この30年以上、(一般的な)観光客は訪問していない、木曽川の織り成す渓谷。
名前を「深沢峡」という。
35年前後もの長きにわたり、廃景勝地として静かに佇んでいた深沢峡だが、あと9年でこの世から姿を消すぞ。
そのあたりの事情は後述するが、今回は僕が初めて深沢峡を訪れた物語を紹介したい。
今から振り返れば、これが僕が秘境と廃墟にのめりこみ始めた、トリガーとなるドライブだったのかもしれない…。
岐阜県道352号 大西瑞浪線
まずは、以下に深沢峡の周囲の地図をご紹介する。
アプローチの困難さを把握していただきたい。
深い渓谷により、国道418号は左右に分断されている。
深沢峡エリアまで国道の痕跡はあるが、既に廃道となっているそうだ。
…となれば、県道352号を北上するルートが妥当だろう。これも最後は廃道化されているが、人が歩けるだけの環境は残っていると聞いている。
行こうぜ、秘境!
行こうぜ、深沢峡!!
町はすでに背後だが、まだまだ道は綺麗だ。桜も綺麗だ。
対向車もゼロなので、道は若干狭いもののスイスイと進む。
車が通行できるのはここから2.5㎞先までだと、看板に表示してある。
行けるところまで行くぞ。
…そして車両通行止め。チェーンが張ってあり、ここから先は侵入不可能。
ここは「瑞浪市衛生センター」という施設のすぐ横。
愛車のパジェロイオはこの付近に待機してもらおう。
ここからの県道は、この2本の足で踏みしめていく所存。
しばらくは、うっすらと轍の残る道。
さっきチェーンが張られていたが、関係者車両は今も内部に入ることがあるのだろうか?
2・300m歩いていると、前方にバリケードが見えてきた。
ガードレールを3枚重ねて作成した、突貫テイストの強いものだ。
車両は仮に先ほどのチェーンを乗り越えたとしても、ここで確実に突き返されることとなるのだな。
このあと、ダメ押しでガードレール2枚重ねのバリケードがあった。
それを越えると途端に道幅は狭くなり、ほぼ山道となる。
そして荒れっぷりにも拍車がかかる。
大崩落だ。道幅の半分ほどがゴッソリと持って行かれている。
しかしもう半分が残ってよかった。
このご時世では、行政は崩れたところでこの道を直してはくれないだろうから。そうしたら、本当に誰も行けない渓谷になってしまうから。
これは木曽川へと流れ込む支流だろうか?
とんでもない大岩がゴロゴロしている。
途中に滝があると聞いたことがある。おそらくこの支流のどこかに存在しているのだろう。今回は、そちらも行ってみたいと思う。
ボロボロの石碑が現れた。ほとんど字が読めない。
しかし、「深澤峡記念」って書いてあることを、事前知識から知っている。
道は谷に向かって急な九十九折を繰り返す。
道幅もカーブの曲線半径も、とても車が通るような道ではない。
県道ではあるが、おそらく車道は想定していなかったのだろう。
マニアには有名な公衆トイレが姿を現した。
覗いてみたが、便器はどちゃくそに破壊されており、使用はできない。
半分獣道のような県道をさらに進む。
すると、その筋では非常に有名な廃屋である「いさまつ」が見えてくるんだ。
まだ県道352号ではあるのだが、いさまつは別格なので次の項で取り上げよう。
廃茶屋、「いさまつ」
深沢峡を語るにあたって、避けて通れない有名物件。
それがこの、観光客向けに事業を営んでいた、いさまつだ。漢字で書くと「伊三松」。
ちなみにここ、2020年は写真よりも遥かにボロボロである。
もう完全に柱と屋根しか残っていないくらいで、おすもうさんが激突したら崩れそうなくらいに。
お店の壁には、「玉田医院」を紹介する看板が掲示されている。
ちなみに玉田医院は、少なくとも僕の訪問当時は現存していたらしい。
…独特の崩し方の字体だな。
電話番号が『日吉 五番』と書いてある。
日吉ってのは、瑞浪市日吉町という住所を示している。
五番ってことは、その当時は日吉町において電話番号が1ケタしかなかったのだろうか?
つまり、日吉町には電話機がMAX9台。
そういう時代の遺産なのか…。すんごい貴重だな、この看板。
少なくとも、訪問当時の僕はまだ廃墟には目覚めていない。
…このときは、まだ夜明け前だ。
しかし、もうまどろんでいる。やがて目覚めのときが来ることを、未来の僕は知っている。
ドアの隙間から少しだけ内部を見るに留めた。
ちゃぶ台のようなものに、日用品がいくつか乗っているのがチラリと見えた。
2階から3階へと上がる急階段。
いさまつは一見平屋だが、断崖絶壁に建つ3階建ての建物だ。歩道側から見ると平屋、そして裏の崖側から見ると3階建て。
いさまつごしに、木曽川の水面が見えるのがおわかりだろうか?
あれが目指す深沢峡だ。
在りし日のいさまつは、ここの3階で観光客を受け入れる茶屋を営んでいた。
また、2階部分では宿業もやっていたとのことだ。そして、1階が女将さんの自宅だったらしい。
そのほか、この断崖を下りきった河沿いでは、貸しボートもやっていた。
さらには、近くの「丸山ダム」からは1日3便の観光船が深沢峡まで来ていたのだ。すごい賑わいだ。今からでは考えられない。
ちなみに、丸山ダムは後述の重要なキーワードとなるので、覚えておいていただけたらと思う。
崖側から見た、いさまつ。
聳え立つ3階建てがよくわかる。最上階の3階が、遊歩道に面している茶屋部分だったのだ。
時系列は少し先に行ってしまうが、木曽川の対岸付近から見たいさまつを以下に紹介しよう。
改めてみると、すっごい立地だ。
そして水面ギリギリには朽ちかけたボート小屋も見えるぞ。
いさまつは、付近に民家もない、あんなところで半世紀ほども観光業を営んでいたのだ。
昭和中期のころは電気も電話もなければ郵便も届かず、近所の人を介して運営していたと聞く。
いさまつは、観光客の相手を一手に担うと共に、周辺の歩道の整備なども行い、まさに深沢峡と共に歴史を歩んだ。
そして、歴史を閉じるのもまた、ほぼ同時だったという…。
深沢峡が閉鎖された時期は、Webサイトで検索してもまちまちだったりアバウトだったりと、ハッキリしない。
ただ、1982年の集中豪雨で、木曽川沿いの国道418号が崩れたのは、大きな転機となったようだ。このとき、同時に県道352号も被災している。
この国道418号の通行止めは、冒頭の地図でも記載した、現在まで続く国道断絶である。
既にこの頃には深沢峡への観光客は激減していたようで、この両方のアプローチルート崩壊がトドメを刺すこととなったのだろう。
さらに、1人でいさまつを支えてきた女将さんが亡くなったのが1987年と聞いている。
こうして、いさまつも深沢峡も、朽ちていった…。
廃橋、五月橋
…「五月橋」。
秘境マニア・深沢峡マニアがこの名前を聞いただけで、興奮で鳥肌が立つようなスポット。深沢峡のハイライトである。
そして、「深沢峡=五月橋」とも言えるくらいの存在。
さぁ、木曽川がハッキリと見えるようになってきた。
引き続き県道352号を進むぞ。
車を停めた時点から、廃道を歩くこと30分。
始めて五月橋がまともに視界に姿を現した。
五月橋!!なんという綺麗な赤!!
1954年に架けられ、60年以上の長きに渡って深沢峡の両端を繋いできた立役者!!
僕は喜び、小走りで山道を駆け下りて五月橋のたもとへと向かった。
…グハッ!!
せっかくたもとまで来たというのに、木々がジャマすぎな事件。
まだ4月で木々の葉も少ないが、来月以降であれば橋の全容はほぼ覆い隠されていたであろう。これ、ちゃんと一望できるようなロケーションはないものか…。
ここで県道352号は終点となる。
それでは、橋を渡ろう。
車を停めてからここまで、車両通行止めはあったが立入禁止は全くない。
この橋に至っても何も(アプローチ時点では)バリケードは無いので、特に法的な規制もなく足を踏み入れられるのだ。
…踏み入れられるものなら、な。
風通しバツグンである。
よく、吊り橋とか高層ビルとか、高所の展望スポットでこうやって足元が透けているタイプはあるだろう。
しかし、これは違うぞ。1982年で被災し、その後は何のメンテナンスもされずに放置されてこうなっているのだぞ。床面はとっくの昔に消失したのだろう。
どこまでこの橋を信頼していいものか。
グレーチングは歩くたびにカタカタ鳴り、そして渓谷を風が吹き抜ける。
ゾクゾクするぜ。
水面までは20mほどだろうか?
落ちた衝撃では死なないだろうけど、まだ4月で上着も着込んでいるので、この状態で泳ぐのは厳しいかもしれない。
叫んだところで誰にも聞こえないだろうし、うん、落ちたら結局死ぬだろうね。
確定。
そして、透明度の少ないノッペリとしたエメラルドの水面が、また怖い。
なんだか生命を感じないのだ。
ま、いろんな意味でここには生命なんてないんだけどな。僕以外は。
全長123mの五月橋の終点が間近に迫った。
その終着点にチェーンが張られていることに気付く。
橋の南側はウェルカム状態なのに、北側はチェーン封鎖なのだ。
なんだそれ。もう渡っちまったぞ。
こんなチェーン、スルッと潜って向こう側に行くことも可能だが、その前に気になるのは、向かって右側に設置されている看板だ。
裏面をこちらに見せているので何と書かれているのかわからない。
チェーンの手前から首を突き出し、表面の記載を確認してみよう。
…やっぱりね。
橋は通行止めなのに、南側からは気付かず渡れてしまうという不思議。
果たして僕が置かれているこの状況は、アウトローなのかそうでないのか。
でも、チェーンを潜るという行為自体がなんかちょっと良心を咎めるので、ここまでとしておこう。
なにより、秘境探索としての領域はここまでで充分。
ここから先は、1982年の大崩落が放置されたままの、廃道マニアの領域。しかしそれは、今の僕にはまだちょっと早い。
前述のいさまつの遠景は、ここから撮影したものである。
さて、深沢峡のハイライトは攻略した。
引き返そう。
五月橋のド真ん中で休憩した。
読書しながらのランチだ。
遥か昔に封印された観光地跡ではあるが、僕はここをあくまで「観光地」として楽しみたかった。例えほんのわずかな時間であっても。
それが、深沢峡に対する僕なりの供養だ。
霧ヶ滝と、その上流
まだ僕にはやらねばならないことがある。
それは、この深沢峡のどこかにあるという「霧ヶ滝」を見ることだ。
少なくとも僕が訪問した時代において、ただでさえ少ない深沢峡のWeb情報に対し、霧ヶ滝の情報は、輪をかけて圧倒的に少ない。
…いったい、滝はどこにあるのだろうか??
ふと思い出した。
ボロボロの公衆トイレの近くに、山道の分岐があったことを。
行ってみるか。
獣道のようだが、わずかに道の痕跡がある。
ここを入ってみよう。
途中で道が消えてしまうかもしれないが、それならそれでいいわけが立つ。
とりあえずチャレンジしてみることが大事。
最序盤でも見かけた渓流の延長線が、間近に表れた。
この渓流の上流もしくは下流が、滝なのであろう。
渓流の動線を念頭に置いて歩くのがいいかもな。
あー、なんか階段あった。
茂みの向こうにニョッキリ登場した。
これは確実に、この先に何かがあるぞ。
それを確かめに、もうひと踏ん張り!!
…と思ったが、道がなくなった。とんでもなく巨大な岩たちに塞がれている。
しかし、その向こうから滝と思わしき水音は聞こえている。
うわー…、足場がほとんどないぞ。
10cm弱くらい。これを踏み外したら、下の渓流にドボンだ。
この向こうか?
滝の存在は、既に確信に近い。しかし、僕の身長でこの高さ170cmほどの岩を乗り越えられるのか?
懸垂の要領で踏ん張る。
ヌグググ…!!
頭を岩の上から覗かせる。
見えッ!
岩の向こうに滝が見え… !!
… ないッ!!
見えない!!
写真の右下4分の1、チリチリになった茶色い枝葉の向こうにかろうじて見えている、白いシャワシャワしたものが滝の水流。
チックショウ!もう一息なのに!
現段階では、まだ「滝を見た」とは言えない。
がんばれ僕!!
上体をさらに岩の上へと引き上げる。
見えたーーーッ!!
これが…、霧ヶ滝!!
全ては見えないし、若干ブレたけども、これが僕の限界だ。もうダメ。
でも、ひとめだけでも見れてよかった。
2筋に流れ落ちる、華麗な滝であった。
このあと少し道を引き返し、その道中でふと渓流を見下ろす。
すると気になるものが目に入った。
スゲーところに、スゲーもんがある。
渓流沿いの段階に、ハシゴと石碑と崩れたほこらだ。
配置を見る限り、ハシゴは石碑に登るために意図的に設置されたものだろう。
これはどこのWebサイトでも見たことがない。
なので確証は持てないが、こんな伝承を聞いたことがある。
昔、深沢峡の苔を採取して煎じて飲んだら、難病が治った。
これに感謝し、ほこらだか碑だかを作った。
それは、霧ヶ滝の断崖の脇を登った先にある、…と。
もしかしたら、これがそれなのだろうか…??
忘れ去られつつある、伝承の一端を目撃できたのかもしれない。
かたちを変え、そして滅びゆく渓谷
複数のWebサイトを巡っていろいろ情報を集めたが、深沢峡の最初期については情報が少なすぎたり、表記揺れがあったりしてよくわからない。
しかし、明治時代後期にこの周辺の開拓が行われ、現在の五月橋付近に人が往来できる吊り橋が架かったりしたそうだ。
その後の大正時代も、知る人ぞ知る景勝地として存在する。
そんな深沢峡が一躍脚光を浴びるのは、1933年(昭和8年)のことだ。
「国立国会図書館」のデータベースで確認できるのだが、深沢峡は1933年の「日本十二秘勝」というのにノミネートされている。
これにて、観光客が激増したのだそうだ。
しかし、この当時の深沢峡というのは、まだ僕らが知る姿とは全然違うもの。
1955年に、これまでの風景を一変させる、大きな大きなイベントが起こる。
丸山ダム、建設。
木曽川に建設された巨大ダム。
コイツはすごい。
Wikipediaの言葉を借りると、『戦後の大ダム建設として大規模かつ本格的な機械化手法を全工程で行い、後の日本土木技術のいしずえとなった』。
そんなヤツが、わずか10㎞の場所にできたのだ。
深沢峡の水位は、これによって40m上がる。
これが、今回ご紹介した深沢峡である。
五月橋ができ、いさまつができ、多くの観光客が訪れ、手漕ぎボートで遊んだり吊り橋から歓声を上げる。丸山ダムから観光船が運航され、深沢峡は大いに賑わう。
…1980年代初頭までは。
それから先は、前述の通りだ。
帰り道、ほぼ障害物なしに五月橋を見下ろせる場所があることに気付いた。
息を飲むほどに美しい光景…。
しかし、この光景を見れるのは、頑張ってもあと9年間、2029年までかもしれない。
新丸山ダム、建設。
さらにダムができるのだ。2029年に。
日本最大級のダムの嵩上げによる、ダム再開発事業なのだそうだ。
2009年に一度凍結されたこの計画だが、今年2020年3月のコロナ禍の中で「4月からの工事開始」が発表された。
これにより、木曽川のこのエリアの水位はさらに数10m上がるだろうと推測されている。
深沢峡・五月橋・県道352号の山道ゾーン・いさまつ・霧ヶ滝…。
今回紹介したすべてのスポットが水没するのだろう。
深沢峡は花に抱かれて、静かに佇んでいる。
誰も来ない、誰も知らない秘境の渓谷。
僕が再びここを訪れることはないかもしれない。
再び訪れたときには、もう僕の知っている深沢峡ではないかもしれない。
一期一会に、ありがとう。
そして、安らかに。
深沢峡を出発した僕は、さらなる岐阜の深部へ車を進める。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報