業してしまったことが残念だ。
さっきは雰囲気を出すために少々加工を加えてしまったが、これは逆のアングルでの無加工の写真。
壁紙にダメージはあるものの、清潔感があることを窺えるであろう。
壁に取り付けられた電話のマークが昭和っぽさを醸してしている。
これは公衆電話がありますよ、っていうマークなのかな?
浴場へと向かう通路には、休憩できるロビースペースがある。
これは立ち寄り湯の人には嬉しいね。
ところでこの旅館最大の目玉である浴場は、まだ先の項目でご紹介するので楽しみに待っていてほしい。
豪華な懐石料理の出てくる旅館もすばらしいが、完全自炊の旅館もまたいいものだ。
腹が減るまで食べる必要はない。
食べたいときに食べたいだけ、好きなものを食べればいいのだ。ラク。
とりあえずお茶。体に染みわたる。
ゴロンと床になり、再び読書をしながら優雅な時間を過ごした。
さぁ夕食にしようぜ!
僕が共同炊事場にやってきたのは18:40だ。
誰もいないので1人で悠々と料理ができる。
でもすごく生活感の溢れる厨房だ。
料理中の人が忽然と消えてしまったかのような厨房。
調味料、スゲーある。なんだったら結構被っている。
いつから置いてあるのか、ペッタペタになってしまっているもある。
ニンニクチューブも相当な年季だが、まぁ死にはしないだろう。
さっきスーパーで買った肉を取り出した。
アメリカ産の牛肩ロースのステーキ用だ。ちょっと固そうな気配だが、お安いのだ。
これでBBQ男女に対抗したのだ。
付け合わせはポテトにしよう。
ステーキ肉を衝動買いする前に、焼きそばとキャベツを買っていた。
もともと焼きそばにしようと思っていた。
もうめんどくさいので両方作るよ。
包丁は刃の部分が綺麗に錆びていて「伝説の人斬りが引退して不殺(ころさず)を誓った証なのかな?」みたいな感じだったが、問題ない。
引きちぎるようにして肉を切るのだ。アメリカ産の肩ロース、筋すっご!
キャベツと焼きそばを炒める。
ちゃんと野菜を炒めてから麵を投入するのが本来の方法だろうが、こっちのほうがキャベツがシャキシャキでうまいのだ。時短にもなるし。
キャベツのいい香りが漂ってきた。たまらん。
たかだか焼きそばを作ることだけに文字数を割いてしまっている。
焼きそばを作るだなんて、全然特別なイベントでもないのに。
しかしだ。
「この旅館の共同炊事場で1人焼きそばを作る」というイベントは特別なのだ。
何気ないアクション1つ1つがドキドキワクワクの特別な時間。
だから旅っていいよね。
食器も食器棚にたくさん用意されている。
大体和物が多くて「ステーキ皿はどこ…?」って少し迷った。
知っている。こういう湯治宿や温泉宿の炊事場ってこうなのだ。
だけどもなんとか大きな平皿を発見できたし、この宿にはナイフやフォークがあってとてもラッキーであった。
ナイフがなければ、海賊のように豪快に肉を嚙みちぎるところだった。
食事は自室だ。
この畳の空間でナイフとフォークを使うというギャップに脳が混乱しそうだが、これが一歩先のオシャレだと思いたい。
ステーキと焼きそばの組み合わせもおかしいかもしれないが、どっちも好きだからこれで正解。
ステーキの筋、かなりクセがあった。
一般的には柔らかくて筋が少ない肉が好まれるが、僕はこういう肉でも好きだ。
野性味あふれる肉のほうが喰っている感が増す。
焼きそばは焦げる一歩手前まで炒めるワイルドスタイル。
BBQのときなんて、大体このくらいまで火が通るもんな。うん、まだBBQを勝手にライバル視している。
宴は静かに、黙々と続いた。
かなりの量を作ってしまったので、1時間くらい食べ続けていた。
誰かとしゃべるわけでもなく、TVを見るわけでもなく、ただただ食と向き合うという貴重な時間が愛おしかった。
窓の外はまだ若干明るく、木立の間からふもとの県道の灯りがボンヤリと見えていた。
さーて食べ疲れたな、ちょっと寝るか…。
インディジョーンズ温泉
むくりと起き上がったのは21:20である。
大事なことを忘れている。雲海閣で温泉に入っていないのだ。
これはよろしくない。
人気ラーメン店に入ってウーロン茶だけ飲んで退店するくらいに王道からズレている。
とりあえず気付けのためにコーヒーを作って飲んだ。
酒を飲んだ後のホットコーヒー、うま。
そしてしっかり休んだ1時間後、いよいよ温泉にアプローチする。
あなたは「いよいよだなんてもったいぶった書き方しやがって。ただ風呂場に行くだけだろう。」とか思っただろう。
雲海閣をナメるなと言いたい。
なんだったら、ここから先を読む前に「インディジョーンズ_魔宮の伝説」でも見てくるといい。
最新作の「運命のダイヤル」も1ヶ月前に公開されているが、あえて魔宮の伝説をな。
先ほどの章で公開したロビーを過ぎ、どんどん廊下を歩くと徐々に暗くなっていき…。
そしてこの地下への階段が口を開ける。
漆黒の世界のスタートだ。
地下牢獄?地下迷宮?とりあえずダンジョンなのである。
こんなところに、タオル片手にプラリと足を踏み込んでしまっていいのか不安になる。
インディジョーンズみたいに冒険できる本格装備じゃなくってよいのだろうか?
1階分くらい階段を降りると…。
どこだここは!!?
僕、今旅館にいたよね?
酔っ払って近くの洞窟に潜り込んだわけではないよね?
暗くて狭くて、天井も頭の上ギリギリくらいの怖い空間だ。
しかも結構長い。廊下の突き当り、どうなんているんだ??
雰囲気を出すために加工したバージョンもUPしておく。
ヒタヒタ歩いてようやく辿り着いた突き当りは壁。
いや、暗がりでよくわからないが右側に直角に折れる道がある。
そちらに行けばいいのか…??
右に進路を変えて歩くと…。
まだ下るのかよ!!
この旅館、平屋じゃなかったのか!?
いや、2階がないのは確実であった。
そんで地下があるのか!?既に1階分は下がっているし、ここから見えるだけでさらに3階分は降下しているぞ。
どうなっているのかよくわからん…。
この階段の途中、右手に浴室が1つある様子だった。
しかし真っ暗で本当に何も見えない。
この時間はやっていないのかな?さらに地下を目指すことにした。
階段を下がりきり、さらに奥へ奥へと歩く。
途中には、かつて客室で使われたような雰囲気の部屋が真っ暗な空間に浮かび上がっていた。
なんだかんだでようやく温泉に辿りついた。
脱衣室に辿り着く直前、そこから出てきた人が「うわぁ!!」と悲鳴を上げた。
まさかこんな場所に自分以外の人間がいるとは思わなかったのだろう。
そういう地下ダンジョンなのだ、ここは。
いや、地下ではないのかもしれない。
上の写真を見てほしいが、窓があるのだ。
ネタバラシをしよう。
冒頭で雲海閣は坂の上にあると書いた。山の斜面に沿って階段が作られており、その麓に温泉のある別棟が建てられているのだ。
とは言ってもドキドキは避けられない行程だ。
硫黄の匂いが強いお湯。
だけどもマイルドな雰囲気で刺激も少なく、心から疲れが嫌さ出そうなお湯だ。
僕は温泉マニアではないので詳しくは書けないが、なによりこのロケーションでお湯に浸かれるだけで最高だったのだ。
こうして僕は最高の一夜を過ごした。
もう1つの温泉とハンバーガー
翌朝、6:30に目を覚ました。
さて、今日の天気はどうだろうか?
うん、すっげぇ霧だった。何も見えない。
それでも僕は共同炊事場に行き、朝から元気に調理をした。
なぜか昨日マフィンを購入していたので、朝マックをイメージしてマフィンのハンバーガーを作ることにした。
タマゴもレタスも挟んだし、ポテトも添えた。
朝マックを越えた…とまでは行かないだろうけど、並んでやった気分だ。
この温泉宿には似つかわしくないメニューだけど、うまかった。
そして食後のコーヒーがおいしかった。
まだチェックアウトまでに1時間以上ある。
昨夜真っ暗で入れなかった、もう1つの温泉に行ってみよう。
明るい時間だからか、あのインディージョーンズ的な洞窟部分以外は特に怖くなくここまで辿り着くことができた。
なるほど、こういう雰囲気の脱衣室入口になっていたのか。
みはらしの湯という名前らしい。
最地下の温泉とは別物で、こっちは色がやや透き通っていてアッサリしている印象。
朝にピッタリの温泉ではないか。
そして名前の通り、窓からの緑が綺麗だった。
名残惜しいがチェックアウトの時間である。
ご主人が遠慮がちに「どうでしたか…?」って聞いてきた。
「温泉、最高でした!」って答えた。
今から思えば、自炊の時間もゴロゴロ読書した時間も最高だったので、もっとそれらを素直に言えばよかったと思う。
ゴメン、ご主人。
那須湯本温泉、雲海閣。
県道から少し離れた場所にあるけれど、第二次世界大戦の空襲のとき、少し離れていたことにより唯一消失しないで現代まで残った貴重な温泉宿。
創業は江戸時代までさかのぼるという。
これはひとことにボロボロだなんて言葉で片付けられないよね。
そんな宿に4500円で宿泊できた。
この一晩の出会いに感謝感謝だ。
外はひどい霧であった。
車を走らせると那須湯本温泉はあっという間に霧に包まれて見えなくなった。
しかし、この思い出は鮮明に、いつまでも…。
以上、日本7周目を走る旅人YAMAでした。