幻の真っ黒なそば、音威子府そば。
知らないと絶対読めないと思うが、音威子府(おといねっぷ)と読む。
うん、「作られていた」と過去形で書いてしまった。
もう作られていないんだ。
2022年8月末で、その製造の歴史は終わった。
これは、音威子府そばの幕引きのギリギリのところで足掻いた僕の物語である。
ひとつの歴史の終わる悲しい話ではあるが、もしこの記事を読んであなたが「ぜひ食べてみたい」と思った場合、今なら可能性はゼロではない。
興味を持ったのであれば、ぜひチャレンジしてみてほしい。
だって、もう二度と食べることはできないのだから。
失って初めて気付くこと
人口わずか600人台、大きな北海道の中にある小さな小さな村、音威子府村。
かつて何度か訪問した。音威子府そばの幟も目にしている。
しかしそばを食べたことはなかった。
「ふーん、そばもあるのか」と思った程度だ。
北海道だから海鮮やジンギスカンのほうに心を惹かれていたのだ、きっと。
昨年の2021年2月、音威子府駅で90年間の長きに渡ってそばを提供してきた「常磐軒」のおじいちゃんが亡くなり、店は閉店となった。
思い返せば、このあたりで嫌な予感がしていたよね。
「道の駅 おといねっぷ」も音威子府そばを食べられるスポットではあるが、近年は食堂が休業したり再開したりと、不安定であったしな。
2022年4月、さらに衝撃的なニュースが日本中を駆け巡った。
音威子府そばを作る唯一の製麺所、「畠山製麺」もオーナーさんが高齢のため、2022年8月末で製造終了するというのだ。
後継者はいない。
終わった。もう終わりだこれ。
今までスルーしてしまっていた音威子府そば、一度でいいから食べてみたい。
そりゃ「今まで見向きもしなかったのに飛びつくのかよ、ミーハーだな」って思われるかもしれない。
でも、人間なんてそんなもんでしょ。
あなただってさ、もし「石焼きイモは法的に禁止になったので10月末で消滅します」とか言われたら、最後だからと必死になって石焼きイモの軽トラを追いかけ、購入するでしょ?
今まで「うるせーな」くらいにしか思っていなかったのに。
焼きイモがなくなったって死にはしないのに。
そんなもん。
別れのときに「さよなら」を言うのと同じくらい、自然な感情だと思うよ。
畠山製麺の廃業予定が発表された2022年4月末、音威子府村の老舗食堂「一路食堂」も閉店した。
音威子府そばを提供する貴重なお店だ。
これヤバい。
駅そばの常盤軒もなくなってしまったし、一路食堂もないとしたら、もう音威子府村でそばを食べられるのは「道の駅 おといねっぷ」内の食堂だけ??
「天塩川温泉」も出していたっけ??
すぐにでも音威子府村に行きたい。
道の駅おといねっぷも、音威子府そばの提供は8月31日までと発表した。
もうカウントダウンは始まっている。
僕も8月にどうにか北海道へ…!!
無理。
行けなかった。
予定の1週間前まで調整したけど、お仕事忙しくて無理だった。
どうすんのさ、これ。
しょうがない、奥の手を使うか…。
四谷:「音威子府TOKYO」
北海道以外で音威子府そばを食べられるお店、わずか数店だがある。
その1つが東京都心、四谷の「音威子府TOKYO」というお店だ。
有名そば店をいろいろ渡り歩いてきたオーナーさんが、音威子府そばの魅力にほれ込み、畠山製麺に直談判して開店したお店。
音威子府村から数日置きに音威子府そばを空輸で仕入れている、ホンモノのお店だ。
期待値、MAX。
本来であれば本場北海道で食べたかったが、ここなら味は間違いないだろう。
8月も残り数日となったある日、僕はここを訪れた。
さすが都心一等地。
住宅事情も厳しいのか、お店の間口が狭い。上の写真のドアの部分だけだ。
ドキドキワクワク。
カウンター7席・座敷8席ほどの小さなお店だ。
コロナ禍なので現在はもっと席数を絞っている様子だ。
ちなみに夜は予約が必要らしいぞ。
ざるそばをオーダーした。
かけそばもあり、本場北海道は寒い時期が多いので温かいかけそばのほうが主流とのことだが、2022年8月の猛暑はえげつないのだ。
ここはすまないがざるそばにさせてほしい。冷たい方が味がわかりやすしいしさ。
「音威子府村取扱説明書」というシートがカウンターの席ごとに置かれている。
音威子府村の地図と名所が描かれている。
あぁ、いいなー、音威子府村。
僕はそばを待ちながら北の大地に思いを馳せる。
駅そばの常盤軒、8月20日・21日の2日間だけ、最後の復活を遂げたのだ。
もちろん、僕はそこにも行くことは叶わなかった。
ニュースで見て切ない気持ちになっていた。
そのそばをこれから食べることができる。ようやく夢が叶う。
オーナーさんがそばを茹でる姿をカウンター越しに眺める。
お通し(?)でおからが出てきた。
ふむ、おいしい。素朴な味わいで、ほっこりする。
サービスで炊き込みご飯もつくらしく、どうするか聞かれた。
もちろん僕は「ください」と回答した。
コーンの炊き込みご飯だ。北海道らしいな。
ほのかな甘みがクセになる。ひとくちで胃が活性化してきた。
来た。音威子府そば。
真っ黒でかなり太い麺だ。
なぜ黒いのかというと、そばの実を甘皮ごと製粉するためだ。
あとはなんやかんやするそうだけど、企業秘密なんだってさ。
音威子府村で収穫されたそば、それを「特A~E」に分類し、その「特A」だけが音威子府そばになれる。
そんなエリートのそばなのだ。
つゆを漬けずにそのまま食べてみた。
弾力があり、そして香ばしく感じた。そばの風味がとても強い。なんだこれ。
つゆに漬け、わさびもつけてみた。
でもそばの風味はそれらに負けない。味のコラボレーション。
なんだこれなんだこれ、うまいぞ!!
オーナーさんがそば湯を持ってきてくれた。
「音威子府そばは、そば湯に栄養満点のエキスが溶け出ているし、おいしいからぜひ飲んでみてほしい」と言われた。
うま。
そば湯がうまいと感じたのは初めてだ。
そば湯なんて、そばつゆを割るために存在してるものとしか感じていなかった。
だけども、このそば湯はとても香ばしい。
そば茶を飲んでいるような感覚。
今回ばかりはそばつゆ、ジャマだオマエ。
そばつゆがなくなった状態でもそば湯を飲んだ。
極上だった。やすらぎってこういうことか。
誰かが店員さんに「製麺所が閉まっちゃうと聞いたのですが、今後どうするのですか?」と聞いていた。
「うーん…。まだそれなりに在庫はストックしているのですが、ちょっとその後のことは…。」って口を濁していた。
「音威子府」を店名に冠したそば屋さん。
願わくば、1日でも長くそのアイデンティティを保持してほしい。
すごくおいしかった。ごちそうさまでした。
青梅:「ぎん鈴旅館」
中はまるで北海道
9月も中旬に入った。
8月末で道の駅おといねっぷでの音威子府そばの提供も終わった。
こうして畠山製麺は製造を終え、北海道内のスーパーでは最後の音威子府そばを買う人々も多かったようだ。
一路食堂は4月末で営業は終えているが、たまーにWebにて数量限定で音威子府そばを売り出していた。
しかし数秒で売り切れるような状態であり、その販売も終了した。
北海道外では千葉にも音威子府そばが食べられるお店があったそうだが、そこでの提供も終わった。
場所は東京の西部、青梅市。
青梅の中でも、もう奥多摩と呼んでもいいような山間部に僕は来た。
なぜかというと、9月中旬現在でも音威子府そばを出しているお店がここにあるからだ。
旅館という名前ではあるが、食堂もやっている。
フラリと立ち寄って気軽におそばを食べることが可能なのだ。
こんなドライブ日和の秋晴れの日に来ることが出来てうれしい。
今日は家族を連れてきた。
四谷の音威子府TOKYOでの感動を共有したくってさ。
車道のある表側から、山々を見渡す裏手側に回り込む。こっちが入口なのだ。
この写真左手は深い谷になっていて、そこには「多摩川」の上流部分がサラサラと流れていていいロケーションだ。
ぎん鈴旅館、なんという迫力だ。
ご飯を食べるときって雰囲気はとても重要だもんね。
そういう意味ではこのお店、もうこの時点で100点。
玄関に入るとこんな感じだ。
「← そば処」という表示が階段にある。なるほどあっちか。
ちょうど女将さんも出てきて、そばを食べたいと告げると座敷席に導いてくれた。
わわっ。
座敷まで行く途中に「ゆ」って書かれたゾーンがある。
お風呂だ。さすが旅館だ。
そして左手の壁を見てほしい。
もう北海道好きな人ならみんな知っているよね。
日本最北端「宗谷岬」の到達証明書だ。2つもある。
正面の壁には、函館新幹線・宗谷岬・「ノシャップ岬」の写真もある。
ふふふ、本当に好きなんだな、北海道。こっちまで笑顔になる。
クランクになった縁側の突き当りが、座敷席への入口だ。
外が良く見える、6グループ分の席が用意されていた。
外の駐車場には車は停まっていなかったので無人かと思ったら、先客が2グループいたよ。
壁の一角。
「北海道より生めんを直送しています。(秘伝の黒いそば)」と書かれている。
その左側には、夕張駅の写真、日本最東端の東根室駅の写真、そしてその下に…。
音威子府村内の写真だ!!うおぉ!!
音威子府駅!!その中の常盤軒!!
そして一路食堂!!
うわぁぁぁぁ!!
僕が先月見たかったスポットたち!
チクショウ、行きたかったけどさ、こうやってぎん鈴旅館の中を見てみると、もうここ北海道じゃない?もうこれ北海道でよくね?
テンションMAXになってきた。
絶品、天ぷらそば
音威子府そばのメニューは、ざる・ざるトロロ・月見・天ぷら・ニシンなどがあった。
今回はただのざるではないものをオーダーしたいが、あくまでそばを味わいたいので、それをジャマしないものがいい。
サイドポジションに収まってくれる天ぷらそばにした。
メニューの冊子には音威子府そばのことがいろいろ書かれている。
待っている間にそれを読もう。
近年では、前項の音威子府TOKYOさんなども誕生したが、この記事が書かれた時代(正確に確認するのを忘れた)では、『音威子府そばの取り扱いを関東圏で唯一認めらてているお店』として、ここが掲載されている。
すげーな、ここ。
冒頭の説明文、一部を省略しつつもちょっとご紹介しよう。
― 製造元の畠山製麺が廃業となり約100年の歴史に幕を下ろします。
それに伴い、音威子府そばの仕入れも9月以降は出来なくなります。
音威子府村では2021年2月7日に駅そば常盤軒が店主逝去で閉店。街道筋の一路食堂も2022年4月末で閉店し、村内で音威子府そばを食べられるのは道の駅レストラン「天北龍」と天塩川温泉(音威子府村住民保養センター)の僅か2ヵ所のみとなりました。
1998年秋より20数年に渡って音威子府そばを提供して参りました当店といたしましても製造元廃業の知らせは正に青天の霹靂でした。
独特の真っ黒なそばは在庫限りとなります ―
泣ける。読んでて泣けてくる。
特に思い入れがあるわけでもなく、ミーハーな理由で食べに来ただけだが、それでもグッと来るよ。うん、来るんだからしょうがない。
そうこうしているうちに天ぷらそばがやってきた。
うわぁ、すごく美しい…。
このタイミングで、女将さんといろいろお話することができた。
昨日(あえて詳細な日はここには書かないけど、)最後の畠山製麵からの入荷をしたらしい。
もう通常店舗に品卸しはしていないんだけど、付き合いの古いぎん鈴旅館さんは特別にこのタイミングでちょっと多めに入荷できたそうなのだ。
それにこれまでの分もある程度保存してあるので、もうしばらくは音威子府そばを提供できるそうだ。
たぶん10月は。うまくいけば11月に入るくらいまでは。
…とのだった。
女将さんに「北海道好きだから来れて嬉しい。てゆーか、数日後には北海道行きたい。」みたいなことを言い、音威子府そばを食べた。
うまい。やっぱ香りがいい。
そばの香り、外から吹く東京の外れの山々の香り。なんか最高だ。
もちろん天ぷらもサクサクで最高だった。
ここでもそば湯が出てくる。
とてもおいしい。お茶代わりに飲めちゃう。
そばも天ぷらもそば湯も、同行者に好評だった。紹介できてよかった。
東京都内ではあるが、まるで旅しているかのような気分になれた。
窓の外の光景は、そう思えるくらいにステキだった。
女将さんが言う。
「音威子府そばが本当に無くなっちゃった後のことなんだけど。つい先日ね、次のおそばの契約が決まったの。息子は挨拶をしに、北海道に行っているの。」
そっか、よかった。
僕はこの次のおそばがどこのものかをそのとき聞いて知っているが、あなたにはまだナイショにしておこう。
…ところでだ!
メニュー冊子のここを見てほしい。
音威子府そばのお土産販売もやっているのだ。
マジか。
もう絶滅間際なのに、販売しちゃっていいの?ホントにやっているの?
女将さんに聞いてみると、「売っているわよー。いいわよー。」みたいな感じだった。
なら買う。
僕らの分ではなく、親たちの分だ。
最後かもしれないからな、食べてみてもらいたい。
冷凍してしばらくは持つものかと思ったら、大将が渋い顔をして「できなくはない。でも基本は冷蔵で1週間だ。」って言う。
はい、わかったよ。
その道のプロがそういうのであれば、速攻で届けるわ。
Webでは冷凍方法などの記事も見たことがあるが、やはり冷凍しないほうがおいしいのだろう。
せっかくだからおいしいうちに食べてもらわないとね。
お礼を言い、紙に巻かれたそばを大事に抱えて、ぎん鈴旅館を後にした。
音威子府村、聖地巡り
その数日後だ、僕が北の大地に旅立ったのは。
やっぱさ、ここに来なきゃだよね。
例えもうそばがなくっても、「さよなら」を言わなきゃだよね。
日本6周目の北海道北半分の海岸線は既に前回以前に全て走っている。
だからわざわざ道北まで足を運ぶ必要はないのだが、やっぱ来ちゃった。
シャッターの閉まった一路食堂。
この曇天と相まって寂しい光景だよな。入ってみたかったな。
車でわずか数分の音威子府駅に到着した。
中に入ってみよう。
常盤軒…。
創業1933年、90年近く続いた老舗そば屋の最後の姿だ。
「閉店」の貼り紙が悲しいね。
駅内には「天塩線資料室」というコーナーがあるので、ちょっと覗いて見た。
これまで音威子府駅が、そして天塩線が歩んできた歴史が詰まっていた。
音威子府そばも、この歴史の貴重な1ページに違いない。
駅から200mたらずの距離にある、道の駅おといねっぷにやってきた。
8月31日まで音威子府そばを提供していたレストラン「天北龍」が、この中にある。
レストランは現在、人手不足のために13時ラストオーダーだしメニューはラーメンしかないという、なかなかに厳しい状況だ。
フラリとやってきた人が、メニューをノールックで「そば1つー」と言っていた。
店員さんに「そばは8月末で終わりまして…」と言われていた。
悲劇。
たった3週間前までは当たり前だったかつての日常は、もうここにはないのだ。
最後に、畠山製麺だ。
看板もないしシャッターも閉まっていて、ここが製麺所とわかるものは何もないが、調べた限りここが製麺所だと思う。
およそ100年間、ありがとうございました。
僕が音威子府そばに本気で向き合えたのは、ほんのこの数週間だったけど、それでも感謝の気持ちは大きい。
そして、思い出はずーっと大事にする。
いつの日か、誰かがこの幻の黒いそばを復刻させるかもしれない。
うん、そんな日が来ると信じている。
だけども、唯一の製造元の畠山製麵が後継者を取らず廃業した時点で、いったん歴史は終わりとなるのだろう。
切ないけど、終わり。
― これは、その歴史の最後の灯火を追いかけた物語。
以上、日本6周目を走る旅人YAMAでした。
住所・スポット情報
音威子府TOKYO
- 名称: 音威子府TOKYO
- 住所: 東京都新宿区舟町3-6 今塚ビル1F
- 料金: ざるそば¥980他
- 駐車場: なし。近くのコインパーキングを使用のこと。
- 時間: 火~金、祝前日: 11:30~14:0017:00~23:00 土、日: 11:30~14:3017:00~23:00
ぎん鈴旅館