山に降った水が、大地を流れて海へと注ぎこむ。
それが「川」だ。
みんな知っている。
その川と川が立体交差しているスポットが新潟市にあるという。
うん、ワケがわからない。
とんち好きな一休さんでも混乱するんじゃないかってくらいに、ワケがわからない。
昨年度(2020年)の冬が北陸に訪れる直前、僕はその世にも珍しい川の立体交差を見に、新潟県を訪れた。
新川・西川立体交差
時刻はまだ15時台の前半である。
しかし急に雲が立ち込め、冬も間近な新潟市は既に夕方の気配であった。
目指す「新川・西川立体交差」まであともうちょっとのところまでは来ているが、もたもたしていると薄暗くなりかねない。
僕はあせる気持ちでアクセルを踏む。
ここの小道を入っていく。
Googleマップのストリートビューでは、青い幟で「江戸時代最大級に川の立体交差工事」と書かれている。
僕の訪問時にはこの幟がなかったのが残念だ。
あったらさらに気分がブチ上がったのに。
駐車場と言えるような駐車場はないが、この小道の奥にかろうじて車を停められる路肩がある。そこが新川・西川立体交差の駐車場という扱いなのだと思う。
もしあなたが運転苦手というのであれば、すぐ隣に「ウオロク」というスーパーがある。
買い物がてらにちょびっと新川・西川立体交差を訪問してもいいのかもしれない。
写真の左に見切れているのが、そのスーパーウオロクの裏手の倉庫だ。
写真の右ギリギリの橋の袂が、ストリートビューでは青い幟の立っているところだ。
そして、中央を流れているのが「西川」という川だ。
ここで後ろを振り返ろう。
まぁ普通の川だ。
普通の川なのだが、遠くに橋の桁のようなものが見える。
トラス橋という種類の橋だ。
…はて?
「川に架かる橋」がトラス橋なのであれば、それは理解できる。
しかし、川そのものに橋桁がついている。
なんだかおかしい。
近付いてみる…。
…川が!水が!!
橋を渡っている!!
ちょっと脳がバグるような光景であった。
日本の土木技術的にできないはずはないとは感じているが、自分の人生においてこんな光景はちょっと見た記憶が無かったからだ。
人は大人になると、どうしても今までの経験から物事の善し悪しを判断してしまう。
これに比例し、未体験な事項が怖くなる。
そんな心の急所をグサッと鋭利なナイフで刺されたような、そんな感覚であった。
しかしまだまだこれでは終わらない。
この未体験という名のナイフ、刺すだけでは終わらずに傷口をえぐるぞ。
川の下を川が流れているーー!!
まぁ賢明なあなたであれば、この記事とタイトルと冒頭の説明文から充分に予測できたと思うが、ひとまずここは僕と一緒に驚いてほしい。
あるいは、驚くふりをしてほしい。劇場型ブログだから、ここ。
上も川。下も川だ。
それらが見事にクロスしている。お互いの行き先を妨げないようにしている。
わかりやすく、色をつけてみよう。
下の川は「新川」という川だ。
当然人の手が加わらないとこんな立体交差は生まれないわけで、あなたは既にそこいら辺を疑問にお感じかと思うが、まずはこの光景を堪能してほしい。
川に成り立ちについては次項でご説明としたい。
改めて、西川目線で川を眺めよう。
立体交差の目の前から振り返る。
冒頭のスーパーウオロク前の橋が見えている。
ホント、普通のどこにでもあるような川なのだ。
橋を渡りそうなそぶりは全くない。
同じところから真後ろを見ると、これだ。
西川は空を飛ぶ。
その向こう側までは今回行っていないが、また西川は何事もなかったかのように流れていくのだ。
次に新川目線で眺めてみよう。
新川は豊かな水をたたえ、新潟市内をゆったりと流れる幅の広い河川だ。
川岸に座り込んで愛を語り合ってもいいし、釣り糸を垂れて夕食の食材を狙ってもいい。そんな感じの風情ある川だと感じた。
そんなところにいきなり、赤とグレーのオシャレなトラス橋がかかる。
まぁこの川には車道の橋も無数に架かっているので、別に驚くようなことではない。
普通に見れば、「少し狭そうだから歩行者用の橋かな」とか、「結構川面にスレスレなのが特徴的だな」くらいにしか思わないだろう。
すぐ脇にも車道の橋が架かっているが、きっと車窓から眺める人の大半は上記のように感じていると推測する。
しかしてそれは、見る者を驚愕させる建造物だったのだ。
では、次に成り立ちをご説明したい。
こうして川はクロスした!!
大きい方の新川、町の景観にもしっかりと溶け込んでいて、昔からこの地を流れているように感じる。
しかしこの新川は、かつては存在しなかったのだ。実は江戸時代に人工的に作られた川なのだ。
それまでは、西川しか存在しなかった。
ここいらの内容は、現地に設置されている2枚の説明パネルにも書かれているので、是非あなたも機会があったら 現地でご覧いただきたい。
西川は、いくつかの用途はあるものの、主に舟運で使われていたようだ。
例えば江戸時代は、トラックも高速道路もないし、電車も線路もない。
そんなとき、船を使って川を行き来したり、さらには海を経て他の大都市との港運をすることは、町の生活においてすごく重要だったのだ。
ただ、ここいらの地域の人には同時に悩みもあった。
土地が低くて平らなので、雨が降るとビッチャビチャなのだ。
つまり、大雨が降ると水害が発生し、地域住民はとても困っていたのだ。
こんなイメージかな?
山間部に降る雨は、平野部に流れ込む。
しかし、ここいらの地域で大きな川と言えば「信濃川」くらいしかない。
その信濃川も真っすぐ海に流れ込むのではなく、平野部を横切るようなルート。
わき腹を攻撃されると弱いタイプの川。
だから、山間部からの水が一気に流れ込むと、たまらず氾濫する。
そしてビチャビチャゾーンが生まれる。
そこで、人々は考えた。
上の図には「大河津分水路」とか「関屋分水路」があり、信濃川の水を効率的に海に流すための別ルートができているが、それは比較的近年のことだし、今回のスポットとは異なるのでひとまず置いておこう。
人々は「新川を作ろう」と考えたのだ。
平野部がビチャビチャにならないよう、1本川を作りそこに水を集約させる。
これで万時解決だ、と。
しかし、改めてイメージ図を見てほしい。
新川を作ったら、舟運の大事な大事な西川とぶつかる。
そうしたら舟運がままならなくなってしまう。
どうしよう
⇒ 川を立体交差させよう
こうして、前代未聞の作戦がスタートした。
実に200年前、江戸時代の話である。
冒頭で僕は、「江戸時代最大級に川の立体交差工事」と書かれた青い幟があるとご紹介した。
その通り、当時の技術で川と川を交差させるのは、とても難しかったようだ。
それも説明パネルになっている。
西川の位置を一時的に変えて、本来の位置に木製のトンネルを設置して新川を通せるようにしたりだとか、ビシャビシャの工事になるから踏み車っていう人力水車で延々と水を掻き出したりだとか。
とりあえず、これらの工事は当時の日本人が経験したことがなかった、斬新かつ難しい工事だったようだ。
こうして、初期の立体交差が誕生し、その後に何度も改修を加えて現在の姿になったのだ。
僕がここを訪れたのは、2020年。
奇遇にも、最初に立体交差が生まれた1820年から、ちょうど200年目の年であった。
今はもう西川を使った舟運は行われていないだろうが、新川による平野部の排水はしっかりと機能しているであろう。
『水を制するものは、国を制す』
武田信玄による「笛吹川」しかり、徳川家康による「利根川」しかり、日本史の裏側では常に暴れ川との戦いがあった。
川は我々にとって敵でもあったが、攻略すれば莫大な富をもたらす。
この地もそうだ。
平野部の排水ができたから、この地は安定した稲作ができるようになり、そして日本有数の米どころとなったのだ。
200年前の先輩に感謝だ。
最後の項目にGoogleマップを掲載するので、是非この周辺の立地を確認してみてほしい。
そして共に、今日もお米が美味しいことに感謝をしよう。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
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