ここ2年程で、「AIが描いた絵」というのが話題になっているよね。主にちょっと変な方向に行っちゃった系を中心に。
例えばピザハットを描かせたら巨大なピザを帽子にしたおじさんができあがるし、丸亀製麺を描かせたらうどんの中にぽっちゃりしたカメが入っているし、サブウェイを描かせたら巨大なホットドッグみたいなメカが地下鉄ホームに滑り込んでくる絵が出来上がる。
そういうのがWebで人気だ。まだAIは黎明期でピュアなのだ。単語そのままで幼稚園児のように純粋な発想をする。
じゃあここで問題だ。
「軍艦防波堤」と言ったら何が正解?そしてAIはどんな絵を描く??
賢明なあなたは、「軍艦が停泊している防波堤でしょ?」って思うよね。
そうだね、常識を身に着けるということは、そういうことだと僕も感じる。
ただ、今回の軍艦防波堤は違うんだ。AIが考えるようにピュアすぎる一品が存在してしまっているのだ。
軍艦で防波堤作っちゃいました。
これ、AIが作った画像じゃないぞ。実際に僕が撮ってきた写真なんだからな。
そこは巨大な埋め立て地
朝の6時台。僕は気持ちのいい秋風を浴びながら北九州市の海沿いの埋め立て地を走っていた。
福岡県北九州市若松区の響町。ここって地図で見る限りは町が丸々埋め立て地なんじゃなかろうかね。どこまでもフラットな台地であり、道は直線で幾何学的な美しさを感じる。
立ち並ぶ倉庫や工場などを見ながら、どんどん埋め立て地の深部へと入り、いよいよ「この先は海に突き当たって道も消滅しますよ」っていうストレートな道に出た。
大丈夫だ、僕の目的地はこの道が終わる場所にあるのだから。
こうしてエンド・オブ・ロードまでやってきた。
お目当てはタイトルにもある通り軍艦防波堤なのだが、それ以前に気持ちいいぞ、ここ。
早朝の穏やかな朝日、潮風が香り、カモメが鳴く。ドライブで立ち寄る海って、なんでこんなにも旅情をくすぐってくるのだろうか…。
対岸も埋め立て地。もう見渡す限りの埋め立て地。
あの煙突は「戸畑共同火力株式会社」だ。24時間休むことなくモクモクと頑張ってらっしゃる。朝日を浴びて輝く工場群、スゲーいい…。
さて、この埋め立て地の先にある防波堤。
どんでもないものを埋め立ててしまっている。うん、軍艦なのである。埋め立て地って、軍艦埋めてもいいんだー、そっかー。初耳。学校では教えてくれなかった。
「でも軍艦と防波堤ってかたちは似ているよね!」っていうじゃっかん棒読みのフォローくらいはできる心の準備をして、僕は防波堤へと足を踏み入れた。
軍艦が埋め込まれた防波堤
軍艦防波堤。正式名称は「響灘沈艦護岸」。
もう最初っからインパクトがすごい。
冒頭でも使った写真を再掲させていただくが、防波堤に足を踏み入れて最初に目に入る光景がこれなんだもん。防波堤と軍艦を足して2で割ったようなビジュアルなんだもん。
強烈な違和感を感じるのに無表情で釣り糸を海に垂らしている人たちがいるのがシュールで素晴らしい。
実はこれ、第二次世界大戦時の軍艦なのだ。つまり1945年あたりに現役だったもので、造られてから少なくとも78年経っている。
ここいらの軍艦の歴史については次の章で詳しく触れるね。
とにかく古いものなので、そりゃ普通にボロボロで、それでも防波堤として機能するようにセメントで固められているから細部のパーツなんかは全然なくなっちゃっているんだけど、それでもご覧のとおりこの防波堤は軍艦であった日のことを忘れてはいない。
近付いてみた。
うおぉぉ!!迫力あるじゃないのーー!!
これみなさん、釣りをしている場合ですか?あなたの後ろにあるのは、第二次世界大戦を潜り抜けた軍艦ですよ!?
…って言いたい気持ちをグッとこらえる。
もう北九州の人にとっては当然なのだ。防波堤に軍艦が埋まっているのも、軍艦のすぐわきで釣りをするのも当たり前なのだ。常識は地域や文化によって異なる。『言葉』でなく『心』で理解できた!
早速この船の輪郭に沿って歩いてみよう。釣り人に不審に思われない程度に静かに、ネコのように歩いてやろう。
…防波堤のすべてが軍艦ではないとは思うが、こうしてみるとどこまで軍艦でどこから防波堤なのかわからなくなってくる。迫力がすごい。
船の輪郭部分は、外郭ではなくって軍艦の上部の部分が見えているにとどまる。それでも当時の面影を残しているのが素晴らしい。
こんな気軽に足で踏んづけていいのかなって思ってしまう。
たぶんだけど、輪郭に沿うように残されたこの鉄のラインがその境界線なのだろう。
きっと往時の軍艦の本物の鉄部分。貴重だ。これを辿って歩くだけで気持ちがたかぶるのを感じる。
防波堤の最先端部分、つまりは船尾部分までやってきた。
鉄の輪郭がここで折り返している。現在船のかたちがこうして露出している部分は全長70mとのことだ。
この軍艦、まぁ正確には駆逐艦なんだけども、全長は85.85mとちょっと小柄だ。その8割以上が見えているということなのだね。なかなかのスケール。
さーて、折り返して最後にとっておいたのは船首部分だ。
ここは文句なしに一番船っぽさが残っている。舳先に立てるのだ。こんなにうれしいことはないよね。
…てゆーか誰だよ、舳先に『昭和』って刻んだのは。センスもないしモラルもないわ。
しかしここには確かに、激動の昭和が息づいていた。
戦争を生きた軍艦3隻、ここに眠る
最後に軍艦防波堤が誕生した経緯をお話ししよう。
さっき僕がご紹介した軍艦は「駆逐艦_柳」という。
実は軍艦防波堤を形成する船は3隻あり、残りの2隻は「駆逐艦_冬月」・「駆逐艦_涼月」だ。
冬月と涼月は、あの戦艦大和と共に「沖縄特高作戦」の直衛艦として出航したんだよ。ギリギリで生き延びて、でも前進する機能がブッ壊れて後ろ向きに航行しながら帰還したんだよね。
横のパネルには柳・涼月・冬月について詳しく書かれたパネルもあるので、しっかり読んでみると感慨深いのだ。
戦後、普通はこういう戦争の遺物は解体されるかアメリカに没収されちゃうかなんだけど、この3隻は防波堤としてここに沈められることとなった。
実は柳より手前側に涼月・冬月も埋められていたのだ。
パネルの写真の拡大図だ。かつてはこうやって埋め立てられた。
今は埋め立て地がマッチョになってしまい、涼月・冬月の姿は全く見えないけど。
ここに3隻が沈められたのは、戦後3年目の1948年のことだそうだ。
その頃は九州本土とここはまだ橋でも陸でも繋がっていなくって、船でしか来れない人工島。
柳・涼月・冬月共に外観は現役時代ほぼそのままで、船内にコンクリを入れて固められただけだったそうで、そんな島だったにもかかわらずみんな珍しがってここに観光にやってきたらしい。
その後、金属ドロボウに荒らされたり、台風でバキバキになったりし、1961年に「あぁもうこれヤバい」ってなって涼月・冬月はコンクリに埋められた。
柳は今のようにちょっとだけかたちがわかる程度に残されて、それ以外の船のパーツ部分は撤去されたとのことだ。
もう少し工夫したら、もう少し技術があったら、もっと軍艦当時の面影を残せて、観光面でも文化遺産面でも価値のあるものにできたかもしれない。
それは少し残念ではあるかな…。
それでも、ここは他にはない貴重なスポットであることには変わりない。
当初は「軍艦が埋まっている防波堤!?スゲー!!」みたいな安易なテンションでやってきたけど、ひとことですごいとは言えない歴史の重みがコンクリと一緒にギュッと詰まっていたな。
軍艦が戦時中にどのように活躍したかは語られることがあっても、戦後の末路まで触れられることは少ない。
しかしここでは、第二次世界大戦中の軍艦の最後の物語を見ることができ、触ることもできたのだ。
戦争は決して繰り返してはならないことではあるが、それでも当時を生きた先人の血と汗と涙とコンクリートの上に、僕らはこうして立てているのだろう。
以上、日本7周目を走る旅人YAMAでした。
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