四国本土の最北端。
そこは「竹居観音(たけいかんのん)岬」だ。
「竹居岬」と呼ばれることも多いが、本ブログではこのように呼びたい。
穏やかな瀬戸内海に面した、お寺の境内の浜辺に面した風光明媚な岬。
…少なくとも、2020年現在においてその岬を表現するなら、上記のようなフレーズが良いだろう。
しかし、僕は過去を振り返りたい。
過去、この岬の「四国最北端の碑」の上には、時計があったのだ。
2020年現在はなくなってしまった、時計。
その経緯を知り、受け入れなければ、止まってしまった僕の時計は動き出せない。
前述の「過去を振り返りたい」は後ろ向きに聞こえるかもしれないが、そうではないのだ。
これは過去との決別の旅路だ。
庵治半島を徘徊する
北海道・本州・四国・九州。
日本の本土と言われるこの4つの大きな島、それぞれの東西南北端がある。
詳しくは、僕の書いた以下の【特集】をご参照いただきたい。
竹居観音岬は、この16岬の中で最も海に包囲された岬であろう。
本州・四国・九州に囲まれた箱庭のような瀬戸内海に、チョコンと小さく突き出た岬。
豪傑・精鋭ぞろいの16岬の中では、「かわいい担当」だ。そんな気がする。
そして実際岬からの景色やオブジェも、一般的にイメージされる岬とはちょっとテイストが違う。
「竹居観音岬って、他のどんな岬と似ている?」って言われても、答えられない。
全国各地の主要岬は全て踏んでいるにも関わらず。
だからこそ、竹居観音岬が愛おしい。
さぁ、ここからは過去5回ほど訪問したエピソードを配合してお届けしよう。
庵治半島。
その先端へと向かう道を、僕は走っている。
半島の東側の付け根からアプローチし、そして気付けば半島の西海岸。
うん、全然気づかず先端をスルーしたらしい。
Uターンする。
そしたら半島の東海岸。
明らかに岬の先端を既に通過している。
なんだここ。そういう系の怪談なのか??
そういえば、Webで調べたときに読んだことがある。
「すごくわかりづらかった」とか、「何10分も探した」とか、この岬に対する阿鼻叫喚の文言が並んでいた。恐ろしい岬!
※ 僕が初めて竹居観音岬を訪問した、日本2周目の時代の頃のこと。今はいくらでも地図情報が出てくる。
ここは無理せずに近くの人に尋ねてみよう。
近くに畑に焚き火をしているじいちゃんがいる。
この人、生まれてからずっとここに住んでいるに違いない。遠くに行っても高松市くらいまでな人生を歩んできたに違いない。
「ワシはここ庵治半島界隈のことなら何でも知ってそうな生き字引きじゃ」って顔して焚火を見ている。
YAMA:「あのー、僕は四国の最北端を目指して旅をしています。で、最北端の竹居岬に行きたいんですけど、どこですか?この近くだと思うのですが。」
じいちゃん:「ほぅ、四国の最北端がこんなところにあるのか?初めて聞いたわ。」
ダメこれ。
海岸ギリギリまで行き、海を見渡す。
最北端の竹居岬はここから見えているのだろうか。
近くに子供を遊ばせているおばさんがいる。今度はこの人に聞いてみよう。
すると、「ちょっとわかりづらいから気をつけてね!」って言い、丁寧に目印を教えて
くれた。
なるほど、何度も前を通過していたところなのか。
右手前に大きく戻る方向の激坂。
これは気付かない。気付けない。
反対側から見ると、「四国北端 観音崎 竹居観音寺」と書いてある。
こっち方向であればわかりやすい。
ただ、記憶はあいまいだが、初回訪問の日本2周目のときは、この看板はなかったと記憶している。
件のおばさんは僕に対し、「たくさん幟が立っているところよ」と紹介したのだ。
当時はそのくらいしか目印がなかったに違いない。
「下ル」の文字がそそるね。
ポイントとしては、「竹居岬」・「竹居観音岬」とは書いていない点だ。
僕は初回訪問時は「竹居岬、竹居岬…。」と呟きながら探していた。
「竹居観音岬」として探していたら、幟だとか坂の入口に鎮座しているしている「竹居観音寺」の石碑を見て、「竹居観音寺=竹居観音岬」と連想できたかもしれない。
だからこの教訓を基に、冒頭の通り僕はここを竹居観音岬と呼ぶのだ。
激坂と最北端の碑
さて下ろうか、って感じなのだが、文字通り結構下るぞ。
「こんなに下っちゃっていいのでしょうか?」ってくらいの、奈落に続く激坂ですぞ。
ここで仮にブレーキが壊れたら、素晴らしい速度でこの坂をフォーリンダウンして、これまたうまい具合に隙間が空いているコンクリートブロックの狭間から瀬戸内海にダイブできる。
まぁその隙間の部分がまさに四国最北端の碑なのだが、後述するので今は待ってくれ。
こっちはエンジンブレーキを制御するのに必死なのだから。
ちなみにだが、激坂を下らなくても坂の上に車1台がギリギリ停められるくらいの路肩がある。
日本2周目のステップワゴン、日本4周目のパジェロイオ、日本5周目のHUMMER_H3はここで待機してもらった。
「おい、バリバリ四駆のパジェロイオはなんで坂を下らなかった!」とクレームが来そうだが、僕はビビリかつ気分屋だからしょうがない。
さぁここだ。
瀬戸内海に面した防波堤の切れ目。
そこを繋ぐように設置された朱色のレトロな時計。
その足元に四国最北端の碑がある。
激坂を降りてくれば、こうやって愛車と一緒に撮影もできるぞ。
コンクリートブロックから覗く瀬戸内海の浜辺が美しい。
そして、1つ前の写真とは違い、時計の屋根がレトロブラウン(←今ネーミングした色の名前)に塗られている。
朱色がボロくなってきたので、きっと補修したのだ。
うーん、でも僕は朱色の方が好きかな。
昭和テイストが溢れ出ている。
このくすんだオモチャのようなデザインの時計が胸にキュンキュン響く。
日本2周目を始めたころ、本土最突端16岬の存在を知り、Webを調べた。
そして竹居観音岬のこの時計を見たときの衝撃はすごかったね。
ひとめぼれした。
「時計台のある岬」。
まぁ探せばあるのかもしれないが、こんなにもインパクトがある場所を、僕は他には知らない。
この時計の屋根は、和風テイストだ。
竹居観音寺の敷地内にあるから、「寺」を意識したデザインなのだろうか?
変に洋風でないところが、また渋い。
前回訪問時とは違う時間を指す時計の針が、年月の歩みも少し感じさせてくれた。
写真を見て、パッと訪問時の時間がわかるのもまた魅力であった。
ここには、数々の冒険の思い出がある。
岬っぽくない岬。
武骨な防波堤の切れ目にある四国最北端。
少なくとも僕の中で、この岬の魅力を一気に押し上げていたのが、この時計だったのかもしれない。
少し背後の激坂を戻り、時計の後ろに瀬戸内海を臨むのもまた好きだった。
塗り替えられたとはいえ、相当年季の入った文字盤を見て、「この時計はいつまでここにあるのだろう?」と一抹の不安を感じたこともあった。
うん、正直深層心理は不安であった。
そして実際、近年この時計が撤去されてしまったのをWebで見たときには、少なからずショックであった。
時計、オマエいったいどこに行っちゃったんだよ…?
戻ってくるの?
それとも、もう会えないの…??
それは、最後の項目で語りたい。
瀬戸内海を臨む浜辺
時計トークで熱くなり過ぎたので、竹居岬のロケーションについて、少々ご説明したい。
時計のある防波堤の裏は、 すぐ浜辺だ。
時計のシルエットが浜辺に映るくらいに、すぐに浜辺になっている。
でも、浜辺すっごい狭い。すぐ海。瀬戸内海。
その瀬戸内海がすごく綺麗なのだ。
穏やかで、心も安らぐ。
日本一、平和な気持ちにさせてくれる海かもしれない。
小島が点々と浮かび、小舟が通過していく。
「日本三景の松島かな?」とか思ってしまうような雰囲気だ。
僕はパッと見で島の名前とかはわからないが、「小豆島」も見えているらしいし、瀬戸内海を挟んだ先の本州も見えている。
「最北端・最南端」、みたいに突端の地ってそれこそ文字通り「地の果て」っていうイメージがあるかもしれない。
しかしここは全然違う。
右も左も緩やかな海岸線。
そして対面には島もあるし本州もある。
地の果てではなく、むしろ世界の中心にいるんじゃないかなって気分だ。
ちなみに、大ヒット映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地もここいら近辺に密集している。
僕は映画見たことないが、いいロケ地になったと思う。
夕暮れ時、浜辺の端まで来てみた。
究極に静かで、もうここでそのまま寝てもいいんじゃないかと思うくらいだった。
旅は心の洗濯だよね。
今の僕、洗濯されて汚れも落ちて、真っ白になりつつある。
たぶん柔軟剤も使っている。フワフワに柔らかい気持ちだから。
絶壁の竹居観音寺奥の院
時計から左側へと入ったところには、竹居観音寺の社殿等がある。
最北端の碑も境内だからね、ここに来たからにはお寺にも挨拶をせねば。
ここが本堂である。
すんごいガラス張りの本堂。
中から瀬戸内海一望の、オーシャンビュー本堂である。ステキ。
本堂から海沿いに少しだけ歩く。
この神社、まだ続きがあるのだ。この先が奥の院だ。
断崖の中にあるというのだから、見てみない手はない。
海ギリギリ。
いや、ギリギリどころか若干海上に、遊歩道ができている。
この断崖に沿ってさらに歩いてみる。
相変わらず海は穏やかだ。
なんだったら、ここから転げ落ちてもいい。
むしろ転げ落ちたい。
そんなレベルの静かな海だ。
まぁでもこの写真の通り、遊歩道はすごくガッチリしており安心感がある。
真新しい遊歩道だ。気の匂いが香ってくる。
たぶんだけど、2014年に綺麗になったのだと思う。
前年の2013年のときにも訪問したのだが、かなりの経年劣化が進んでいたからだ。
これが2013年版だ。
こっちのほうが「修験僧が修行している荒々しい地」って感じだ。
いや、でもそういう見方は失礼だよね。
お坊さんの足元、キチンと綺麗になってよかった。そう思おう。
最大のビュースポットがここであろう。
断崖の端の端にと立つ、奥の院の小さな鳥居。
こう言っちゃ失礼だけども、 さっきご紹介した竹居観音岬の四国最北端の碑のあったコンクリブロックよりも、よっぽど突端テイストを醸し出している。
あそこの端に立って、「四国最北端だー!」と言ったほうが絵になる。
でも、いいのだ。
あれはあれで最高。こっちはこっちで最高。
違った顔を楽しめる。
行き止まりだ。
正面は崖、左は洞窟、右は海。
ここが竹居観音寺の奥の院である。
中でお坊さんがお経を唱えている声が、ここまで聞こえてきたこともあった。
もちろん邪魔はできない。
奥の院が、これだ。お坊さんのいないときに訪問して撮影したものだ。
神聖な場所なので、これ以上踏み込んでの撮影は禁止されている。
どうやらここの由緒はね、昔「高松城」を作った人がここに観音像を奉納したことから、って感じなのだそうだ。
高松城から見るとここは鬼門の方向に当たるから、守り神が欲しかったのだろう。
なるほど、だから観音寺。
中に入り、そっと手を合わせた。
失われた時計
定期的に興味のある観光スポットのその後をWebで調べている僕は、もちろん知っていた。
その岬からシンボルの時計が失われてしまったことを。
日本6周目。
愛車の日産パオで激坂を下りながら、正面のコンプリブロックがやけにサッパリしてしまっている様子が目に入る。
「あぁ、やっぱりキミはいなくなってしまったんだね」
心のどこかで、少々落胆する。
少々雲は多いが、相変わらず海は綺麗だ。
しかし以前の姿を知っていると、少々寂しさがこみ上げる。
「これはこれでいいのだ。」
そう思いきることも需要だし、現にそう思う。
ただね、納得したいのだ。
僕自身が、時計のことをしっかり知っておきたいのだ。
そして、願わくば。
今後、ここを訪れる旅人・ライダー・観光客…。
かつて時計があったことも知らず、何も違和感を持たずに四国最北端到達を喜ぶだろう。
そんな人に、「かつてここに古くてかわいい時計があったんだよ」って、知ってもらえたら嬉しい。
そのためにも、僕は執筆する。
しかし、Web内のどこを調べても、時計がいつ撤去されたのか・なぜ撤去されたのか、情報を発見できなかった。
これでは供養も配信もできない。
11月末、本格的に調査してもらうことにした。
以下の内容は、「香川県観光協会」・「高松市観光交流課」・「竹居観音寺」の皆様に動いていただき、そして得られた貴重な情報だ。
調査期間中は、電話で進捗なども丁寧にご連絡いただき、大変に感謝している。
突端マニア冥利に尽きる。
①もともといつ、なんのために設置したもの?
1984年(昭和59年)度に、当時の庵治町(高松市との合併前)によって設置された。
観光客の方へ庵治町の歴史・文化などなど庵治町のPRを行い、観光客誘致を図ることを目的としたもの。香川県観光補助事業を活用して、設置したもの。
②いつ撤去してしまったの?
2016年(平成28年)度に撤去。
③撤去の理由はなに?
経年劣化によって故障し、正確な時刻を表示できなくなってしまった。しかも、既に部品の生産が終了していて、修理不能な状態であった。
従い、止むを得ず取り外すことになった。
④今後代用品を設置するご予定は?
現時点では残念ながら予定はない。
…そっか。
もう代わりの時計も設置されないのか。
正直残念ではある。
でも、「止むを得ず」・「残念ながら」の単語の中に、時計への愛を感じた。
僕は竹居観音岬とは全然無関係な人間なのに、なんだか嬉しく感じた。
なーに。
まだ竹居観音岬には、四国最北端の石碑もある。
その足元には、四国の最北端と最南端を刻んだ地図プレートもある。
よく見ると文字がゆがんでホラーなことになっているけど、まぁいいのだ。
ホラー映画「リング」の呪いのビデオの1コマで、文字がこんな感じにゆがんで飛び散っていくシーンがあるけど、別にいいのだ。
最後のフレーズで盛大にズッコけて、何が言いたいのかわからない。
でも、 合併前の庵治町の文字があることや、香川県観光補助事業であることが窺える。
つまりは時計と同時期の、昭和後期の地図プレートなのかもしれない。
これはこれで貴重なのだ、きっと。
過去に決別ができた。
止まっていた時間は、再び動き出す。
最後に、日本2周目で撮影した時計の写真を記念に載せておこう。
また来るよ。きっと日本7周目で。
ありがとう、竹居観音岬。
そして、ご協力いただいた各所の皆様、僕の稚拙な好奇心にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
※ ご担当様にはブログ掲載の旨の許可をいただき、当ブログも見ていただきました。わーい。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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